昨日までの片想い
昨日までの先輩(五)
「先輩、先輩! あの雲、猫みたいじゃないですか!」
「うーん……微妙」
昨日とは違って、今日の帰り道は騒がしい。
隣を歩く荒井君が、雲だの店の看板だの、目に入ったものを片っ端から話題にしているからだ。
でも、不思議と嫌じゃない。むしろ、心地いい。
相変わらずの空回りっぷりを眺めながら、こんなので四月から先輩になれるのだろうか──なんて、余計な心配までしてしまう。
「先輩は進路とかって決めてるんですか?」
「上京……は、考えてる」
「上京ですか……」
分かりやすく声が沈む。
私の一言一言に、いちいち表情を変える。
そんな荒井君を見ていると、少し意地悪をしたくなった。それと同時に、どうしても聞いておきたいこともある。
「ねぇ、荒井君」
「はい!」
「荒井君ってさ──」
言葉が止まる。
私は何を聞こうとしているのだろう。昨日──いや、今さっき自分の気持ちに気付いたばかりなのに。
でも、こちらを見ながら返事を待つ荒井君の顔を見ていると、急に逃げるのも癪だった。
「荒井君ってさ、私のこと好きなの?」
「なっ……」
「人として、とかじゃなくてね。異性として」
「す、好きとかじゃ──」
見るからに挙動がおかしくなり、それに比例するように顔まで赤くなっていく。
分かりやすい。思わず笑いそうになった。
でも、誤魔化されるのは少し嫌だった。
「私のこと、好きじゃないの?」
「す、好きじゃないわけじゃないですけど」
「けど?」
「え、えっと……」
とうとう笑いが漏れる。
からかわれたと思ったのか、荒井君は真っ赤な顔のまま俯いてしまった。その姿を見て、情けないなと思う。
荒井君が、ではない。
私が、だ。
年下の男の子をからかって、自分の気持ちは何も言わないまま、相手から答えを引き出そうとしている。
「ねぇ……荒井君」
目の前の横断歩道を渡れば、すぐに駅だ。そこで今日は終わる。
明日になればまた会えるし、これが最後の帰り道でもない。
なのに。
終わってほしくなかった。
「今日は、遠回りして帰ろっか」
荒井君が目を丸くする。
そんな表情まで、今は少し愛おしい。
信号が青に変わっても横断歩道は渡らず、そのまま道沿いを歩いていく。普段は使わない道。
駅前の繁華街を抜けるにつれて人通りは減り、やがて静かな住宅地へ入っていった。
その間も、私たちはどうでもいい話を続ける。
「あれ、こんな大きな川あったんだ」
住宅街を抜けた先に、広い河川敷が現れた。
遊歩道では何人かが走っていて、遠くの広場では少年たちがキャッチボールをしている。
川から吹いてくる冬の風は冷たく、スカートから出た足へ容赦なく当たった。
寒い。
でも、ちょうどいい。ここなら人も少ない。
「荒井君。少し歩こ」
「はい!」
川のせせらぎと、遠くから聞こえる子供たちの声。
私はゆっくりと歩きながら、何度も頭の中で言葉を組み立てていた。
もう少しだけ。心の準備をする時間が欲しかった。
「先輩。こっち歩くと何あるんですか?」
「うーん、私も初めて歩くから知らない」
「えぇっ」
本当に楽しそうに喋る。表情もころころ変わる。
背は私より少し低い。
サッカーだって、早瀬先輩みたいに上手いわけじゃない。
頼りないところもある。
空回りもする。
なのに。
私は、この子が好きだ。理由を一つずつ並べて答えを出したわけじゃない。気付いたら、そうなっていた。
