昨日までの片想い
昨日までの幼馴染(二)
八時を少し過ぎた昇降口は、まだ賑やかというにはほど遠く、登校してくる生徒の足音がまばらに響いていた。
校庭から聞こえてくるのは、朝練中の生徒たちの声。夏頃までは私もあの中にいたな──なんて少し感傷に浸りながら、湊と並んで校舎の中を歩いていく。
人影の少ない廊下には、遠くから吹奏楽部の楽器の音や、何人かで集まる生徒たちの笑い声が届いていた。あと少ししか過ごせない、いつもの朝の校舎。その景色を横目に、一階から二階へと階段を上っていく。
先を歩く湊は、当然のように二段飛ばしで上がっていく。よくそんなに足が届くな──と感心しながら、その背中を追いかける。
「わざわざ止まらなくてもいいのに」
「……いいから上ってこいよ」
踊り場へ着くたび、湊は私が追いつくまで足を止める。そのくせ、こちらを振り向こうとはしない。
そんな背中が少し可笑しくて、私も真似をして二段飛ばしで階段を上る。けれど、部活を引退してから確実に落ちた体力は誤魔化せず、追いつく頃には少し息が上がっていた。
「普通に上ればいいだろ」
「湊がやってるから、できるかなって思っただけ」
湊は呆れたような顔をしながらも、私が隣に並ぶまで次の階段へは進まない。
こういう小さな優しさが、困るのだ。
何度も勘違いしそうになって、そのたびに、勘違いじゃなければいいのにと思ってしまう。
そんな行き場のない感情を抱えたまま、三階へ続く踊り場へ足を踏み入れる。その時、二階の廊下から湊を呼ぶ声が響いた。
「早瀬先輩!」
湊が振り返り、私もつられるように視線を下へ向ける。
階段の下には、教室から走ってきたのか、僅かに肩で息をしている女子生徒が立っていた。どこかで見たことのある顔だったけれど、部活の後輩にいた記憶はない。
どこだっただろう、と考えているうちに、湊が親しげに声を掛けた。
「おう、新藤じゃねぇか。どうした? 今日は朝練休みか?」
その名前を聞いても、私の記憶とは繋がらない。
湊は話をするためなのか、一段、また一段と階段を下りていく。私の横を通り過ぎる瞬間、一度だけこちらへ目を向けた。
何か言いたそうに見えた。
……そう思ったのは、私の都合のいい勘違いかもしれないけれど。
「あ……」
後輩に呼ばれて、湊が私から離れていく。
ただ、それだけ。
それだけのことなのに、階段を下りていく背中へ手を伸ばしそうになり、私は慌てて腕を下ろした。
そんな私に気付くはずもなく、湊は何でもないことのように新藤さんとの会話を続けている。
彼女は湊を見上げながら、嬉しそうに笑っていた。
その表情を見た瞬間、気付いてしまう。
──あぁ。この子も、湊のことが好きなんだ。
胸の奥が僅かにざわついた。
幼馴染という関係に安心して、ずっと何もできずにいる私。それに比べて彼女は、朝から湊のもとへ走ってきて、自分から声を掛けている。
私も何か言わなきゃ。
そう思ったはずなのに、喉から出てきたのは正反対の言葉だった。
「湊。私、先に教室に行ってるから」
湊がこちらを向くより早く、私は階段を上り始める。
湊は私のことを、どう思っているのだろう。そんなことすら聞けない私と、ちゃんと湊を呼び止められる彼女。
少しだけ、眩しかった。
二人に聞こえないよう小さく息を吐き、もう一段階段を上る。ふと自分の手を見ると、いつの間にか掌を強く握り締めていた。
私は苦笑しながら、その手をゆっくり開いた。
***
一人で歩く廊下は、さっきまでより随分広く感じた。
校舎の中にいるはずなのに、隣から温もりが消えただけで、冬の冷気が身体の奥まで入り込んでくるような気がする。
自分の靴音だけが廊下に響く。
何か別の音が欲しくなって耳を澄ませると、階段の下から聞こえてきたのは、よりにもよって新藤さんと湊の声だった。
楽しそうな声。今は、一番聞きたくない音。
私は靴底を少し強く床へ打ちつけ、その声をかき消すように歩く。
とにかく、誰かのいる場所へ行きたかった。
「あ、灯里じゃん。おはよ」
教室のドアを開けると、友人の声がすぐに飛んできた。
いつもなら何とも思わない挨拶が、今日は妙にありがたく感じる。
「おはよ。今日も寒いね」
いつも通りに返したつもりだった。でも、思っていたより声が小さい。
