そこにあったはずの愛
第三章
第七十八話 初めての、憧れ以外の感情
「結依、こっちこっち!」
友人の美咲が、パンフレットを片手に、はしゃいだ声を上げた。
結依は、それに、のんびりとついていく。
正直、美大には何の興味もなかった。
絵心なんて、ほとんどない。
けれど、美咲に「一緒に来てよ」と頼まれ、断る理由もなく、今日、このキャンパスに来ていた。
「見て、あの建物、すごくない?」
美咲が、興奮気味に校舎を指差す。
結依は、曖昧に頷いた。
正直、どの校舎も、似たように見えた。
構内を、二人でぶらぶらと歩く。
在校生たちが、あちこちで案内や説明をしていた。
「あ、あそこ、ライブドローイングやってるって」
美咲が、パンフレットを見ながら、そう言った。
「観覧自由、だって。行ってみよう」
特に興味はなかったけれど、結依は、また、なんとなくついていった。
――
中庭に、簡易的なイーゼルとキャンバスが、いくつか並んでいた。
見物客が、その周りを囲んでいる。
結依は、人だかりの隙間から、何気なく、その様子を眺めた。
一人の男子学生が、キャンバスに向かっていた。
さっきまで、受付で案内係をしていたはずの人だった。
さっきは、気さくに笑いながら、学生たちの質問に答えていた。
けれど今、その顔は、まるで別人のようだった。
筆を握る手の動きに、迷いがなかった。
キャンバスを見つめる瞳には、これまで見たことのない、強い光が宿っていた。
結依は、その姿から目を離せなくなった。
時折、前髪をかき上げる仕草。
集中しきった、無防備な横顔。
こちらを、少しも意識していない、その眼差し。
心臓が、どくんと大きく跳ねた。
これまで感じたことのない、種類の感情だった。
「なんか、格好良くない?」
隣で、美咲が、ぽつりと呟いた。
「うん」
結依は、上の空でそう答えた。
自分の声が、いつもより少しうわずっていることに、結依自身、気づいていなかった。
――
筆が、キャンバスの上を滑らかに走っていく。
色が、少しずつ形を持ち始める。
その一部始終を、結依は、瞬きも忘れるほど見つめ続けていた。
やがて、パフォーマンスが一区切りついた。
拍手が、周囲から湧き起こる。
男子学生が、顔を上げ、汗を拭いながら、いつもの気さくな笑顔に戻った。
その切り替わりの早さにも、結依は、なぜか胸が締め付けられた。
「ありがとうございました。質問とか、あれば、どうぞ」
その声に、美咲が真っ先に駆け寄っていった。
結依も、引きずられるように、その後に続いた。
近くで見ると、その人は、思っていたより随分と優しい顔立ちをしていた。
「絵、すごく素敵でした」
美咲が、興奮気味にそう言った。
「ありがとう。嬉しいな」
軽やかな声で、そう返す。
結依は、その様子を、少し離れた場所から、じっと見つめていた。
「お名前、何て言うんですか?」
美咲が、そう尋ねた。
「赤羽、凛です」
赤羽凛。
結依は、その名前を、心の中でそっと繰り返した。
――
質疑応答の時間が終わり、凛は、次の案内へと移っていった。
その後ろ姿を、結依は、しばらく目で追い続けていた。
「結依、行くよ」
美咲に腕を引かれ、我に返る。
「あ、うん」
歩き出しながらも、結依の頭の中には、まだ、あの真剣な横顔が焼き付いていた。
これが、恋というものなのか。
結依には、まだよく分からなかった。
けれど、確かなことが一つだけあった。
これまでの、憧れとも少し違う。
初めて感じる、このそわそわとした気持ちの正体を、結依は、まだうまく言葉にできずにいた。
――
帰り道、電車の窓に夕焼けが映り込む。
その景色を眺めながら、結依の心は、ずっと落ち着かないままだった。
「結依、こっちこっち!」
友人の美咲が、パンフレットを片手に、はしゃいだ声を上げた。
結依は、それに、のんびりとついていく。
正直、美大には何の興味もなかった。
絵心なんて、ほとんどない。
けれど、美咲に「一緒に来てよ」と頼まれ、断る理由もなく、今日、このキャンパスに来ていた。
「見て、あの建物、すごくない?」
美咲が、興奮気味に校舎を指差す。
結依は、曖昧に頷いた。
正直、どの校舎も、似たように見えた。
構内を、二人でぶらぶらと歩く。
在校生たちが、あちこちで案内や説明をしていた。
「あ、あそこ、ライブドローイングやってるって」
美咲が、パンフレットを見ながら、そう言った。
「観覧自由、だって。行ってみよう」
特に興味はなかったけれど、結依は、また、なんとなくついていった。
――
中庭に、簡易的なイーゼルとキャンバスが、いくつか並んでいた。
見物客が、その周りを囲んでいる。
結依は、人だかりの隙間から、何気なく、その様子を眺めた。
一人の男子学生が、キャンバスに向かっていた。
さっきまで、受付で案内係をしていたはずの人だった。
さっきは、気さくに笑いながら、学生たちの質問に答えていた。
けれど今、その顔は、まるで別人のようだった。
筆を握る手の動きに、迷いがなかった。
キャンバスを見つめる瞳には、これまで見たことのない、強い光が宿っていた。
結依は、その姿から目を離せなくなった。
時折、前髪をかき上げる仕草。
集中しきった、無防備な横顔。
こちらを、少しも意識していない、その眼差し。
心臓が、どくんと大きく跳ねた。
これまで感じたことのない、種類の感情だった。
「なんか、格好良くない?」
隣で、美咲が、ぽつりと呟いた。
「うん」
結依は、上の空でそう答えた。
自分の声が、いつもより少しうわずっていることに、結依自身、気づいていなかった。
――
筆が、キャンバスの上を滑らかに走っていく。
色が、少しずつ形を持ち始める。
その一部始終を、結依は、瞬きも忘れるほど見つめ続けていた。
やがて、パフォーマンスが一区切りついた。
拍手が、周囲から湧き起こる。
男子学生が、顔を上げ、汗を拭いながら、いつもの気さくな笑顔に戻った。
その切り替わりの早さにも、結依は、なぜか胸が締め付けられた。
「ありがとうございました。質問とか、あれば、どうぞ」
その声に、美咲が真っ先に駆け寄っていった。
結依も、引きずられるように、その後に続いた。
近くで見ると、その人は、思っていたより随分と優しい顔立ちをしていた。
「絵、すごく素敵でした」
美咲が、興奮気味にそう言った。
「ありがとう。嬉しいな」
軽やかな声で、そう返す。
結依は、その様子を、少し離れた場所から、じっと見つめていた。
「お名前、何て言うんですか?」
美咲が、そう尋ねた。
「赤羽、凛です」
赤羽凛。
結依は、その名前を、心の中でそっと繰り返した。
――
質疑応答の時間が終わり、凛は、次の案内へと移っていった。
その後ろ姿を、結依は、しばらく目で追い続けていた。
「結依、行くよ」
美咲に腕を引かれ、我に返る。
「あ、うん」
歩き出しながらも、結依の頭の中には、まだ、あの真剣な横顔が焼き付いていた。
これが、恋というものなのか。
結依には、まだよく分からなかった。
けれど、確かなことが一つだけあった。
これまでの、憧れとも少し違う。
初めて感じる、このそわそわとした気持ちの正体を、結依は、まだうまく言葉にできずにいた。
――
帰り道、電車の窓に夕焼けが映り込む。
その景色を眺めながら、結依の心は、ずっと落ち着かないままだった。