「先輩?」
「ねぇ、荒井君」
空の端には、まだ僅かに紫色が残っている。
あと少しもすれば、完全に夜になるのだろう。
時折通り過ぎる車のヘッドライトが、私たちの姿を一瞬だけ照らしては遠ざかっていく。
「荒井君はさ、私のこと好き?」
「え、いや、だから、それは……」
やっぱり、答えは同じだった。
口の中が乾く。心臓が、さっきからうるさい。
荒井君は何度も口を開こうとして、そのたびに閉じている。
「ぼ、僕は先輩のことを……」
手が震えていた。
握り締めた拳は、指先が白くなるほど力が入っている。
あぁ。怖いんだ。
そう気付いた。
告白するのは怖い。私だって、そうだった。断られると分かっていたあの時でさえ、怖かった。
なら、今の荒井君は。
掌が白くなるほど握られ、小刻みに震える君。勇気を振り絞ろうとしてくれている。ただ、それだけで、無性に嬉しかった。
「ぼ、僕は──」
「荒井君、ありがとね」
私は、その言葉を遮った。
荒井君に最後まで言わせようとしている自分が、急にずるく思えたからだ。
一度は距離を取ろうとした。
それなのに、自分の気持ちに気付いた途端、今度は荒井君から答えを求めている。この子は、何度も私へ近づこうとしてくれた。
なら、次は私の番だ。
「あのね。私、早瀬先輩が好きだったんだ」
荒井君の表情が固まる。
そして、一歩だけ後ろへ下がった。
分かりやすいくらい傷付いた顔。その表情を見るだけで、胸が痛んだ。
「告白もした。先輩に幼馴染がいるって知ってたから、断られるつもりでね」
言わなくてもいいことかもしれない。でも、隠して告白するのも違うと思った。
私は一歩近づく。
荒井君がまた下がりそうになり、その手首を掴んだ。
冷たい。
「荒井君、ごめん。酷いこと言ってるのは分かってる。でも、もう少しだけ聞いて」
逃げないように。
今度は、私が。
「振られて落ち込んでた時も、荒井君はずっと話しかけてくれたよね」
気の利いた言葉なんて、ほとんどなかった。
いつもどこか抜けていて。何をやっても少し空回りして。
でも、それが私を何度も笑わせてくれた。
「頼りない後輩だ、とも思ってた」
春には『先輩』と呼ばれる荒井君。しかし、その姿が想像できず思わず笑う。
「でも、困ってる人を見つけたら放っておけなくて。損得とか考えないで、自然に手を差し伸べられて」
荒井君が黙って私を見ている。
「君は、早瀬先輩とは全然違う」
ここまで言って、一度息を吸った。
もう、逃げない。
「でもね」
好みだから、惹かれるんじゃない。惹かれた人が、好みになる。
たぶん、そういうものなのだ。
「私は、君が好き」
言えた。
「早瀬先輩じゃなくて、今、私が好きなのは荒井君だよ」
荒井君の目が大きく見開かれる。
ちゃんと伝わっただろうか。
早瀬先輩の代わりなんかじゃない。失恋したから、近くにいた荒井君を選んだわけでもない。
私が好きになったのは、君なんだよ。
「相変わらず頼りないところもあるけど」
「先輩……」
「でも、誰かのために自然に優しくなれるところが好き」
掴んでいる手首へ、少しだけ力を込める。
「……本当は、その優しさは私にだけ向けてほしいけど」
言ってから、自分でも恥ずかしくなった。
荒井君は何も言わない。
「……荒井君?」
沈黙が怖くなる。
もしかして。
本当に私の勘違いだった?
あれだけ分かりやすかったのに?
