昨日までの片想い
昨日までの幼馴染(三)
放課後を知らせるチャイムが鳴り、残り僅かな高校生活がまた少し減っていく。
別館の掃除を終え、じゃんけんに負けて引き受けることになったゴミ捨て当番。両手にゴミ袋をぶら下げながら、私はゆっくりと廊下を歩いていく。
既に部活は始まっているらしく、本館の方からトランペットの音が聞こえ、外からは運動部の掛け声が響いている。窓の向こうでは、茜色に染まり始めた空を何羽ものカラスが横切っていた。
そんな景色を見ていると、嫌でも今日が終わっていくことを実感する。
「はぁ……」
大きな溜息が、誰もいない廊下に落ちる。
今日は朝から、ずっと調子が悪い。
湊の「あり得ない」という言葉。私と湊が付き合っていると思い込んでいた友人たちの、どこか気まずそうな態度。そして、空気を戻そうとするたびに、自分の口から出た『違うよ』という否定。
「……ほんと、何やってるんだろ」
呟いた声は、思っていた以上に情けなく響いた。
結局、今日は湊とまともに話すこともできなかった。顔を合わせたところで、どんな表情をすればいいのか分からなかった。
それでも、頭の中では朝の言葉だけが何度も蘇る。
──あり得ない。
今までだって、自信があったわけじゃない。
もしかしたら。
少しくらい。
ほんの少しだけなら。
そんな都合のいい期待を、勝手に抱いていただけだ。でも、その期待すら許されないのだと突きつけられた気がした。
指先から力が抜け、危うくゴミ袋を落としそうになる。慌てて持ち直しながら、私は小さく息を吐く。
「なんだかなぁ」
別館の外へ出ると、収集所には既にいくつものゴミ袋が積まれていた。その上へ持ってきた分を置けば、両手は軽くなる。
なのに、身体は少しも軽くならない。
「んーっ! よし、帰るか」
気持ちまで切り替わってくれればいいのに、と考えながら大きく背伸びをする。
いつもなら、そのまま本館へ戻って階段を上り、教室へ向かうところだ。けれど今日は、校舎へ戻ろうとした足が自然と止まった。
本館には人が多い。
そして、もしかしたら湊がいる。
「……遠回りだけど、三階から帰るかぁ」
自分でも分かるくらい露骨な逃げだった。それでも今日は、偶然、湊と顔を合わせることすら怖かった。
別館へ戻り、三階へと続く階段を上る。
卒業まで、あと二ヶ月。
この先ずっと湊を避けるなんてできるはずがないし、突然距離を置けば、きっと向こうだって不思議に思う。
湊は何も知らない。
私が勝手に期待して、勝手に傷付いているだけだ。
頭では分かっている。気持ちは、全然ついてこないけれど。
せめて土日を挟めば、少しくらいは普通に戻れるだろう。今日が金曜日だったことに、私は自分でも可笑しくなるほど救われていた。
「付き合ってください!」
三階の渡り廊下へ辿り着いたところで、聞き覚えのある声が耳に届いた。
足が止まる。
廊下の窓が一部開いていて、そこから声が入ってきているらしい。声のする方へ外を覗くと、オレンジ色に染まった校舎の下に、男女二人の姿が見えた。
「……告白?」
誰かの告白を覗き見る趣味なんてない。そう思いながらも、つい視線が止まる。
そして次の瞬間、その好奇心を後悔した。
夕日に照らされ、遠目からでも分かるほど顔を赤くしている女子生徒。
今朝、階段の下にいた女の子──新藤さんだった。
彼女がここで告白をしている。
なら、その正面に立つ男子は──湊。
「先輩のことが気になってて……気付いたら、ずっと先輩のこと考えてました」
胸の奥がざわつく。
友人たちのせいで、新藤さんは「湊には彼女がいる」と思っているはずだ。それでも、彼女は今ここに立っている。
思わず声を掛けそうになった。けれど、喉まで出かかった言葉は、そのまま止まった。
私は何を言うつもりなのだろう。
やめた方がいいよ?
湊には彼女がいることになってるよ?