何でもない顔を作りながら、窓際の席へ向かう。スクールバッグを机に置き、暖房の効いた教室ではもう必要のないコートを脱いで、身体に残っていた窮屈さを逃がすように息を吐く。
その息が、少し大きすぎたらしい。
友人たちが私の机の周りへ集まってくる。
「どうしたのさ、灯里」
「何か元気なくない?」
「そんなことない」と返そうとして、言葉が止まった。
せっかく心配してくれているのに、わざわざ嘘をつくこともない。
そう思って口を開きかけたところで、別の友人が先に声を上げる。
「そういえば、今日は早瀬とは一緒じゃないんだ?」
よりにもよって、今一番聞きたくなかった名前。
「あ、う、うん。湊は、後輩の女の子と──」
「あー、サッカー部のマネージャーでしょ」
即座に返ってきた言葉に、思わず友人の顔を見る。
他の子たちも「あぁ」と納得したような表情をしていた。
「あの子のこと……みんな知ってるの?」
私の質問に、今度は友人たちが互いの顔を見合わせる。
「灯里が言ってる子って、新藤って名前じゃない?」
「……うん」
「やっぱり。早瀬本人が気付いてるのかは知らないけど、あの子、早瀬のこと好きってアピール凄いからさ。練習の時も率先してタオル渡すし、試合が終わったら真っ先に声掛けに行くし。三年のマネージャーの中じゃ結構有名だよ」
夏までサッカー部のマネージャーをしていた友人が、少し苦笑しながら教えてくれる。
バスケ部だった私は、体育館の外で練習していた湊のことを詳しく知らない。でも、同じ運動場を使っていた部活の子たちにとって、新藤さんの気持ちはとっくに周知の事実だったらしい。
私だけが、知らなかった。
湊を好きな子がいる。
頭では当然だと思えることなのに、改めて言葉にされると、胸の奥がきゅっと縮んだ。
「あ! でも安心してよ、灯里」
私の表情を見た友人が、慌てたように声を上げる。
「私、新藤に言ってやったんだから。『早瀬には可愛い幼馴染の彼女がいるんだから、諦めなさい』ってさ!」
誇らしげな言葉に、周りから「よくやった!」なんて声まで上がる。
でも、私は何を言われたのか分からなかった。
湊に彼女なんていただろうか。
いや。
違う。
たぶん、私のことだ。
「ね、ねぇ。湊が誰と付き合って──」
確認しようとした瞬間、教室のドアが勢いよく開いた。
大きな音に、友人たちが一斉に入口を振り返る。
「早瀬、ドアぐらい静かに開けられないの」
「悪かったって。そんなこえー顔すんなよ」
そこに立っていたのは、話題の張本人だった。
階段で別れてからずっと沈んでいたはずなのに、湊の顔を見ただけで気持ちが浮き上がる。
そんな自分が少し恥ずかしくて、私は慌てて机へ視線を落とした。
「ほら、灯里。来る途中に買ったからやるよ」
「あ、うん。ありがとう」
差し出されたのは、小さなペットボトルのココアだった。
受け取った指先に、じんわりと熱が伝わる。
一階にしかない自販機。
新藤さんと別れたあと、わざわざ買ってきてくれたのだろうか。
聞きたかったけれど、それを口にするのは何だか照れくさくて、私は「ありがとう」とだけ伝え、温かなボトルを両手の中で転がした。
「早瀬! そんなことより! あんた、新藤と話してたんだって?」
「ん? あぁ。部活に顔出してほしいとか言ってたな」
友人たちが湊を囲み、軽い尋問のようにあれこれ質問を投げ始める。
そのやり取りを眺めながらココアを握っていると、一人が呆れたように口を開いた。
「ったく。こんな可愛い彼女ほっぽって、何他の女と話してるのよ」
ただの冗談。
友人同士のいつもの軽口。
分かっているのに、私は反射的に身体を小さくした。
湊が、何と答えるのか。
怖かった。
しかし、耳を塞ぐより早く──。
「何で俺と灯里が付き合ってることになってんだよ。あり得ねぇだろ」
教室の音が消えた。
さっきまで両手に感じていたココアの温かさも、分からなくなる。
──あり得ない。
その言葉だけが、頭の中に残った。
「そうだよ。私と湊が付き合ってるなんて、いつからそんな勘違いしてたのさ?」
顔を上げ、私は笑ってみせ、湊の言葉に同意する。
ちゃんと笑えている。
たぶん。
「え、いや、でも──」
戸惑う友人たちにも、何でもないように言葉を返していく。
