昨日までの片想い

昨日までの先輩(三)

「ねぇ。この前、私に『可愛い』って言ってくれたじゃん?」

 放課後の図書室。
 三学期末のテストを控え、部活動は禁止期間に入っている。そんな中、私は柄にもなく図書室へ残り、そのうえ後輩の男の子と二人で勉強会なんてものまでしていた。

「い、言ってません!」
「言ってくれてないんだ?」
「そ、それはっ」

 以前の私なら、こんな時間を過ごしている自分なんて想像もしなかったと思う。
 でも、楽しい。この時間も、この空気も。
 顔を赤くしてあたふたする荒井君を見ながら笑いを堪える。
 机の上には、ほとんど白紙の私のノートと、まだ角の残った消しゴム。その隣では、荒井君が真面目に問題集へ向き合っている。

「ほら、手、止まってるよ」
「せ、先輩だって……先輩、ノート真っ白じゃないですか」

 もっともな指摘を適当に聞き流したところで、十六時を知らせるチャイムが鳴った。

「あ、時間だ」

 都合のいい合図に便乗してノートを閉じる。結局、一度も芯を出さなかったシャーペンも筆箱へしまって。

「ほら、帰るよ」

 名残惜しくなんてない。
 そんな顔をして、私は先に席を立つ。

「あ、ちょ、ちょっと待ってください」

 荒井君が慌てて荷物をまとめ始める。
 そもそも、この勉強会に誘ってきたのは荒井君だった。
 テスト期間に入る直前、部活終わりに顔を真っ赤にしながら声を掛けられた時は、学年も違うのに何を一緒に勉強するのだろうと思った。それでも指定された時間に来てみれば、いたのは私と荒井君だけだった。
 二人きり。
 ノートへ文字を書き続ける荒井君を頬杖をつきながら眺めていると、時折こちらを窺う視線とぶつかる。
 そのたびに思ってしまう。もしかしたら、と。
 その「もしかしたら」は、以前の私が早瀬先輩へ抱いていたものとはちょっとだけ違う。それでも、荒井君が私へ向けている感情は、たぶん。
 好意だ。
 そう考えると嬉しかった。
 同時に、胸の奥へ小さな重さも生まれる。

「まだ……忘れられないから」

 誰にも聞こえない声で呟いた。一人で立つ廊下に、私の小さな声が消えていく。
 校内で早瀬先輩を見かければ、今でも一瞬嬉しくなる。
 彼女さんと手を繋いで歩く姿を見れば、やっぱり少し苦しい。
 もう諦めた。それでも、完全に忘れたわけではない。
 そんな私に、荒井君が真っ直ぐな気持ちを向けてくれているのだとしたら。私は、それをどう受け取ればいいのだろう。

「せ、先輩! お待たせしました」
「うん。じゃあ、帰ろっか」

 慌てるように図書室から出てくる荒井君。二人で廊下を歩き始める。
 たぶん、荒井君は私が好きなのだと思う。
 私はそれに気付きながら、知らないふりをしている。この時間がなくなるのが嫌だから。
 荒井君と一緒にいる間だけは、失恋した自分を忘れていられるから。
 ずるい。
 それくらいは、自分でも分かっていた。
 窓から差し込む夕日が、人気のない廊下を橙色に染めている。
 二人分の足音だけが、静かな校舎へ響いていた。

「先輩だって、春から受験生なんですから勉強しないとですよ」
「まーねー」

 荒井君が少し前を歩いている。
 私より低い背中。
 いつも頼りなく見えてしまうのに、何事にも一生懸命で、困っている人がいれば放っておけない。

「先輩? 大丈夫ですか?」

 そんなことを考えていたからだろうか。
 振り返った荒井君と目が合った。

「荒井君は、いつも私の心配してない?」
「えっ。そ、そうですか?」

 自分では気付いていないらしい。私は、そんなに分かりやすいのだろうか。
 いや。
 きっと、この子が私をよく見ているのだ。
 誰かに想われることが、こんなにも嬉しいものだなんて知らなかった。そして、その気持ちへ応えられないことが、こんなにも苦しいことも。

「あぁ……そっか」

 思わず声が漏れる。
 早瀬先輩も、こうだったのだろうか。気持ちを伝えたあの日、私の告白を断る時。
 最後の試合で負けた時よりも苦しそうに見えたあの表情を、ようやく少しだけ理解できた気がした。
 荒井君を見る。
 不思議そうに目を丸くして、それでも私と目が合うと嬉しそうに笑った。

「どうしたんですか。先輩」
「荒井君。私ね……私は」

 ちゃんと言わないといけない。
 失恋の辛さから目を逸らすために、荒井君の好意へ甘えていること。
 今の私は、まだその気持ちに応えられないこと。だから、少し前までの先輩と後輩に戻ろう、と。
 荒井君が好きになってくれた私は、たぶん、こんなずるい人間じゃない。
 口の中が乾く。
 早瀬先輩へ告白した時より、言葉が出てこない。

「私は──」

 覚悟を決めて口を開いた、その時だった。

「荒井君!」

 誰もいなかった廊下に、別の声が響く。
 曲がり角から一人の女子生徒が顔を出し、荒井君を見つけると、そのままこちらへ走ってきた。
 その姿が、少し前までの自分と重なる。

「あれ、森さん。どうしたの?」
「あ、いや。荒井君の声が聞こえたからさ!」

 たぶん、クラスメイトなのだろう。二人は自然に言葉を交わし始める。
 私と話す時みたいに声が上ずることもない。
 言葉に詰まることもない。
 荒井君は、普通に笑っていた。
 ……何だ。
 そんなふうにも話せるんだ。

「……いいなぁ」

 気付けば、声に出ていた。
 私にも、そんなふうに話してくれればいいのに。
 そう思った。どうしてそう思ったのかは、自分でもよく分からない。
 二人の会話へ入る隙がないことが、妙に面白くなかった。
 悔しい。
 その言葉が一番近い。でも、何に対して?
 荒井君が森さんと楽しそうに話していることに?
 森さんには自然に接していることに?
 それとも──。

「あ! 先輩、森さんと一回教室に寄ってから帰るので……その、昇降口で待ち合わせとか……」

 荒井君がこちらを向く。
 ほんの少し前までなら、たぶん頷いていた。

「ううん。今日は、この後用事あるから」
「あ、わ、分かりました!」

 嘘。用事なんてない。
 でも、ちょうどいいと思った。
 さっきまで、荒井君へ「もう部活以外では関わらない方がいい」と伝えようとしていたのだから。
 これでいい。
 荒井君は森さんと並び、昇降口とは反対の方向へ歩き始める。
 私はその背中を見送った。
 一歩。二歩。
 少しずつ、遠ざかっていく。
 その時。手が動いた。
 荒井君の背中へ向かって、無意識に伸びていた。

「……え」

 自分の伸ばしてしまった手を見つめる。
 呼び止めようとしたのだろうか。分からない。
 ただ、遠ざかっていく荒井君を見ながら伸ばしたその手を、私はしばらく下ろすことができなかった。
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