昨日までの片想い
昨日までの先輩(一)
好きな人に、好きな人がいる。
少し周りを見渡せば、いくらでも転がっていそうな、ありふれた失恋話。恋をして、その背中を追いかけて。それでも、どうしたって届かなかった。
自分の気持ちに区切りをつけるため、覚悟を決めて想いを伝えた。断られることくらい分かっていたし、そのための覚悟だってしていたつもりだった。
それでも、実際に返ってきた言葉は、想像していたよりずっと痛かった。
──好きな子がいるんだ。
その言葉を口にした時だけ、先輩の表情が少し柔らかくなった。
恥ずかしそうで。それでも、どこか嬉しそうで。
私は泣かないように唇へ力を込め、何とか笑って聞き返した。
──どんな人なんですか。先輩が好きな人って。
先輩が去った放課後の校舎裏には、吹奏楽部の演奏と、運動部の掛け声が変わらず響いていた。遠くから聞こえるカラスの鳴き声まで、今だけは自分を嘲笑っているように聞こえる。
落ち着こうと大きく息を吐き、いつの間にか強く握っていた拳を開いた。
掌には、爪の痕が深く残っていた。
勉強も。
部活も。
恋愛だって。
何か一つに本気になるような人間じゃなかったはずなのに。この恋だけは、思っていたよりずっと本気だったらしい。
掌へ落ちた涙から逃げるように、私は茜色の空を見上げた。
***
「──輩! 新藤先輩!」
机へ突っ伏していると、遠くから自分の名前を呼ばれていることに気付いた。
返事をしないと。
そう思って何度か口を開こうとするものの、顔を上げる気力すら湧いてこない。
「先輩。ミーティング、終わりましたよ」
そんな私にも懲りず、声の主は何度も話しかけてくる。
さすがに無視を続けるのも悪い気がして、私は机に顔を伏せたまま小さく返事をした。
「……あー、うん。ありがと」
自分でも驚くくらい酷い声だった。先週から、ずっとこの調子だ。私はこんなに引きずる人間だったのか。
その事実が、少しだけ情けない。
やがて一つ前の席が引かれ、椅子へ誰かが腰掛ける音がした。
こんな面倒くさい先輩なんて放っておけばいいのに、この後輩にはどうやらその発想がないらしい。
「……練習いかないの」
できるだけ『構うな』という空気を込めて言ってみる。
別に、本当に放っておいてほしいわけではない。ただ、今すぐいつもの部活へ戻るには、少しだけ助走が必要だった。ここは失恋なんてする前からずっと楽しかった場所だからこそ、今までと同じ顔をして戻りたかった。
だというのに、この後輩は。
「練習開始の、じゅ、十六時までまだ二十分あるので! 新藤先輩、体調悪そうですし……ほ、保健室行きますか!」
百パーセント、善意だった。
思わず、机へ伏せたまま笑いそうになる。こんなに真っ直ぐ心配されていると、いつまでも一人で落ち込んでいる自分が少し馬鹿らしくなってくる。
よし。そろそろ顔くらい上げよう。
そう思った、その瞬間だった。
「あ、えっと……あっ! 新藤先輩! 見てください! 早瀬先輩ですよ!」
身体が先に反応した。
私は顔を上げ、そのまま窓の外へ視線を向ける。校舎の外にいたのは、見慣れた背中だった。
早瀬先輩。
その顔には、私と話していた時とは少し違う笑顔が浮かんでいた。
私が向けてほしかった笑顔。
私が、させてあげたかった笑顔。
校舎の方から、一人の女子生徒が先輩を追いかけるように走ってくる。
「あれ……あの人、誰だろ」
「早瀬先輩の……幼馴染だって」
紹介されたわけじゃない。それでも、たぶん間違いない。
周囲の視線なんて気にもしていないのか、二人は自然に手を繋ぎ、そのまま校門の向こうへ消えていった。
羨ましい。
真っ先に浮かんだのは、その一言だった。
私は早瀬先輩が好きだった。でも、先輩はあの人が好きだった。
ただ、それだけ。