ただ一度も、湊の方は見なかった。見たら、きっと笑えなくなる。
校庭から聞こえてくるのは、朝練中の生徒たちの声。夏頃までは私もあの中にいたな──なんて少し感傷に浸りながら、湊と並んで校舎の中を歩いていく。
人影の少ない廊下には、遠くから吹奏楽部の楽器の音や、何人かで集まる生徒たちの笑い声が届いていた。あと少ししか過ごせない、いつもの朝の校舎。その景色を横目に、一階から二階へと階段を上っていく。
先を歩く湊は、当然のように二段飛ばしで上がっていく。よくそんなに足が届くな──と感心しながら、その背中を追いかける。
「わざわざ止まらなくてもいいのに」
「……いいから上ってこいよ」
踊り場へ着くたび、湊は私が追いつくまで足を止める。そのくせ、こちらを振り向こうとはしない。
そんな背中が少し可笑しくて、私も真似をして二段飛ばしで階段を上る。けれど、部活を引退してから確実に落ちた体力は誤魔化せず、追いつく頃には少し息が上がっていた。
「普通に上ればいいだろ」
「湊がやってるから、できるかなって思っただけ」
湊は呆れたような顔をしながらも、私が隣に並ぶまで次の階段へは進まない。
こういう小さな優しさが、困るのだ。
何度も勘違いしそうになって、そのたびに、勘違いじゃなければいいのにと思ってしまう。
そんな行き場のない感情を抱えたまま、三階へ続く踊り場へ足を踏み入れる。その時、二階の廊下から湊を呼ぶ声が響いた。
「早瀬先輩!」
湊が振り返り、私もつられるように視線を下へ向ける。
階段の下には、教室から走ってきたのか、僅かに肩で息をしている女子生徒が立っていた。どこかで見たことのある顔だったけれど、部活の後輩にいた記憶はない。
どこだっただろう、と考えているうちに、湊が親しげに声を掛けた。
「おう、新藤じゃねぇか。どうした? 今日は朝練休みか?」
その名前を聞いても、私の記憶とは繋がらない。
湊は話をするためなのか、一段、また一段と階段を下りていく。私の横を通り過ぎる瞬間、一度だけこちらへ目を向けた。
何か言いたそうに見えた。
……そう思ったのは、私の都合のいい勘違いかもしれないけれど。
「あ……」
後輩に呼ばれて、湊が私から離れていく。
ただ、それだけ。
それだけのことなのに、階段を下りていく背中へ手を伸ばしそうになり、私は慌てて腕を下ろした。
そんな私に気付くはずもなく、湊は何でもないことのように新藤さんとの会話を続けている。
彼女は湊を見上げながら、嬉しそうに笑っていた。
その表情を見た瞬間、気付いてしまう。
──あぁ。この子も、湊のことが好きなんだ。
胸の奥が僅かにざわついた。
幼馴染という関係に安心して、ずっと何もできずにいる私。それに比べて彼女は、朝から湊のもとへ走ってきて、自分から声を掛けている。
私も何か言わなきゃ。
そう思ったはずなのに、喉から出てきたのは正反対の言葉だった。
「湊。私、先に教室に行ってるから」
湊がこちらを向くより早く、私は階段を上り始める。
湊は私のことを、どう思っているのだろう。そんなことすら聞けない私と、ちゃんと湊を呼び止められる彼女。
少しだけ、眩しかった。
二人に聞こえないよう小さく息を吐き、もう一段階段を上る。ふと自分の手を見ると、いつの間にか掌を強く握り締めていた。
私は苦笑しながら、その手をゆっくり開いた。
***
一人で歩く廊下は、さっきまでより随分広く感じた。
校舎の中にいるはずなのに、隣から温もりが消えただけで、冬の冷気が身体の奥まで入り込んでくるような気がする。
自分の靴音だけが廊下に響く。
何か別の音が欲しくなって耳を澄ませると、階段の下から聞こえてきたのは、よりにもよって新藤さんと湊の声だった。
楽しそうな声。今は、一番聞きたくない音。
私は靴底を少し強く床へ打ちつけ、その声をかき消すように歩く。
とにかく、誰かのいる場所へ行きたかった。
「あ、灯里じゃん。おはよ」
教室のドアを開けると、友人の声がすぐに飛んできた。
いつもなら何とも思わない挨拶が、今日は妙にありがたく感じる。
「おはよ。今日も寒いね」
いつも通りに返したつもりだった。でも、思っていたより声が小さい。
