そこにあったはずの愛
第七十二話 すべてを、話す
それから、玲依は何度も、祖母の家へ通った。
一度、はっきりと拒まれても、次の日には、また同じ道を歩いた。
雨の日も、風の強い日も、玲依はその一軒家の前に立ち続けた。
祖母は、そのたびに多くを語らず、ただ玲依を見つめるだけだった。
けれど、その視線の中の、値踏みするような険しさは、日を追うごとに、少しずつ和らいでいった。
七度目に訪れた日のことだった。
いつものように、玄関先で頭を下げようとした玲依に、祖母は静かに言った。
「今日は、会わせます」
その一言に、玲依は息を呑んだ。
「本当に、良いんですか」
「あんたの本気は、もう十分、分かった」
祖母は、そう言うと、引き戸を開け、玲依を家の中へと招き入れた。
――
居間に、凛が座っていた。
その姿を見た瞬間、玲依の胸が強く締め付けられた。
以前より、少し痩せた気がした。
けれど、目の下の影は、少しだけ薄くなっていた。
「玲依、さん」
凛の声が掠れていた。
信じられない、というように、玲依を見つめている。
「久しぶり」
玲依は、そう言うのが精一杯だった。
祖母が、静かに席を立った。
「二人で、ゆっくり話しなさい」
そう言い残し、居間から出て行った。
――
二人きりになった部屋に、しばらく沈黙が流れた。
けれど、玲依は、その沈黙を自分から破った。
「どうして、いなくなったの」
まっすぐに凛を見つめて、そう尋ねる。
ずっと聞きたかったことだった。
――
凛は、しばらく俯いたまま、動かなかった。
やがて、絞り出すように口を開いた。
「玲依さんに、どうして隠してたの、って聞かれた時」
凛の声が震えていた。
「俺、責められてるって、思っちゃったんだ」
玲依は、黙って、その言葉の続きを待った。
「本当は、こんな、惨めな生活してる自分を、知られたくなかった。それが、ばれて」
「もう、玲依さんに、呆れられたと思った」
「見捨てられるって、思った」
凛は、そこで一度、言葉を止めた。
呼吸を整えるように、深く息を吸う。
「玲依さんが好きなのは、ちゃんとした大学生の、俺だと思ってた」
その一言に、玲依の胸が鈍く痛んだ。
「本当の、貧乏で、汚れ仕事してる俺のことなんて、好きになるわけないって」
「ずっと、そう思ってた」
「それに」
凛の声が、また詰まった。
「社長さんにも、言われたんだ」
玲依は息を呑んだ。
「この世界で、対等に生きていける自信があるのかって」
――
初めて聞く事実だった。
玲依の中で、何かが静かに繋がっていく感覚があった。
あの頃から感じていた、電話越しの違和感。
言葉数の減った電話。
硬くなった笑い方。
すべてに、理由があった。
「いつ、そんなことを」
玲依が、思わずそう聞いた。
「玲依さんの、会社の前で」
凛は、俯いたまま答えた。
「不安で、どうしようもなくて。会社の前まで、行っちゃったことがあって」
「そこで、初めて会った。社長さんと」
玲依は、言葉を失った。
自分の知らないところで、そんなことが起きていたとは、想像もしていなかった。
「それで」
凛は続けた。
「もう、自分に自信が持てなくなって」
「玲依さんの隣に立つ資格なんて、最初からなかったんだって、思い知らされて」
凛の目に、涙が滲み始めていた。
「三年間、ずっと、そうだった」
「玲依さんに、釣り合う自分でいたくて、必死に取り繕ってきた」
「バイトも、掛け持ちして。寝る時間も、削って」
「それでも、全然、追いつかなくて」
言葉が、次々と溢れ出してくる。
これまで一人で抱え込んできた重さを、堰を切ったように吐き出していく。
――
「本当は、ずっと怖かった」
凛の声が震えていた。
「いつか、本当の自分がばれて、捨てられるんじゃないかって」
「玲依さんに、失望されるんじゃないかって」
「だから、隠すしかなかった」
「隠して、隠して、それでも、ばれてしまって」
「もう、どうしていいか、分からなくなった」
凛は、両手で顔を覆った。
肩が、大きく震えている。
「ごめん」
くぐもった声で、そう繰り返す。
「玲依さんに、ずっと嘘をついてた」
「ちゃんとした自分でいなきゃって、そればっかり考えて」
「玲依さんの、本当の気持ちなんて、一度も、ちゃんと考えようとしなかった」
玲依は、その姿を、じっと見つめていた。
何か言葉をかけたい衝動を、必死に堪えていた。
まだ、凛の言葉は、終わっていない気がした。
「もう」
凛が、涙を拭いながら、顔を上げた。
「玲依さんに、何も、隠したくない」
「これが、全部、本当の俺」
「情けなくて、みっともなくて、あなたに、釣り合わない、本当の俺」
凛は、そこまで言うと、大きく息を吐いた。
長い間抑え込んでいたものを、ようやく、すべて吐き出したように。
――
部屋に、静かな沈黙が戻ってきた。
けれど、その沈黙は、先ほどまでとは違う質感を持っていた。
玲依は、凛の告白の一つ一つを、心の中で丁寧に受け止めていた。
まだ、伝えたいことが、たくさんあった。
けれど、今は、まず、この重さをしっかりと受け止めることが先だった。
玲依は、静かに、凛の隣に腰を下ろした。
言葉はまだ、かけなかった。
ただ、その肩に、そっと触れる。
凛が、その手に縋るように、体を寄せてきた。
これから話すべきことは、まだ、たくさんあった。
けれど、今、この瞬間は、ただ二人で、この沈黙を共有していたかった。
