そこにあったはずの愛
第九十三話 父の、揺れた心

継母の話が、一区切りついた。

リビングに、静かな沈黙が流れる。

その沈黙を破ったのは、父だった。

「実は」

父が、静かに口を開いた。

「俺にも、迷いが、あった」

その一言に、玲依は父へと視線を移した。

「結香との、結婚を決めた時」

父は、言葉を選びながら続けた。

「あれは、玲依のための結婚だった」

「結香が、玲依の母になりたいと、言ってくれた。その想いに、応えたいと思った」

父の声には、当時の感謝の念が滲んでいた。

「けど」

父は、そこで一度、言葉を切った。

「結香が、妊娠したと知った時」

その声が、僅かに揺れる。

「正直、複雑な気持ちだった」

「玲依への、申し訳なさが、あった」

父は続けた。

「あの結婚は、玲依のためのはずだったのに。俺たちの間に、子供ができるなんて」

「これで、いいのかと、何度も自問した」

玲依は、その言葉をじっと聞いていた。

「けど、同時に」

父の表情が、少し和らいだ。

「生まれてくる、命への想いも、抑えられなかった」

――

「結香が、堕ろした方がいいと相談してきた時」

父は続けた。

「その、配慮には感謝した」

「玲依のことを、そこまで考えてくれてるのかと」

「けど」

父の声に、確かな強さが宿った。

「俺は、どうしても、生まれてくる命を諦めたくなかった」

「玲依も、お腹の子も、同じ、俺の子供だ」

「どちらか一方を、選ぶことなんて、俺にはできなかった」

その言葉に、玲依は、これまで知らなかった、父のもう一つの顔を見た気がした。

厳格で、感情をあまり表に出さない父。

けれど、その内側には、同じように、悩み、葛藤し続けてきた、一人の人間の姿があった。

「産むように、と言ったのは」

父は、静かに続けた。

「結香への、指示でも、命令でもなかった」

「俺自身の、切実な願いだった」

継母が、その言葉に、静かに頷いた。

「あの時の、あなたの言葉に」

継母が、そう続けた。

「私も、救われた」

「一人で抱えてた迷いを、一緒に背負ってくれてる気がして」

その言葉に、父は、小さく微笑んだ。

「当然だろう」

父は、そう言った。

「家族の、ことだから」

――

玲依は、その、両親のやり取りを、じっと見つめていた。

これまで知らなかった家族の歴史。

その一つ一つに、確かな想いが込められていたことを、玲依は、今、深く噛み締めていた。

すべての過去が、今、出揃った。

けれど、まだ語られていないことが、一つ残っていた。

玲依自身の、心の中にある、長年の距離感。

その理由を、今度は、玲依自身が語る番だった。

リビングの空気が、静かに玲依へと向けられていた。
< 93 / 120 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop