そこにあったはずの愛
第八十六話 ずっと、知ってた

玄関のドアが閉まる音が、部屋の中に、いつまでも響いているような気がした。

玲依は、しばらく、その場から動けなかった。

けれど、次の瞬間、体が勝手に動いていた。

サンダルを引っかけ、部屋を飛び出す。

このままにしておけない。

その一心だった。

エレベーターを待つ間も、じりじりとした焦りが玲依の胸を焦がした。

一階に降り、エントランスを抜け、通りに出る。

結依の後ろ姿は、まだ遠くには行っていなかった。

「結依っ」

玲依は、声を張り上げ、その背中を追いかけた。

結依の足が止まった。

けれど、振り返らない。

肩が、小さく震えていた。

玲依は、息を切らしながら、結依の横に辿り着いた。

「待って」

「……なんで、追いかけてくるの」

結依の声は、掠れていた。

「話が、途中だった」

玲依は、そう言いながら、結依の顔を見ようとした。

けれど、結依は、俯いたまま、顔を上げなかった。

「話、なんて、もう、いい」

「結依」

「……知ってるよ」

結依が、ぽつりと、そう漏らした。

「え?」

「お姉ちゃんが、私と、お母さんが違うってこと」

その一言に、玲依の全身から、一瞬、血の気が引いた。

――

「三年前から、知ってた」

結依が、ゆっくりと顔を上げた。

涙で濡れたその目に、これまで見たことのない、強い光が宿っていた。

「お姉ちゃんが、家を出た日。私、お母さんの鏡台、勝手に開けたの」

「何気なく、開けただけだった」

「そこに、母子手帳が入ってた」

玲依は、言葉を失ったまま、結依を見つめていた。

「私の分と、お姉ちゃんの分。二冊」

「開けたら、お姉ちゃんの分だけ、お母さんの名前の欄が違ってた」

結依の声が、震えを帯びながらも止まらなかった。

「最初は、意味が分からなかった」

「けど、それまでの、お姉ちゃんの態度、全部繋がった気がした」

「いつも、優しいのに。どこか、一線引いてるみたいな」

「あれ、そういうことだったんだって」

玲依は、何か言葉を返そうとした。

けれど、声が出てこなかった。

喉の奥が、からからに乾いていた。

「どうして、言ってくれなかったの」

結依の声が、次第に大きくなっていく。

「私がお姉ちゃんと、異母姉妹だって分かったら」

「お姉ちゃんのこと、嫌いになるとでも、思った?」

「気づかないふりするの、しんどかったんだからね」

その言葉の一つ一つが、玲依の胸に鋭く突き刺さっていった。

「けど」

結依は、そこで一度、言葉を詰まらせた。

肩が、大きく上下する。

「それでも」

涙を拭うことなく、続ける。

「私にとって、お姉ちゃんは、ずっとお姉ちゃんだった」

「お母さんが違っても、そんなこと関係なかった」

「ずっと、憧れてた」

その言葉に、玲依の目にも涙が滲み始めた。

「なのに」

結依の声が、また震え始める。

「お姉ちゃんは、私に、何も話してくれなかった」

「嫌われてたのかな、私って」

「ずっと、そう思ってた」

玲依は、その場に立ち尽くしたまま、何も言えなかった。

謝罪の言葉すら、うまく形にならなかった。

あまりに大きすぎる事実が、玲依の思考を完全に麻痺させていた。

――

「もう、いい」

結依は、涙を拭うと、静かにそう言った。

「今日は、帰る」

「結依、待っ」

玲依が、手を伸ばそうとする。

けれど、結依は、その手を振り払った。

「触らないでっ」

結依は、それだけ言い残すと、背を向け、駆け出していった。

その後ろ姿が、夕暮れの街に、次第に小さくなっていく。

玲依は、追いかけることもできなかった。

ただ、その場に立ち尽くしていた。

頭の中が真っ白だった。

三年間、自分だけが知っていると思っていた秘密。

その秘密を、結依は、同じ三年間、一人で抱え続けていた。

その事実の重さが、今、ようやく玲依の中に染み込んできていた。

――

夕暮れの光が、街を橙色に染めていく。

その景色を、玲依は、ただ呆然と見つめ続けていた。
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