何でもない顔を作りながら、窓際の席へ向かう。スクールバッグを机に置き、暖房の効いた教室ではもう必要のないコートを脱いで、身体に残っていた窮屈さを逃がすように息を吐く。
その息が、少し大きすぎたらしい。
友人たちが私の机の周りへ集まってくる。
「どうしたのさ、灯里」
「何か元気なくない?」
「そんなことない」と返そうとして、言葉が止まった。
せっかく心配してくれているのに、わざわざ嘘をつくこともない。
そう思って口を開きかけたところで、別の友人が先に声を上げる。
「そういえば、今日は早瀬とは一緒じゃないんだ?」
よりにもよって、今一番聞きたくなかった名前。
「あ、う、うん。湊は、後輩の女の子と──」
「あー、サッカー部のマネージャーでしょ」
即座に返ってきた言葉に、思わず友人の顔を見る。
他の子たちも「あぁ」と納得したような表情をしていた。
「あの子のこと……みんな知ってるの?」
私の質問に、今度は友人たちが互いの顔を見合わせる。
「灯里が言ってる子って、新藤って名前じゃない?」
「……うん」
「やっぱり。早瀬本人が気付いてるのかは知らないけど、あの子、早瀬のこと好きってアピール凄いからさ。練習の時も率先してタオル渡すし、試合が終わったら真っ先に声掛けに行くし。三年のマネージャーの中じゃ結構有名だよ」
夏までサッカー部のマネージャーをしていた友人が、少し苦笑しながら教えてくれる。
バスケ部だった私は、体育館の外で練習していた湊のことを詳しく知らない。でも、同じ運動場を使っていた部活の子たちにとって、新藤さんの気持ちはとっくに周知の事実だったらしい。
私だけが、知らなかった。
湊を好きな子がいる。
頭では当然だと思えることなのに、改めて言葉にされると、胸の奥がきゅっと縮んだ。
「あ! でも安心してよ、灯里」
私の表情を見た友人が、慌てたように声を上げる。
「私、新藤に言ってやったんだから。『早瀬には可愛い幼馴染の彼女がいるんだから、諦めなさい』ってさ!」
誇らしげな言葉に、周りから「よくやった!」なんて声まで上がる。
でも、私は何を言われたのか分からなかった。
湊に彼女なんていただろうか。
いや。
違う。
たぶん、私のことだ。
「ね、ねぇ。湊が誰と付き合って──」
確認しようとした瞬間、教室のドアが勢いよく開いた。
大きな音に、友人たちが一斉に入口を振り返る。
「早瀬、ドアぐらい静かに開けられないの」
「悪かったって。そんなこえー顔すんなよ」
そこに立っていたのは、話題の張本人だった。
階段で別れてからずっと沈んでいたはずなのに、湊の顔を見ただけで気持ちが浮き上がる。
そんな自分が少し恥ずかしくて、私は慌てて机へ視線を落とした。
「ほら、灯里。来る途中に買ったからやるよ」
「あ、うん。ありがとう」
差し出されたのは、小さなペットボトルのココアだった。
受け取った指先に、じんわりと熱が伝わる。
一階にしかない自販機。
新藤さんと別れたあと、わざわざ買ってきてくれたのだろうか。
聞きたかったけれど、それを口にするのは何だか照れくさくて、私は「ありがとう」とだけ伝え、温かなボトルを両手の中で転がした。
「早瀬! そんなことより! あんた、新藤と話してたんだって?」
「ん? あぁ。部活に顔出してほしいとか言ってたな」
友人たちが湊を囲み、軽い尋問のようにあれこれ質問を投げ始める。
そのやり取りを眺めながらココアを握っていると、一人が呆れたように口を開いた。
「ったく。こんな可愛い彼女ほっぽって、何他の女と話してるのよ」
ただの冗談。
友人同士のいつもの軽口。
分かっているのに、私は反射的に身体を小さくした。
湊が、何と答えるのか。
怖かった。
しかし、耳を塞ぐより早く──。
「何で俺と灯里が付き合ってることになってんだよ。あり得ねぇだろ」
教室の音が消えた。
さっきまで両手に感じていたココアの温かさも、分からなくなる。
──あり得ない。
その言葉だけが、頭の中に残った。
「そうだよ。私と湊が付き合ってるなんて、いつからそんな勘違いしてたのさ?」
顔を上げ、私は笑ってみせ、湊の言葉に同意する。
ちゃんと笑えている。
たぶん。
「え、いや、でも──」
戸惑う友人たちにも、何でもないように言葉を返していく。
ただ一度も、湊の方は見なかった。見たら、きっと笑えなくなる。