そんなことを、私が言うのか。
何も伝えられず、幼馴染という関係に甘えていた私が。
「……でも」
小さく漏れた声は、誰にも届かない。
私だって、何もしなかったわけじゃない。何度も言おうとした。何度も聞こうとした。
そのたびに、今の関係が壊れることが怖くなって、逃げた。
結局、できなかった。
それだけだ。
「最後の試合で負けたあと、先輩、誰より悔しそうだったのに……後輩たちには笑って声をかけてくれましたよね。あの時、私、先輩のこと好きなんだって思いました」
気付けば、私は息を潜めて新藤さんの言葉を聞いていた。
最後の試合。
新藤さんは、私の知らない湊を知っている。
私の知らない場所で、私の知らない表情を見て、好きになった。
その事実が、胸の奥に静かに沈んでいく。
「先輩、卒業したら遠くの大学に行っちゃうって聞いて……だから、今言わないと後悔すると思って」
新藤さんの声は震えていた。
上から見ている私にも分かるほど、両手を強く握り締めている。それでも一度も視線を逸らさず、真正面から湊を見つめていた。
断られると分かっていても、気持ちを伝える。
私にはできなかったこと。
──強いなぁ。
素直に、そう思った。
止めたいという気持ちは、もう消えていた。むしろ、少しだけ応援したいとすら思う。
自分でも可笑しいと思う。私の好きな人に告白している相手なのに。
それでも、新藤さんがここまで勇気を振り絞ったことを、邪魔したいとは思えなかった。
「先輩。好きです。付き合って下さい」
最後の言葉と一緒に、新藤さんの目から涙が零れた。
私は窓枠へ置いた手に力を込める。
こんなに必死に誰かを好きになって、その人に選ばれようとしている。
その姿が綺麗だと思った。
その強さが、羨ましいとも思った。
それでも。
「……私だって、好きなのに」
小さな声が漏れた。
「私の方が、ずっと昔から好きなのに」
男の子にからかわれて泣いていた私を守ってくれた背中。
試合で負け、人目を避けて落ち込んでいた時に、何も聞かず隣へ座ってくれた横顔。
同じ高校だな──なんて自慢するためだけに、苦手な勉強を頑張っていた姿。
ずっと見てきた。
ずっと好きだった。
けれど、口にしてから、自分でも少し可笑しくなった。
先に好きになったから、何だというのだろう。好きになった順番なんて、何の権利にもならない。
私は『フラれるかもしれない』を怖がった。
新藤さんは、『フラれるだろう』と思いながらも、その先へ進んだ。
その違いだけは、どうしたって否定できなかった。
「新藤……ありがとう」
吹奏楽部の演奏も、運動部の掛け声も止まった静かな校舎裏に、湊の低い声が落ちる。その声音だけで、次に来る言葉が分かった。新藤さんも同じなのだろう。
スカートを握る手に、さらに力が入る。
思わず声を掛けたくなった。
──大丈夫だよ、頑張ったよ。
──ちゃんと、見てたよ。
そんな言葉を伝えようと息を吸い込んだのと同時に、湊の言葉が、静かな校舎裏に響いた。
「──好きな子がいるんだ」
指先から、温度が消えた。
新藤さんの告白を見ていたはずなのに、その一言は私にも向けられた気がした。
好きな子がいる。私は知らない。
小さい頃からずっと一緒にいたのに。
「い、いやだ……」
声が漏れた。
聞きたくない。この先を聞いたら、今度こそ終わる気がした。
新藤さんは、それでも湊を見つめている。
「先輩に好きになってもらえるなんて……羨ましいですね」
目元から涙を流しながらも、その声はどこまでも透明で。
「どんな人なんですか。先輩が好きな人って」
どうして、そんなことを聞けるのだろう。
私なら無理だ。
好きな人の口から、自分ではない誰かの話なんて聞きたくない。
「来年には大学生になるってのに、子供っぽい奴でさ」
私は逃げるように窓から離れる。
これ以上は聞かない方がいい。二人の声が届かない場所まで行こう。
「そのわりには、お節介なところもあって」
逃げ出したはずなのに、湊の声は鮮明に追いかけてくる。
吹奏楽部の音にも、運動部の掛け声にも──好きな人の声だけが、消えてくれない。
