昨日までの片想い

昨日までの幼馴染(四)

 家の最寄り駅に着いた頃には、すっかり日が落ちていた。
 夕方の人でごった返す駅構内を抜け、星の見え始めた空の下、駅前の信号で足を止める。周囲には人の話し声や車の走行音が溢れているのに、私の頭の中では、校舎裏で聞いた湊の声だけが何度も繰り返されていた。

 ──好きな子がいるんだ。

 吐き出した溜息が白く染まり、冬の夜へ消えていく。
 何も考えたくない。それなのに、校舎裏で見た二人の姿も、聞いてしまった言葉も、勝手に頭の中へ戻ってくる。
 それでも何とか気持ちが崩れないように、ここまで帰ってきた。
 いつまでも青にならない信号を待っていると、名前を呼ばれる。

「あれ、灯里じゃねーか」

 一番聞きたくなかった声が、背後から届いた。
 振り返れば、そこにはいつも通りの顔で笑う湊がいる。
 私の方が先に学校を出たはずなのに。寄り道もせず駅まで来たはずなのに、どうして今ここで会ってしまうのだろう。
 湊は何も知らないまま、当然のように私の隣へ並んで信号を待つ。
 いつもなら、それだけで嬉しかった。
 でも、今は、苦しい。
 逃げたい。

「新藤さんは……いいの」
「……どういうことだよ」

 信号が青に変わり、私は逃げるように先に歩き出した。
 一歩遅れて歩く湊。その返事までには、わずかな間があった。
 私があの告白を見ていたことを、きっと湊は知らない。だから適当に答えれば誤魔化せると思っているのかもしれない。

「湊から、そういう話、聞いたことなかったけど。新藤さん、可愛いよね」

 何も答えてくれない。何を考えているのか、分からない。珍しく半歩後ろを歩く湊の表情は分からない。
 会話が途切れたまま駅前の喧噪を抜けると、街は急に静かになる。冬の冷たい空気の中、点き始めた街灯の下を二人で歩いていく。
 朝に見つけた街路樹の蕾が、視界の端に入った。
 春が近づいている証。
 朝は、別れが近づいているようで嫌だった。今はもう、早く春になってしまえばいいとすら思う。

「灯里」

 背後から名前を呼ばれても、足は止めなかった。

「灯里、待てよ!」

 今度は、湊が私の前へ回り込む。
 進む先を塞がれ、仕方なく顔を上げると、何かを言いたそうな表情がそこにあった。
 けれど、その顔を見た瞬間に頭へ浮かんだのは、今日聞いた言葉。

 ──何で俺と灯里が付き合ってることになってんだよ。あり得ねぇだろ。
 ──好きな子がいるんだ。

 何も伝えなかったのは私だ。
 分かっている。
 それでも。

「湊、どいて」

 自分でも分かるほど冷たい声が出た。
 湊が一瞬戸惑い、それから眉を寄せる。

「なんでそんな言い方すんだよ」

 何も知らないくせに。
 その言葉が喉まで出かかる。

「なんで? そんなの──」

 全部ぶつけてしまおうと思った。
 でも、口を開いた瞬間、別の言葉が頭の中に浮かんだ。

 ──終わったんだ。私の恋は、もう、とっくに終わったんだ。
 
 急に身体から力が抜け、持っていた鞄が足元へ落ちた。

「そっか……これが失恋ってことなんだ……」

 自分の口から出た言葉なのに、妙に他人事のように聞こえた。
 以前、告白して振られた友人へ「パフェ奢るから元気出して」なんて言ったことがある。
 今なら分かる。パフェなんかじゃ、どうにもならない。
 胸の奥が痛くて、上手く息ができない。
 泣きたかった。

「灯里?」

 湊がこちらへ手を伸ばす。
 何度、その手が私へ伸びてくることを、嬉しいと思っただろう。
 何度、幼馴染じゃない関係で、この手に触れてくれたらと思っただろう。
 だからこそ、今は耐えられなかった。

「やめて。お願いだから、もう、優しくしないで」

 私は一歩、二歩と後ずさる。
 差し出された手を取ったら、きっと縋ってしまう。
 
──私と付き合ってよ。

 そんな自分勝手な言葉を口にしてしまいそうだった。
 湊が誰かを好きで、その人と付き合いたいと言うなら応援する。
 でも──今は無理だ。失恋の痛みを知ったばかりの私には、誰かの恋を応援できる余裕なんてあるはずない。

