そこにあったはずの愛
第八十二話 噛み合わない対話
結依の部屋を出て、玲依は階段をゆっくりと降りた。
居間に戻ると、父は、まだ同じ場所に座っていた。
「待たせて、すみません」
「いや」
父は、短くそう答えた。
玲依は、向かいのソファに腰を下ろした。
「さっきの、続きだが」
父が、あらためて切り出した。
「会社を辞めた理由を、聞きたい」
玲依は、言葉を選びながら口を開いた。
「大切にしたいことが、できたんです」
「仕事より、優先すべきことが」
「大切にしたいこと、とは」
父の目が、細められた。
「具体的に、何だ」
玲依は、一瞬、言葉に詰まった。
凛のことを、どこまで話すべきか、まだ心の準備ができていなかった。
「……大切な、人がいます」
短く、そう答えるに留めた。
父は、しばらく無言だった。
「男か」
「はい」
「それだけの理由で、あれだけの仕事を辞めたのか」
父の声には、明らかな不満が滲んでいた。
「三年も、勤め上げた、社長秘書の職を」
「それだけの理由、では、ありません」
玲依は、静かに、けれどはっきりと、そう答えた。
「私にとって、譲れないことでした」
「若い頃の、一時の感情で、判断を誤ることもある」
父は、諭すように続けた。
「安定した立場を、簡単に手放すべきではない」
その言葉に、玲依の中で、何かが静かに冷えていくのを感じた。
「お父さんには、理解できないと思います」
玲依は、そう返した。
「私にとって、何が一番大切か。それは、私が決めることです」
「それは、お前の勝手な言い分だ」
父の声が、僅かに強くなった。
「経済的な基盤もなく、感情だけで動くのは、無責任だとは思わないのか」
「無責任、ですか」
玲依の声も、思わず硬くなった。
「私は、自分の人生を、自分で選んでいるだけです」
会話は、そこで一度、途切れた。
互いに悪意があるわけではない。
けれど、価値観の違いが、はっきりと浮き彫りになっていた。
――
沈黙の中、玲依は、これまでの父との距離を、あらためて実感していた。
一度の対話で埋まるはずもない溝だった。
「……お前は」
やがて、父が静かに口を開いた。
「昔から、そうだった」
「一度、決めたら、誰の意見も聞かない」
その言葉に、玲依は少し驚いた。
責める口調ではなかった。
どこか、諦めにも似た、けれど確かな何かが、そこにはあった。
「危なっかしくて、見ていられない。けど」
父は、そこで一度、言葉を切った。
「お前が、自分で決めたことなら、仕方ないのか」
その一言に、玲依は言葉を失った。
賛成でも、反対でもない。
けれど、これまでの父からは聞いたことのない、種類の言葉だった。
「体調管理くらいは、しっかりしろ。それだけは、言っておく」
父は、そう言うと、ソファから立ち上がった。
会話は、それで終わりだった。
明確な理解も、和解も得られなかった。
けれど、何かが、これまでとは僅かに違っていた。
――
玄関で靴を履く玲依を、継母が見送りに来た。
「また、いつでも来てね」
継母の言葉に、玲依は小さく頷いた。
「お姉ちゃん、また来てよね!」
結依が、二階から身を乗り出すようにして、そう叫んだ。
「うん、また来る」
玲依は、そう答えながら家を後にした。
門を出て、少し歩いたところで、玲依は一度、振り返った。
見慣れた、実家の外観。
けれど、その景色が、今日は少しだけ違って見えた。
すっきりしない気持ちを抱えたままだった。
けれど、その中に、これまでにはなかった、微かな変化の予感も確かに混じっていた。
結依の部屋を出て、玲依は階段をゆっくりと降りた。
居間に戻ると、父は、まだ同じ場所に座っていた。
「待たせて、すみません」
「いや」
父は、短くそう答えた。
玲依は、向かいのソファに腰を下ろした。
「さっきの、続きだが」
父が、あらためて切り出した。
「会社を辞めた理由を、聞きたい」
玲依は、言葉を選びながら口を開いた。
「大切にしたいことが、できたんです」
「仕事より、優先すべきことが」
「大切にしたいこと、とは」
父の目が、細められた。
「具体的に、何だ」
玲依は、一瞬、言葉に詰まった。
凛のことを、どこまで話すべきか、まだ心の準備ができていなかった。
「……大切な、人がいます」
短く、そう答えるに留めた。
父は、しばらく無言だった。
「男か」
「はい」
「それだけの理由で、あれだけの仕事を辞めたのか」
父の声には、明らかな不満が滲んでいた。
「三年も、勤め上げた、社長秘書の職を」
「それだけの理由、では、ありません」
玲依は、静かに、けれどはっきりと、そう答えた。
「私にとって、譲れないことでした」
「若い頃の、一時の感情で、判断を誤ることもある」
父は、諭すように続けた。
「安定した立場を、簡単に手放すべきではない」
その言葉に、玲依の中で、何かが静かに冷えていくのを感じた。
「お父さんには、理解できないと思います」
玲依は、そう返した。
「私にとって、何が一番大切か。それは、私が決めることです」
「それは、お前の勝手な言い分だ」
父の声が、僅かに強くなった。
「経済的な基盤もなく、感情だけで動くのは、無責任だとは思わないのか」
「無責任、ですか」
玲依の声も、思わず硬くなった。
「私は、自分の人生を、自分で選んでいるだけです」
会話は、そこで一度、途切れた。
互いに悪意があるわけではない。
けれど、価値観の違いが、はっきりと浮き彫りになっていた。
――
沈黙の中、玲依は、これまでの父との距離を、あらためて実感していた。
一度の対話で埋まるはずもない溝だった。
「……お前は」
やがて、父が静かに口を開いた。
「昔から、そうだった」
「一度、決めたら、誰の意見も聞かない」
その言葉に、玲依は少し驚いた。
責める口調ではなかった。
どこか、諦めにも似た、けれど確かな何かが、そこにはあった。
「危なっかしくて、見ていられない。けど」
父は、そこで一度、言葉を切った。
「お前が、自分で決めたことなら、仕方ないのか」
その一言に、玲依は言葉を失った。
賛成でも、反対でもない。
けれど、これまでの父からは聞いたことのない、種類の言葉だった。
「体調管理くらいは、しっかりしろ。それだけは、言っておく」
父は、そう言うと、ソファから立ち上がった。
会話は、それで終わりだった。
明確な理解も、和解も得られなかった。
けれど、何かが、これまでとは僅かに違っていた。
――
玄関で靴を履く玲依を、継母が見送りに来た。
「また、いつでも来てね」
継母の言葉に、玲依は小さく頷いた。
「お姉ちゃん、また来てよね!」
結依が、二階から身を乗り出すようにして、そう叫んだ。
「うん、また来る」
玲依は、そう答えながら家を後にした。
門を出て、少し歩いたところで、玲依は一度、振り返った。
見慣れた、実家の外観。
けれど、その景色が、今日は少しだけ違って見えた。
すっきりしない気持ちを抱えたままだった。
けれど、その中に、これまでにはなかった、微かな変化の予感も確かに混じっていた。