「何より、昔から変わらないあいつを見てると……落ち着くんだ」
聞きたくない。足が速くなる。
私と付き合うことは「あり得ない」と言った湊が、誰かのことを優しい声で話している。
聞きたくない。
「ちょっと、廊下は走らないで──」
先生の声を背中で聞きながら、私はそのまま走り続けた。
別館の掃除を終え、じゃんけんに負けて引き受けることになったゴミ捨て当番。両手にゴミ袋をぶら下げながら、私はゆっくりと廊下を歩いていく。
既に部活は始まっているらしく、本館の方からトランペットの音が聞こえ、外からは運動部の掛け声が響いている。窓の向こうでは、茜色に染まり始めた空を何羽ものカラスが横切っていた。
そんな景色を見ていると、嫌でも今日が終わっていくことを実感する。
「はぁ……」
大きな溜息が、誰もいない廊下に落ちる。
今日は朝から、ずっと調子が悪い。
湊の「あり得ない」という言葉。私と湊が付き合っていると思い込んでいた友人たちの、どこか気まずそうな態度。そして、空気を戻そうとするたびに、自分の口から出た『違うよ』という否定。
「……ほんと、何やってるんだろ」
呟いた声は、思っていた以上に情けなく響いた。
結局、今日は湊とまともに話すこともできなかった。顔を合わせたところで、どんな表情をすればいいのか分からなかった。
それでも、頭の中では朝の言葉だけが何度も蘇る。
──あり得ない。
今までだって、自信があったわけじゃない。
もしかしたら。
少しくらい。
ほんの少しだけなら。
そんな都合のいい期待を、勝手に抱いていただけだ。でも、その期待すら許されないのだと突きつけられた気がした。
指先から力が抜け、危うくゴミ袋を落としそうになる。慌てて持ち直しながら、私は小さく息を吐く。
「なんだかなぁ」
別館の外へ出ると、収集所には既にいくつものゴミ袋が積まれていた。その上へ持ってきた分を置けば、両手は軽くなる。
なのに、身体は少しも軽くならない。
「んーっ! よし、帰るか」
気持ちまで切り替わってくれればいいのに、と考えながら大きく背伸びをする。
いつもなら、そのまま本館へ戻って階段を上り、教室へ向かうところだ。けれど今日は、校舎へ戻ろうとした足が自然と止まった。
本館には人が多い。
そして、もしかしたら湊がいる。
「……遠回りだけど、三階から帰るかぁ」
自分でも分かるくらい露骨な逃げだった。それでも今日は、偶然、湊と顔を合わせることすら怖かった。
別館へ戻り、三階へと続く階段を上る。
卒業まで、あと二ヶ月。
この先ずっと湊を避けるなんてできるはずがないし、突然距離を置けば、きっと向こうだって不思議に思う。
湊は何も知らない。
私が勝手に期待して、勝手に傷付いているだけだ。
頭では分かっている。気持ちは、全然ついてこないけれど。
せめて土日を挟めば、少しくらいは普通に戻れるだろう。今日が金曜日だったことに、私は自分でも可笑しくなるほど救われていた。
「付き合ってください!」
三階の渡り廊下へ辿り着いたところで、聞き覚えのある声が耳に届いた。
足が止まる。
廊下の窓が一部開いていて、そこから声が入ってきているらしい。声のする方へ外を覗くと、オレンジ色に染まった校舎の下に、男女二人の姿が見えた。
「……告白?」
誰かの告白を覗き見る趣味なんてない。そう思いながらも、つい視線が止まる。
そして次の瞬間、その好奇心を後悔した。
夕日に照らされ、遠目からでも分かるほど顔を赤くしている女子生徒。
今朝、階段の下にいた女の子──新藤さんだった。
彼女がここで告白をしている。
なら、その正面に立つ男子は──湊。
「先輩のことが気になってて……気付いたら、ずっと先輩のこと考えてました」
胸の奥がざわつく。
友人たちのせいで、新藤さんは「湊には彼女がいる」と思っているはずだ。それでも、彼女は今ここに立っている。
思わず声を掛けそうになった。けれど、喉まで出かかった言葉は、そのまま止まった。
私は何を言うつもりなのだろう。
やめた方がいいよ?
湊には彼女がいることになってるよ?