それから、玲依は何度も、祖母の家へ通った。
一度、はっきりと拒まれても、次の日には、また同じ道を歩いた。
雨の日も、風の強い日も、玲依はその一軒家の前に立ち続けた。
祖母は、そのたびに多くを語らず、ただ玲依を見つめるだけだった。
けれど、その視線の中の、値踏みするような険しさは、日を追うごとに、少しずつ和らいでいった。
七度目に訪れた日のことだった。
いつものように、玄関先で頭を下げようとした玲依に、祖母は静かに言った。
「今日は、会わせます」
その一言に、玲依は息を呑んだ。
「本当に、良いんですか」
「あんたの本気は、もう十分、分かった」
祖母は、そう言うと、引き戸を開け、玲依を家の中へと招き入れた。
――
居間に、凛が座っていた。
その姿を見た瞬間、玲依の胸が強く締め付けられた。
以前より、少し痩せた気がした。
けれど、目の下の影は、少しだけ薄くなっていた。
「玲依、さん」
凛の声が掠れていた。
信じられない、というように、玲依を見つめている。
「久しぶり」
玲依は、そう言うのが精一杯だった。
祖母が、静かに席を立った。
「二人で、ゆっくり話しなさい」
そう言い残し、居間から出て行った。
――
二人きりになった部屋に、しばらく沈黙が流れた。
けれど、玲依は、その沈黙を自分から破った。
「どうして、いなくなったの」
まっすぐに凛を見つめて、そう尋ねる。
ずっと聞きたかったことだった。
――
凛は、しばらく俯いたまま、動かなかった。
やがて、絞り出すように口を開いた。
「玲依さんに、どうして隠してたの、って聞かれた時」
凛の声が震えていた。
「俺、責められてるって、思っちゃったんだ」
玲依は、黙って、その言葉の続きを待った。
「本当は、こんな、惨めな生活してる自分を、知られたくなかった。それが、ばれて」
「もう、玲依さんに、呆れられたと思った」
「見捨てられるって、思った」
凛は、そこで一度、言葉を止めた。
呼吸を整えるように、深く息を吸う。
「玲依さんが好きなのは、ちゃんとした大学生の、俺だと思ってた」
その一言に、玲依の胸が鈍く痛んだ。
「本当の、貧乏で、汚れ仕事してる俺のことなんて、好きになるわけないって」
「ずっと、そう思ってた」
「それに」
凛の声が、また詰まった。
「社長さんにも、言われたんだ」
玲依は息を呑んだ。
「この世界で、対等に生きていける自信があるのかって」
――
初めて聞く事実だった。
玲依の中で、何かが静かに繋がっていく感覚があった。
あの頃から感じていた、電話越しの違和感。
言葉数の減った電話。
硬くなった笑い方。
すべてに、理由があった。
「いつ、そんなことを」
玲依が、思わずそう聞いた。
「玲依さんの、会社の前で」
凛は、俯いたまま答えた。
「不安で、どうしようもなくて。会社の前まで、行っちゃったことがあって」
「そこで、初めて会った。社長さんと」
玲依は、言葉を失った。
自分の知らないところで、そんなことが起きていたとは、想像もしていなかった。
「それで」
凛は続けた。
「もう、自分に自信が持てなくなって」
「玲依さんの隣に立つ資格なんて、最初からなかったんだって、思い知らされて」
凛の目に、涙が滲み始めていた。
「三年間、ずっと、そうだった」
「玲依さんに、釣り合う自分でいたくて、必死に取り繕ってきた」
「バイトも、掛け持ちして。寝る時間も、削って」
「それでも、全然、追いつかなくて」
言葉が、次々と溢れ出してくる。
これまで一人で抱え込んできた重さを、堰を切ったように吐き出していく。
――
「本当は、ずっと怖かった」
凛の声が震えていた。
「いつか、本当の自分がばれて、捨てられるんじゃないかって」
「玲依さんに、失望されるんじゃないかって」
「だから、隠すしかなかった」
「隠して、隠して、それでも、ばれてしまって」
「もう、どうしていいか、分からなくなった」
凛は、両手で顔を覆った。
肩が、大きく震えている。
「ごめん」
くぐもった声で、そう繰り返す。
「玲依さんに、ずっと嘘をついてた」
「ちゃんとした自分でいなきゃって、そればっかり考えて」
「玲依さんの、本当の気持ちなんて、一度も、ちゃんと考えようとしなかった」
玲依は、その姿を、じっと見つめていた。
何か言葉をかけたい衝動を、必死に堪えていた。
まだ、凛の言葉は、終わっていない気がした。
「もう」
凛が、涙を拭いながら、顔を上げた。
「玲依さんに、何も、隠したくない」
「これが、全部、本当の俺」
「情けなくて、みっともなくて、あなたに、釣り合わない、本当の俺」
凛は、そこまで言うと、大きく息を吐いた。
長い間抑え込んでいたものを、ようやく、すべて吐き出したように。
――
部屋に、静かな沈黙が戻ってきた。
けれど、その沈黙は、先ほどまでとは違う質感を持っていた。
玲依は、凛の告白の一つ一つを、心の中で丁寧に受け止めていた。
まだ、伝えたいことが、たくさんあった。
けれど、今は、まず、この重さをしっかりと受け止めることが先だった。
玲依は、静かに、凛の隣に腰を下ろした。
言葉はまだ、かけなかった。
ただ、その肩に、そっと触れる。
凛が、その手に縋るように、体を寄せてきた。
これから話すべきことは、まだ、たくさんあった。
けれど、今、この瞬間は、ただ二人で、この沈黙を共有していたかった。