頭では、ちゃんと分かっている。心だけが、まだ追いついていない。
「な、何かあったなら話聞きますよ! 友達に『話を聞くのは上手なのにな』って言われるんです!」
私の顔を見て何か察したらしく、隣にいた後輩が慌てて声を掛けてくる。
慰めようとしてくれているのだろう。
「……それ、あんたの話がつまらないって──」
からかうつもりで続きを言いかける。
けれど、私を見るその顔はどこまでも真剣で。冗談なんて一つも混じっていない。
その顔を見ていると、最後まで言うのが少し申し訳なくなった。
どうやら、その友達は本当にこの子のことを分かっているらしい。話すのは得意じゃない。気の利いたことも言えない。
でも、聞こうとはしてくれる。
そんな相手になら、いつか話してもいいのかもしれない。
吸い込んでいた息を、小さな笑いに変えた。
「いや、ありがとね。その時は、相談乗ってもらおうかな」
いつになるかは、分からないけれど。少なくとも、この善意だけは素直に受け取っておきたかった。
私の返事を聞き、後輩は分かりやすく嬉しそうな顔をする。
それを見ていると、さっきまで荒れていた心がほんの少しだけ軽くなった。
もう一度だけ校門の方へ視線を向ける。
二人の姿は、もう見えない。
完全に吹っ切れるには、まだ時間がかかると思う。
それでも。
「ほら。練習行くよ。四月には後輩も入って来るんだし──」
私は席から立ち上がった。
今は、とりあえず目の前のことから始めればいい。あと二ヶ月もすれば、新しい季節が来る。
後ろから子犬みたいについてくる後輩へ、私はいつもの調子で声を掛けた。
「後輩の見本になれるように、荒井君も、しっかりね」
「は、はい!」
廊下へ出ると、遠くから吹奏楽部の演奏が聞こえてきた。
あの日、校舎裏で聞いた同じ音は、私の失恋に追い打ちをかけるように聞こえたのに。
今日は少しだけ、背中を押してくれているような気がした。
少し周りを見渡せば、いくらでも転がっていそうな、ありふれた失恋話。恋をして、その背中を追いかけて。それでも、どうしたって届かなかった。
自分の気持ちに区切りをつけるため、覚悟を決めて想いを伝えた。断られることくらい分かっていたし、そのための覚悟だってしていたつもりだった。
それでも、実際に返ってきた言葉は、想像していたよりずっと痛かった。
──好きな子がいるんだ。
その言葉を口にした時だけ、先輩の表情が少し柔らかくなった。
恥ずかしそうで。それでも、どこか嬉しそうで。
私は泣かないように唇へ力を込め、何とか笑って聞き返した。
──どんな人なんですか。先輩が好きな人って。
先輩が去った放課後の校舎裏には、吹奏楽部の演奏と、運動部の掛け声が変わらず響いていた。遠くから聞こえるカラスの鳴き声まで、今だけは自分を嘲笑っているように聞こえる。
落ち着こうと大きく息を吐き、いつの間にか強く握っていた拳を開いた。
掌には、爪の痕が深く残っていた。
勉強も。
部活も。
恋愛だって。
何か一つに本気になるような人間じゃなかったはずなのに。この恋だけは、思っていたよりずっと本気だったらしい。
掌へ落ちた涙から逃げるように、私は茜色の空を見上げた。
***
「──輩! 新藤先輩!」
机へ突っ伏していると、遠くから自分の名前を呼ばれていることに気付いた。
返事をしないと。
そう思って何度か口を開こうとするものの、顔を上げる気力すら湧いてこない。
「先輩。ミーティング、終わりましたよ」
そんな私にも懲りず、声の主は何度も話しかけてくる。
さすがに無視を続けるのも悪い気がして、私は机に顔を伏せたまま小さく返事をした。
「……あー、うん。ありがと」
自分でも驚くくらい酷い声だった。先週から、ずっとこの調子だ。私はこんなに引きずる人間だったのか。