「お、おい。灯里。どうしたんだよ」
「……お願い。今は、今だけは優しくしないで。優しくしようとしないで」

 言葉を続けるうちに、自分でも何を言っているのか分からなくなる。
 それでも、このまま優しくされるよりは──。

「何なら、また私を否定してくれていいから」

 湊が目を見開いた。
 当然だと思う。私だって逆の立場なら困る。
 でも今は、「あり得ない」と言われる方がまだ楽だった。
 期待しなくて済むから。

「ごめん。湊からしたら、意味わからないこと言ってるのは分かってる。でも、今は放っておいて」

 言葉を切り、息を整える。

「週明けの……月曜日には、大丈夫だから」

 根拠なんてない。
 それでも、土日を挟めば少しくらいは整理できる気がした。

「私、今日は向こうから帰るね。突然何なんだよって感じだよね。今は説明できないけど……ほんと、ごめん」

 戸惑ったままの湊へ一方的に言葉を残し、背を向ける。
 いつか、この日のことを笑って伝えられる日が来るだろうか。昔、湊のこと好きだったんだよ──って。
 その場から離れようと足を踏み出した瞬間、手首を強く掴まれた。
 見なくても分かる。
 湊の手だ。私の手より大きくて、温かい手。
 今日の朝までなら、その体温だけで嬉しかった。
 今は、その全部が苦しい。

「灯里」

 名前を呼ばれる。
 それだけで、憂鬱な朝すら楽しみに変わったのに。

「俺が何かしたなら謝る。だから、話をさせてくれ」

 いつものぶっきらぼうな声ではなく、私を気遣う時の優しい声音。
 手首から伝わる温度が、必死に閉じ込めていたものを溶かそうとする。

「湊、離して」
「俺が灯里を否定したってどういうことだよ。いつ、俺が灯里を──」

 視界が滲む。
 涙が落ちないように、昇りかけた月を見るふりをして顔を上げた。

「私と付き合ってるか聞かれた時、湊は『あり得ない』って言った。だから私は──」

 だから私は、もう諦めたの。
 その言葉を口にするより早く、湊が声を重ねた。

「そりゃそうだろ。俺が、灯里と付き合うなんて……」

 呼吸が乱れる。
 本当は、否定してほしかった。あれはそういう意味じゃない、と。

「……うん。だよね」

 でも、続いたのは私の期待した言葉じゃなくて。

「だから……今は、この手を離して」

 唇を強く噛み、震えを押し殺す。
 手首が痛い。
 噛んだ唇も痛い。
 でも、そのどちらよりも胸の奥が痛かった。

「そんな私と、幼馴染だからとはいえ、小学校からずっと一緒にいてくれてありがとね。でも、もういいから」

 これからは、好きな人と歩けばいい。私の隣にいなくてもいい。
 湊への言葉なのか、自分へ向けた諦めの言葉なのか。
 ちゃんと笑えているかは分からなかったけれど、私は笑おうとした。
 湊の手から少しずつ力が抜けていく。その隙に手首を振り払い、私は別の道へ歩き出した。

「あ、灯里!」

 背後から大きな声が追いかけてくる。
 足は止めない。

「『あり得ない』ってのは、灯里を否定したわけじゃなくて! ただ……俺が言いたかったのは──」

 聞かない。
 聞いたって、何も変わらない。
 湊の好きな人は、いったいどんな子なのだろう。その子と並んで笑う湊を、私はいつか笑って見送れるだろうか。
 隣に誰もいなくなったこの道を、今まで通り歩けるようになるのだろうか。朝まで隣にあった温もりが消える。
 伸ばしても、もう届かない。
 だから私は、この季節が嫌いなのだ。

「俺は……授業についていくので精一杯で!」

 背後から聞こえる声に、足が僅かに緩む。

 ──でも、頑張って赤点取らないように勉強してるじゃん。

「灯里と違って、自分のことでいっぱいいっぱいで……昔から何度も灯里に心配もさせて!」

 ──心配させるなんて、お互い様じゃん。

 それでも私は振り返らない。
 振り返れない。

「ずっと先を歩くお前と、半人前の俺が……いくら付き合いたいと思ったって、そんなの『あり得ない』だろ!」

 足が止まった。
 音が消える。
 私は涙を拭うことすら忘れ、肩で息をしている湊へ振り返った。
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