そんなことを、私が言うのか。
何も伝えられず、幼馴染という関係に甘えていた私が。
「……でも」
小さく漏れた声は、誰にも届かない。
私だって、何もしなかったわけじゃない。何度も言おうとした。何度も聞こうとした。
そのたびに、今の関係が壊れることが怖くなって、逃げた。
結局、できなかった。
それだけだ。
「最後の試合で負けたあと、先輩、誰より悔しそうだったのに……後輩たちには笑って声をかけてくれましたよね。あの時、私、先輩のこと好きなんだって思いました」
気付けば、私は息を潜めて新藤さんの言葉を聞いていた。
最後の試合。
新藤さんは、私の知らない湊を知っている。
私の知らない場所で、私の知らない表情を見て、好きになった。
その事実が、胸の奥に静かに沈んでいく。
「先輩、卒業したら遠くの大学に行っちゃうって聞いて……だから、今言わないと後悔すると思って」
新藤さんの声は震えていた。
上から見ている私にも分かるほど、両手を強く握り締めている。それでも一度も視線を逸らさず、真正面から湊を見つめていた。
断られると分かっていても、気持ちを伝える。
私にはできなかったこと。
──強いなぁ。
素直に、そう思った。
止めたいという気持ちは、もう消えていた。むしろ、少しだけ応援したいとすら思う。
自分でも可笑しいと思う。私の好きな人に告白している相手なのに。
それでも、新藤さんがここまで勇気を振り絞ったことを、邪魔したいとは思えなかった。
「先輩。好きです。付き合って下さい」
最後の言葉と一緒に、新藤さんの目から涙が零れた。
私は窓枠へ置いた手に力を込める。
こんなに必死に誰かを好きになって、その人に選ばれようとしている。
その姿が綺麗だと思った。
その強さが、羨ましいとも思った。
それでも。
「……私だって、好きなのに」
小さな声が漏れた。
「私の方が、ずっと昔から好きなのに」
男の子にからかわれて泣いていた私を守ってくれた背中。
試合で負け、人目を避けて落ち込んでいた時に、何も聞かず隣へ座ってくれた横顔。
同じ高校だな──なんて自慢するためだけに、苦手な勉強を頑張っていた姿。
ずっと見てきた。
ずっと好きだった。
けれど、口にしてから、自分でも少し可笑しくなった。
先に好きになったから、何だというのだろう。好きになった順番なんて、何の権利にもならない。
私は『フラれるかもしれない』を怖がった。
新藤さんは、『フラれるだろう』と思いながらも、その先へ進んだ。
その違いだけは、どうしたって否定できなかった。
「新藤……ありがとう」
吹奏楽部の演奏も、運動部の掛け声も止まった静かな校舎裏に、湊の低い声が落ちる。その声音だけで、次に来る言葉が分かった。新藤さんも同じなのだろう。
スカートを握る手に、さらに力が入る。
思わず声を掛けたくなった。
──大丈夫だよ、頑張ったよ。
──ちゃんと、見てたよ。
そんな言葉を伝えようと息を吸い込んだのと同時に、湊の言葉が、静かな校舎裏に響いた。
「──好きな子がいるんだ」
指先から、温度が消えた。
新藤さんの告白を見ていたはずなのに、その一言は私にも向けられた気がした。
好きな子がいる。私は知らない。
小さい頃からずっと一緒にいたのに。
「い、いやだ……」
声が漏れた。
聞きたくない。この先を聞いたら、今度こそ終わる気がした。
新藤さんは、それでも湊を見つめている。
「先輩に好きになってもらえるなんて……羨ましいですね」
目元から涙を流しながらも、その声はどこまでも透明で。
「どんな人なんですか。先輩が好きな人って」
どうして、そんなことを聞けるのだろう。
私なら無理だ。
好きな人の口から、自分ではない誰かの話なんて聞きたくない。
「来年には大学生になるってのに、子供っぽい奴でさ」
私は逃げるように窓から離れる。
これ以上は聞かない方がいい。二人の声が届かない場所まで行こう。
「そのわりには、お節介なところもあって」
逃げ出したはずなのに、湊の声は鮮明に追いかけてくる。
吹奏楽部の音にも、運動部の掛け声にも──好きな人の声だけが、消えてくれない。
「何より、昔から変わらないあいつを見てると……落ち着くんだ」
聞きたくない。足が速くなる。
私と付き合うことは「あり得ない」と言った湊が、誰かのことを優しい声で話している。
聞きたくない。
「ちょっと、廊下は走らないで──」
先生の声を背中で聞きながら、私はそのまま走り続けた。