昨日までの片想い
昨日までの先輩(二)
早瀬先輩を、いつから好きになったのか。はっきりとしたきっかけがあったわけではない。ただ、本気になった瞬間なら覚えている。
先輩にとって最後の大会となった、県大会の準決勝。
強豪相手にあっさりと負けた試合の後、誰より悔しかったはずの先輩は、泣きじゃくる後輩たちへ一人ずつタオルを渡していた。
あの日、あの背中を見て、私は自分が先輩を好きなのだと気付いた。
恋に恋していた女の子が、本当に恋をした瞬間。
「……何言ってんだか」
自分で考えておいて恥ずかしくなり、小さく笑う。
まだ、こんなことを考えてしまう。
そんな自分を頭の隅へ追いやりながら、部活を終えた人気のない昇降口で靴を履き替える。
ローファーが床へ落ちる乾いた音が、蛍光灯だけに照らされた廊下へ響く。
外へ出れば、校庭では野球部がグラウンドを均していた。その姿を何となく眺めてから、気持ちを切り替えるように小さく声を出す。
「よし」
歩き出そうとしたところで、背後から聞き覚えのある声に呼び止められる。
「あれ、先輩?」
振り返ると、ちょうど昇降口から荒井君が出てくる。
私より少し背が低くて、どこか頼りない。部活ではよく空回りをして、先生に叱られている後輩の男の子。
それでも、その不器用さはどこか憎めない。四月には二年生になって、後輩だってできるのに。
大丈夫だろうか。
「先輩も、今帰りですか!」
「うん、今から帰るところ。荒井君は……部活終わりなのに元気だね」
嬉しそうにこちらを見る荒井君の姿が、家で飼っているゴールデンレトリバーと重なる。玄関を開ければ真っ先に飛んでくる、私の家族。
男の子に対して失礼だとは思う。思うけれど。
見える。尻尾が。
思わず笑いが漏れた。
「何か面白いことでもあったんですか?」
「ない、ないよ。ない、からっ!」
荒井君は理由を探すように、私の顔を覗き込んでくる。
その動きがまた犬みたいで、今度こそ笑いを堪えられなくなった。
「せ、先輩!? 急にどうしたんですか!」
「ごめん……ほんと、ごめんって」
目元に浮かんだ涙を指で拭う。気付けば、さっきまで胸の奥に残っていた重さは随分と薄れていた。
しかし、このまま一人で帰れば、また余計なことを考えてしまいそうで。
少し考え、私は目の前でキョトンとしている後輩へと一つの提案をする。
「確か、荒井君も電車だったよね。駅まで一緒に帰ろっか」
思いつきに近い誘いだった。
それでも荒井君は、こちらが驚くくらい嬉しそうな顔をする。
「は、はい! 一緒に帰ります! あ、荷物持ちますよ!」
「選手がマネージャーの荷物持ってどうするの。ほら、歩いた歩いた」
最終下校を知らせるチャイムが校舎に響く。
その音に背中を押されるように学校を出ると、荒井君は少し先まで行ってから立ち止まり、私が追いつくのを待っていた。
***
「荒井君。あと少しで先輩になるけど、大丈夫?」
学校から駅へ向かう繁華街。
赤信号の前で足を止めながら、私たちは中身があるような、ないような世間話を続けていた。
「はい! ……いえ、僕なんかで大丈夫でしょうか」
「うーん、もう少しシャキッとした方がいいかも」
「こうですか?」
荒井君が急に背筋を伸ばす。
「……そういう意味じゃないんだけど」
思わず笑いそうになって、言葉を飲み込んだ。
精神的に、なんて偉そうなことを言える立場でもない。失恋ひとつで一週間も引きずっている私より、この後輩の方がずっと前を向いている気さえした。
「まぁ、いいや。そうだ。駅まで、私を後輩だと思って接してみてよ」
「せ、先輩をですか!?」
面白そう。
ただそれだけの理由で、私は荒井君へ無茶な課題を出した。
「うん。先輩らしく振る舞う練習」
「せ、先輩を後輩のように……」
荒井君は私の思いつきを、冗談とも取らず真剣に悩み始める。その横顔を眺めながら、ふと気付いた。
私、今、ちゃんと楽しいんだ。
友人との会話には適当に相槌を打ち、勉強も、マネージャーの仕事も、どこかなあなあで過ごしてきた。
そんな私が、このどうでもいいやり取りを素直に楽しんでいる。
少しだけ、不思議だった。
「荒井君はさ……目標っていうか、憧れてる人とかいる?」
また思いつきで問いかける。
私が同じことを聞かれたら、直近の授業で覚えた偉人の名前でも適当に挙げるかもしれない。
でも荒井君なら、こんな質問にも真面目に考えて答える。それが分かっていて聞くのだから、我ながら少し意地が悪い。
けれど、返事は思ったより早かった。
「僕……早瀬先輩が目標なんです」
「そ、そうなんだ。また、どうして」
声が僅かに上ずった。
思ってもいないところから聞こえてきた名前。
聞きたくないわけじゃない。ただ、もう少しだけ遠ざけていたかった。
赤信号は、なかなか青に変わらない。その間にも、荒井君は嬉しそうに話を続ける。
「早瀬先輩、凄く優しいんです! 僕、いつも顧問に叱られちゃってるんですけど……部活終わりに、少し練習付き合ってくれたり」
私の知らない先輩の姿だった。それでも、不思議なくらい簡単に想像できる。
きっと、そういう人だ。
私が好きになった人は。
荒井君の話を聞いているうちに、名前を聞いただけで痛んだ胸が、ほんの少しだけ軽くなっていく。