そう思った途端、今度は私の身体が震え始めた。
「もし……君も、私と同じ気持ちなら」
手首を掴んでいる手に、荒井君の体温が少しずつ戻ってくる。
さっきまで震えていた荒井君は、もう動いていない。震えているのは、私だけだった。
「あぁ……そうだ」
私は、その震えを誤魔化すように笑う。
「せっかくだし、先輩呼びやめてもらおうかな」
「え?」
「私の下の名前、知ってるよね」
荒井君はしばらく黙っていた。
恥ずかしそうに。でも、どこか嬉しそうに。
そして、覚悟を決めたように顔を上げる。
「僕も、せっ……」
一度、言葉が止まった。
「夏希のことが好きです」
今度は、私が言葉を失った。
そして。
「……ははっ」
笑いが漏れる。
「年下の子に呼び捨てされるのも……意外と悪くないね」
いつの間にか、震えは止まっていた。
私は掴んでいた荒井君の手首から手を滑らせ、そのまま掌を握る。今度は、荒井君も握り返してくれる。
冬の風は相変わらず冷たい。それでも、繋いだ手だけは温かかった。
私は少しだけ荒井君の方へ寄りかかり、肩が触れる距離で歩き始めた。
「うーん……微妙」
昨日とは違って、今日の帰り道は騒がしい。
隣を歩く荒井君が、雲だの店の看板だの、目に入ったものを片っ端から話題にしているからだ。
でも、不思議と嫌じゃない。むしろ、心地いい。
相変わらずの空回りっぷりを眺めながら、こんなので四月から先輩になれるのだろうか──なんて、余計な心配までしてしまう。
「先輩は進路とかって決めてるんですか?」
「上京……は、考えてる」
「上京ですか……」
分かりやすく声が沈む。
私の一言一言に、いちいち表情を変える。
そんな荒井君を見ていると、少し意地悪をしたくなった。それと同時に、どうしても聞いておきたいこともある。
「ねぇ、荒井君」
「はい!」
「荒井君ってさ──」
言葉が止まる。
私は何を聞こうとしているのだろう。昨日──いや、今さっき自分の気持ちに気付いたばかりなのに。
でも、こちらを見ながら返事を待つ荒井君の顔を見ていると、急に逃げるのも癪だった。
「荒井君ってさ、私のこと好きなの?」
「なっ……」
「人として、とかじゃなくてね。異性として」
「す、好きとかじゃ──」
見るからに挙動がおかしくなり、それに比例するように顔まで赤くなっていく。
分かりやすい。思わず笑いそうになった。
でも、誤魔化されるのは少し嫌だった。
「私のこと、好きじゃないの?」
「す、好きじゃないわけじゃないですけど」
「けど?」
「え、えっと……」
とうとう笑いが漏れる。
からかわれたと思ったのか、荒井君は真っ赤な顔のまま俯いてしまった。その姿を見て、情けないなと思う。
荒井君が、ではない。
私が、だ。
年下の男の子をからかって、自分の気持ちは何も言わないまま、相手から答えを引き出そうとしている。
「ねぇ……荒井君」
目の前の横断歩道を渡れば、すぐに駅だ。そこで今日は終わる。
明日になればまた会えるし、これが最後の帰り道でもない。
なのに。
終わってほしくなかった。
「今日は、遠回りして帰ろっか」
荒井君が目を丸くする。
そんな表情まで、今は少し愛おしい。
信号が青に変わっても横断歩道は渡らず、そのまま道沿いを歩いていく。普段は使わない道。
駅前の繁華街を抜けるにつれて人通りは減り、やがて静かな住宅地へ入っていった。
その間も、私たちはどうでもいい話を続ける。
「あれ、こんな大きな川あったんだ」
住宅街を抜けた先に、広い河川敷が現れた。
遊歩道では何人かが走っていて、遠くの広場では少年たちがキャッチボールをしている。
川から吹いてくる冬の風は冷たく、スカートから出た足へ容赦なく当たった。
寒い。
でも、ちょうどいい。ここなら人も少ない。
「荒井君。少し歩こ」
「はい!」
川のせせらぎと、遠くから聞こえる子供たちの声。
私はゆっくりと歩きながら、何度も頭の中で言葉を組み立てていた。
もう少しだけ。心の準備をする時間が欲しかった。
「先輩。こっち歩くと何あるんですか?」
「うーん、私も初めて歩くから知らない」
「えぇっ」
本当に楽しそうに喋る。表情もころころ変わる。
背は私より少し低い。
サッカーだって、早瀬先輩みたいに上手いわけじゃない。
頼りないところもある。
空回りもする。
なのに。
私は、この子が好きだ。理由を一つずつ並べて答えを出したわけじゃない。気付いたら、そうなっていた。
「先輩?」
「ねぇ、荒井君」
