昨日までの片想い

昨日までの先輩(四)

 自分の感情がよく分からない、なんて詩(うた)みたいなことを言いたいわけじゃない。
 でも、昨日からずっと考えている。
 荒井君と別れたあとの帰り道は、思っていた以上に静かだった。今までも一人で帰ることなんて何度もあったはずなのに、数日前までのことすら上手く思い出せない。
 家へ帰ってからも、森さんと歩いていった荒井君の背中と、そこへ伸ばしてしまった自分の手ばかりが頭に残った。結局、答えが出ないまま夜が明けた。
 そして昼休み。
 クラスメイトと弁当を食べていると、廊下から先生に呼ばれた。

「新藤さん。お昼にごめんなさい。これ、お昼の間に一年生のマネージャーに渡しといてもらえる?」

 渡されたのは、テスト明けのスケジュールが書かれたプリントの束だった。
 私の返事を待つこともなく、先生はそのまま廊下の向こうへ消えていく。

「まだ、食べ終わってないんだけど……」

 呟いたところで、届くはずもない。
 席へ戻ると、「残すなら頂戴!」と友人たちが弁当へ箸を伸ばしてくる。それを避けながら蓋を閉じ、三十枚ほどのプリントを抱えて、一年生の教室がある一階へ向かった。

「確か……三組だっけ」

 昼休みの階段も廊下も、生徒で溢れている。
 二年生の私が一年生の階を歩いているだけで、何人かの視線がこちらへ向く。
 居心地が悪い。やっぱり他学年の階は嫌いだ。

「先輩、なんで一年の廊下にいるんすか」

 人混みを抜けている途中、突然声を掛けられた。
 知らない顔。

「邪魔」

 それだけ言い残して横を通り過ぎる。
 背後から何か言われているけれど気にせず、クラスプレートを確認しながら歩いていく。
 一年三組。
 目的の教室へ辿り着き、マネージャーへ連絡しようとしてから、携帯を教室へ置いてきたことを思い出した。

「……最悪」

 教室の中を覗いて、マネージャーの名前を叫ぶ必要がある。
 注目を浴びることが確定している行動に憂鬱な感情を抱きながら、諦めて教室の中へと視線を向けたその時。

「なんだ。先輩、うちのクラスに用すか?」

 さっきの男子が、また隣へ現れた。ずいぶん馴れ馴れしい。
 しかし、都合が良い、と考えを切り替える。

「そうなの。申し訳ないけど、サッカー部の──」
「サッカー部……荒井っすか! 了解です」
「いや、ちが──」

 止めるより早く、教室中に声が響いた。
 
「おーい、荒井!」

 違う。呼んでほしいのはマネージャーだ。
 ただ、それを訂正するより先に、彼の声に反応した生徒達がこちらを向く。
 この中に荒井君がいるというのか──心の準備すら出来ていないのに。いや、何の準備が必要だと言うのだ。
 教室の中へ視線を向ける。しかし、その中に荒井君の姿は見つけられなかった。

「荒井なら、森と職員室行ってたぞ」
「藤木先生に一緒に質問しに行くんだと」
「あいつもお人よしだよなー。そんなの一人で行かせればいいのに」

 森。
 その名前に、今度は胸の奥が僅かに詰まった。
 昨日の光景が蘇る。自然に笑う荒井君と、その隣にいた女の子。

「……これ、教卓の前で弁当食べてるあの子に渡して。二年の新藤からって言えば分かると思うから」
「え、あ、はい」

 教室を覗いた時に見つけたマネージャーの姿。伝言と一緒に、プリントの束を押し付けるように渡し、そのまま教室を離れた。
 廊下を抜ける。
 階段の前を通り過ぎる。
 気付けば昇降口まで来ていて、そのさらに奥にある自販機スペースへ足を向けていた。お茶と、どうして売っているのか分からない不人気そうな飲み物ばかりが並ぶ場所には、人の姿がない。
 近くのベンチへ腰を下ろし、そのまま天井を見上げる。

「何やってるんだろ、私」

 荒井君の名前を聞いただけで、教室の中から姿を探した。
 森さんの名前を聞いただけで、胸が苦しくなった。
 まるで。

「……いやいや」

 私は首を振る。
 早瀬先輩のことは、今でも好きだ。思い出せば、振られた日の痛みだって蘇る。

「だから……違うでしょ」

 自販機の低い機械音と、遠くから聞こえてくる生徒たちの声。
 頭上の時計が、カチ、カチ、と一定の音を刻んでいる。
 その中で、荒井君の顔を思い浮かべる。
 頼りなくて。よく空回りして。いつも誰かの心配ばかりしていて。
 でも。
 困っている人を見つければ、当たり前みたいに手を差し伸べる。

「……別に」

 誰に聞かせるでもなく呟いた。

「荒井君は、誰にでも優しいし」

 それだけだ。
 きっと。

「そう。だから──」

 その時、廊下から足音が近づいてきた。
 顔を向ける。
 荒井君。その隣には、森さん。
 二人は何かを話しながら歩いていた。
 荒井君は自然に笑い、森さんも楽しそうにその顔を見ている。
 昨日と同じ光景。

「あ、あれ! 先輩、何でこんな所に!」

 私に気付いた瞬間、荒井君の表情がぱっと明るくなる。
 そして、さっきまで普通に喋っていたのが嘘みたいに、途端に声がぎこちなくなった。
 その変化が可笑しくて、つい笑ってしまう。

「うーん。ちょっと色々考えごと。まぁ、私のことはいいからさ。二人で話しててよ」
「は、はい」

 二人の会話が再開する。
 荒井君は森さんの話を聞き、時々相槌を打っていた。
 以前、「話を聞くのは上手なのにな」と友達から言われたらしい。
 たしかに、その通りなのだと思う。
 森さんは楽しそうだった。荒井君も、自然に笑っている。
 それを見ていると。
 面白くない。何が、と聞かれたら困る。
 でも。
 面白くない。
 午後の授業開始を知らせるチャイムが鳴った。

「あ、森さん、戻ろっか」
「うん」

 二人が踵を返す。
 荒井君は数歩進んでから、何かを思い出したように振り返り、こちらへ戻ってきた。

「きょ、今日は一緒に帰れますか?」

 真っ直ぐな目だった。
 こんな顔を向けられて、それでも好意に気付かなかったら、さすがに鈍感すぎると思う。
 昨日は、もう二人で帰るのをやめようとした。
 距離を置こうと思った。
 なのに。

「うん。今日は一緒に帰ろっか」
「はい!」

 荒井君の顔が、一瞬で明るくなる。
 そのまま森さんのもとへ駆けていき、二人で教室へ戻っていった。

「……森さん、ごめん」

 小さく呟いてから、溜息を吐く。
 早瀬先輩を好きだった気持ちは、まだ残っている。思い出せば、今でも胸は痛む。
 でも。
 森さんといる荒井君を見て、面白くないと思った。
 昨日は、離れていく背中を呼び止めようと手まで伸ばした。
 今日は、もう距離を置こうと思っていたのに、誘われた瞬間、嬉しくなった。

「……あぁ」

 小さな自嘲。

「これ、私の方が好きじゃん」

 時計の秒針だけが響く自販機前で、私はしばらく天井を見上げたまま動けなかった。
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