そこにあったはずの愛
第八十四話 重なった、二つの顔

その日、結依は、特に理由もなく、大学の最寄り駅で電車を降りていた。

授業帰りだと自分に言い聞かせながら、足は自然と、あの正門の方へと向かっていた。

あの日から、頭の片隅に、小さな棘のようなものが、ずっと刺さったままだった。

玲依のスマホの、あの写真。

輪郭だけしか見えなかった、あの男性。

どこかで見たことがある気がする、という、あの拭えない感覚。

考えても、答えは出てこなかった。

けれど、こうしてなんとなく大学に足が向いてしまうのは、その引っかかりのせいなのか、それとも、単純に凛にまた会いたいという気持ちのせいなのか、結依自身、よく分からなかった。

正門をくぐり、キャンパス内の並木道を、ゆっくりと歩く。

制作展示の準備をしているのか、あちこちに、大きな作品ケースを抱えた学生たちの姿があった。

長い筒状のポスターケース。

美大生たちが、作品を持ち運ぶ際に使う、あの独特な形状のものだった。

その中に、凛の姿を見つけられないかと、結依は無意識のうちに、視線を巡らせていた。

――

正門から少し入ったところ、校舎の入り口付近に、一人の女性の後ろ姿が目に留まった。

結依は、思わず足を止めた。

すらりとした立ち姿。

品のある、けれど、どこか隙のない佇まい。

肩まで伸びた、艶やかな黒髪。

見覚えのない女性だった。

けれど、その後ろ姿には、なぜか目を引きつけられる何かがあった。

女性は、校舎の入り口で、誰かを待っているようだった。

手には、細長い作品ケースを、大切そうに抱えている。

しばらくして、校舎の中から、一人の男子学生が、駆け足で出てきた。

その姿を見た瞬間、結依の心臓が大きく跳ねた。

凛だった。

「玲依さん、ごめん、待たせた?」

凛の声が、風に乗って、結依のところまで届いた。

玲依さん。

その名前が、結依の頭の中に、じんわりと染み込んでいった。

「ううん、全然」

女性が、そう答えながら、抱えていた作品ケースを凛に差し出した。

「はい、これ。忘れ物」

「本当、助かった。ありがとう」

凛が、ケースを受け取りながら、その女性に向けて、屈託のない笑みを浮かべた。

結依が、これまでに何度も見てきた笑顔だった。

けれど今、その笑顔が、自分にではなく、目の前の女性に向けられている。

その事実に、結依の胸が鈍く痛んだ。

二人は、そのまま、何か他愛のない会話を交わし始めた。

距離感が、あまりにも自然だった。

長い時間をかけて積み重ねてきたことが、一目で分かるような、親密な空気。

結依は、その光景から目を離せずにいた。

同時に、頭のどこかで、小さな警鐘が鳴り始めていた。

やがて、何かのきっかけで、女性が、笑いながら横を向いた。

その横顔が、結依の視界に、はっきりと映った。

――

時が止まったような感覚だった。

見間違えるはずのない顔だった。

物心ついた頃から、ずっと憧れ続けてきた、あの綺麗な顔。

「……お姉ちゃん」

その言葉が、結依の口から、自分でも気づかないうちにこぼれ落ちていた。

声には出さなかった。

けれど、唇だけが確かに、その三文字をなぞっていた。

最初に、結依の中を占めたのは、単純な驚きだった。

なぜ、お姉ちゃんが、ここに。

けれど、その疑問は、すぐに別のものへと姿を変えていった。

さっきの、二人の距離感。

自然に交わされていた会話。

そして、玲依のスマホに設定されていた、あの寄り添う写真。

その全てが、結依の頭の中で、音を立てて一つに繋がっていった。

まさか。

結依は、その場から動けなくなった。

声を出すことも、できなかった。

視界の中で、玲依と凛が並んで歩き出す。

その後ろ姿を、結依は、ただ呆然と見つめ続けていた。

心臓が、痛いくらいに脈打っていた。

頭の中が真っ白で、何も考えられなかった。

これまで抱いてきた、初めての恋心。

そして、ずっと憧れてきた姉の存在。

その二つが、今、あまりにも残酷な形で重なり合っていた。

――

結依は、その場に立ち尽くしたまま、二人の姿が、キャンパスの向こうに消えていくのを、ただ見送ることしかできなかった。
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