空の端には、まだ僅かに紫色が残っている。
あと少しもすれば、完全に夜になるのだろう。
時折通り過ぎる車のヘッドライトが、私たちの姿を一瞬だけ照らしては遠ざかっていく。
「荒井君はさ、私のこと好き?」
「え、いや、だから、それは……」
やっぱり、答えは同じだった。
口の中が乾く。心臓が、さっきからうるさい。
荒井君は何度も口を開こうとして、そのたびに閉じている。
「ぼ、僕は先輩のことを……」
手が震えていた。
握り締めた拳は、指先が白くなるほど力が入っている。
あぁ。怖いんだ。
そう気付いた。
告白するのは怖い。私だって、そうだった。断られると分かっていたあの時でさえ、怖かった。
なら、今の荒井君は。
掌が白くなるほど握られ、小刻みに震える君。勇気を振り絞ろうとしてくれている。ただ、それだけで、無性に嬉しかった。
「ぼ、僕は──」
「荒井君、ありがとね」
私は、その言葉を遮った。
荒井君に最後まで言わせようとしている自分が、急にずるく思えたからだ。
一度は距離を取ろうとした。
それなのに、自分の気持ちに気付いた途端、今度は荒井君から答えを求めている。この子は、何度も私へ近づこうとしてくれた。
なら、次は私の番だ。
「あのね。私、早瀬先輩が好きだったんだ」
荒井君の表情が固まる。
そして、一歩だけ後ろへ下がった。
分かりやすいくらい傷付いた顔。その表情を見るだけで、胸が痛んだ。
「告白もした。先輩に幼馴染がいるって知ってたから、断られるつもりでね」
言わなくてもいいことかもしれない。でも、隠して告白するのも違うと思った。
私は一歩近づく。
荒井君がまた下がりそうになり、その手首を掴んだ。
冷たい。
「荒井君、ごめん。酷いこと言ってるのは分かってる。でも、もう少しだけ聞いて」
逃げないように。
今度は、私が。
「振られて落ち込んでた時も、荒井君はずっと話しかけてくれたよね」
気の利いた言葉なんて、ほとんどなかった。
いつもどこか抜けていて。何をやっても少し空回りして。
でも、それが私を何度も笑わせてくれた。
「頼りない後輩だ、とも思ってた」
春には『先輩』と呼ばれる荒井君。しかし、その姿が想像できず思わず笑う。
「でも、困ってる人を見つけたら放っておけなくて。損得とか考えないで、自然に手を差し伸べられて」
荒井君が黙って私を見ている。
「君は、早瀬先輩とは全然違う」
ここまで言って、一度息を吸った。
もう、逃げない。
「でもね」
好みだから、惹かれるんじゃない。惹かれた人が、好みになる。
たぶん、そういうものなのだ。
「私は、君が好き」
言えた。
「早瀬先輩じゃなくて、今、私が好きなのは荒井君だよ」
荒井君の目が大きく見開かれる。
ちゃんと伝わっただろうか。
早瀬先輩の代わりなんかじゃない。失恋したから、近くにいた荒井君を選んだわけでもない。
私が好きになったのは、君なんだよ。
「相変わらず頼りないところもあるけど」
「先輩……」
「でも、誰かのために自然に優しくなれるところが好き」
掴んでいる手首へ、少しだけ力を込める。
「……本当は、その優しさは私にだけ向けてほしいけど」
言ってから、自分でも恥ずかしくなった。
荒井君は何も言わない。
「……荒井君?」
沈黙が怖くなる。
もしかして。
本当に私の勘違いだった?
あれだけ分かりやすかったのに?
そう思った途端、今度は私の身体が震え始めた。
「もし……君も、私と同じ気持ちなら」
手首を掴んでいる手に、荒井君の体温が少しずつ戻ってくる。
さっきまで震えていた荒井君は、もう動いていない。震えているのは、私だけだった。
「あぁ……そうだ」
私は、その震えを誤魔化すように笑う。
「せっかくだし、先輩呼びやめてもらおうかな」
「え?」
「私の下の名前、知ってるよね」
荒井君はしばらく黙っていた。
恥ずかしそうに。でも、どこか嬉しそうに。
そして、覚悟を決めたように顔を上げる。
「僕も、せっ……」
一度、言葉が止まった。
「夏希のことが好きです」
今度は、私が言葉を失った。
そして。
「……ははっ」
笑いが漏れる。
「年下の子に呼び捨てされるのも……意外と悪くないね」
いつの間にか、震えは止まっていた。
私は掴んでいた荒井君の手首から手を滑らせ、そのまま掌を握る。今度は、荒井君も握り返してくれる。
冬の風は相変わらず冷たい。それでも、繋いだ手だけは温かかった。
私は少しだけ荒井君の方へ寄りかかり、肩が触れる距離で歩き始めた。