その事実が、少しだけ情けない。
やがて一つ前の席が引かれ、椅子へ誰かが腰掛ける音がした。
こんな面倒くさい先輩なんて放っておけばいいのに、この後輩にはどうやらその発想がないらしい。
「……練習いかないの」
できるだけ『構うな』という空気を込めて言ってみる。
別に、本当に放っておいてほしいわけではない。ただ、今すぐいつもの部活へ戻るには、少しだけ助走が必要だった。ここは失恋なんてする前からずっと楽しかった場所だからこそ、今までと同じ顔をして戻りたかった。
だというのに、この後輩は。
「練習開始の、じゅ、十六時までまだ二十分あるので! 新藤先輩、体調悪そうですし……ほ、保健室行きますか!」
百パーセント、善意だった。
思わず、机へ伏せたまま笑いそうになる。こんなに真っ直ぐ心配されていると、いつまでも一人で落ち込んでいる自分が少し馬鹿らしくなってくる。
よし。そろそろ顔くらい上げよう。
そう思った、その瞬間だった。
「あ、えっと……あっ! 新藤先輩! 見てください! 早瀬先輩ですよ!」
身体が先に反応した。
私は顔を上げ、そのまま窓の外へ視線を向ける。校舎の外にいたのは、見慣れた背中だった。
早瀬先輩。
その顔には、私と話していた時とは少し違う笑顔が浮かんでいた。
私が向けてほしかった笑顔。
私が、させてあげたかった笑顔。
校舎の方から、一人の女子生徒が先輩を追いかけるように走ってくる。
「あれ……あの人、誰だろ」
「早瀬先輩の……幼馴染だって」
紹介されたわけじゃない。それでも、たぶん間違いない。
周囲の視線なんて気にもしていないのか、二人は自然に手を繋ぎ、そのまま校門の向こうへ消えていった。
羨ましい。
真っ先に浮かんだのは、その一言だった。
私は早瀬先輩が好きだった。でも、先輩はあの人が好きだった。
ただ、それだけ。
頭では、ちゃんと分かっている。心だけが、まだ追いついていない。
「な、何かあったなら話聞きますよ! 友達に『話を聞くのは上手なのにな』って言われるんです!」
私の顔を見て何か察したらしく、隣にいた後輩が慌てて声を掛けてくる。
慰めようとしてくれているのだろう。
「……それ、あんたの話がつまらないって──」
からかうつもりで続きを言いかける。
けれど、私を見るその顔はどこまでも真剣で。冗談なんて一つも混じっていない。
その顔を見ていると、最後まで言うのが少し申し訳なくなった。
どうやら、その友達は本当にこの子のことを分かっているらしい。話すのは得意じゃない。気の利いたことも言えない。
でも、聞こうとはしてくれる。
そんな相手になら、いつか話してもいいのかもしれない。
吸い込んでいた息を、小さな笑いに変えた。
「いや、ありがとね。その時は、相談乗ってもらおうかな」
いつになるかは、分からないけれど。少なくとも、この善意だけは素直に受け取っておきたかった。
私の返事を聞き、後輩は分かりやすく嬉しそうな顔をする。
それを見ていると、さっきまで荒れていた心がほんの少しだけ軽くなった。
もう一度だけ校門の方へ視線を向ける。
二人の姿は、もう見えない。
完全に吹っ切れるには、まだ時間がかかると思う。
それでも。
「ほら。練習行くよ。四月には後輩も入って来るんだし──」
私は席から立ち上がった。
今は、とりあえず目の前のことから始めればいい。あと二ヶ月もすれば、新しい季節が来る。
後ろから子犬みたいについてくる後輩へ、私はいつもの調子で声を掛けた。
「後輩の見本になれるように、荒井君も、しっかりね」
「は、はい!」
廊下へ出ると、遠くから吹奏楽部の演奏が聞こえてきた。
あの日、校舎裏で聞いた同じ音は、私の失恋に追い打ちをかけるように聞こえたのに。
今日は少しだけ、背中を押してくれているような気がした。