自分の知らない先輩の良さを、誰かと共有できたことが嬉しかった。
「あと……これは、少し恥ずかしいですけど。早瀬先輩、カッコイイじゃないですか! 僕も、早瀬先輩みたいにカッコ良くなりたいなぁって」
「カッコ良くなって、女子にモテたいんだ」
「ち、違いますよ!」
荒井君が真っ赤な顔で全力否定する。
あまりにも必死なので、今度は隠すこともなく笑ってしまった。
「いいじゃん、いいじゃん。女の子だって可愛くなりたいって思うもの。男子だって、カッコ良くなりたいって思うでしょ」
「せ、先輩も思うんですか?」
「それは──」
もちろん、思った。
可愛くなれば、少しは気にしてもらえるかもしれない。
目立てば、私を見てくれるかもしれない。
服を選んで、髪型を気にして。この帰り道だって、何度先輩と一緒に歩けたらと思っただろう。
でも、その努力が届くことはなかった。
「先輩?」
荒井君の声で、意識が戻る。
十八時を過ぎた冬の空はもう真っ暗で、街の灯りにも負けない一つの星が、頭上で強く輝いていた。
早瀬先輩が見ていた星は、最初からずっと決まっていた。私ではない誰か。
分かっている。
なのに。
「せ、先輩は可愛いです!」
「……は?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「新藤先輩は可愛いです!」
「繰り返さなくていい!」
慌てて横を見る。
荒井君の顔は、そんなに赤くなるものなのかと感心するくらい真っ赤だった。それでも、私を見る目だけは逸らさない。
本気で言っているらしい。
そう分かった瞬間、自分の顔まで熱くなった。
「ほ、ほら。信号変わったよ。いこ」
私は逃げるように横断歩道へ踏み出す。
自然と歩幅が大きくなり、頬に触れると自分でも分かるほど熱を持っていた。
何で、ただの後輩に。
そう心の中で文句を言いながら歩いていたところで、ようやく違和感に気付く。
「あれ、荒井君?」
隣にいない。
少し後ろにもいない。
信号を渡り終えた人の波を逆らうように見渡し、来た道へ目を向ける。荒井君は、まだ反対側にいた。
「荒井君、どうしてまだそこに──」
少し声を張ったところで、人の流れが途切れる。その隣には、杖をついた一人の老婆がいた。
荒井君の手には、見覚えのない荷物。
あぁ。そういうことか。
「なんだ。君も、十分カッコ良いじゃん」
無意識に漏れた言葉に自分でも笑ってしまい。
私は少しだけ見直した後輩のもとへ、駆け足で戻っていった。
先輩にとって最後の大会となった、県大会の準決勝。
強豪相手にあっさりと負けた試合の後、誰より悔しかったはずの先輩は、泣きじゃくる後輩たちへ一人ずつタオルを渡していた。
あの日、あの背中を見て、私は自分が先輩を好きなのだと気付いた。
恋に恋していた女の子が、本当に恋をした瞬間。
「……何言ってんだか」
自分で考えておいて恥ずかしくなり、小さく笑う。
まだ、こんなことを考えてしまう。
そんな自分を頭の隅へ追いやりながら、部活を終えた人気のない昇降口で靴を履き替える。
ローファーが床へ落ちる乾いた音が、蛍光灯だけに照らされた廊下へ響く。
外へ出れば、校庭では野球部がグラウンドを均していた。その姿を何となく眺めてから、気持ちを切り替えるように小さく声を出す。
「よし」
歩き出そうとしたところで、背後から聞き覚えのある声に呼び止められる。
「あれ、先輩?」
振り返ると、ちょうど昇降口から荒井君が出てくる。
私より少し背が低くて、どこか頼りない。部活ではよく空回りをして、先生に叱られている後輩の男の子。
それでも、その不器用さはどこか憎めない。四月には二年生になって、後輩だってできるのに。
大丈夫だろうか。
「先輩も、今帰りですか!」
「うん、今から帰るところ。荒井君は……部活終わりなのに元気だね」
嬉しそうにこちらを見る荒井君の姿が、家で飼っているゴールデンレトリバーと重なる。玄関を開ければ真っ先に飛んでくる、私の家族。
男の子に対して失礼だとは思う。思うけれど。
見える。尻尾が。
思わず笑いが漏れた。
「何か面白いことでもあったんですか?」
「ない、ないよ。ない、からっ!」
荒井君は理由を探すように、私の顔を覗き込んでくる。
その動きがまた犬みたいで、今度こそ笑いを堪えられなくなった。
「せ、先輩!? 急にどうしたんですか!」
「ごめん……ほんと、ごめんって」
目元に浮かんだ涙を指で拭う。気付けば、さっきまで胸の奥に残っていた重さは随分と薄れていた。
しかし、このまま一人で帰れば、また余計なことを考えてしまいそうで。
少し考え、私は目の前でキョトンとしている後輩へと一つの提案をする。
「確か、荒井君も電車だったよね。駅まで一緒に帰ろっか」
思いつきに近い誘いだった。
それでも荒井君は、こちらが驚くくらい嬉しそうな顔をする。
「は、はい! 一緒に帰ります! あ、荷物持ちますよ!」
「選手がマネージャーの荷物持ってどうするの。ほら、歩いた歩いた」
最終下校を知らせるチャイムが校舎に響く。
その音に背中を押されるように学校を出ると、荒井君は少し先まで行ってから立ち止まり、私が追いつくのを待っていた。
***
「荒井君。あと少しで先輩になるけど、大丈夫?」
学校から駅へ向かう繁華街。
赤信号の前で足を止めながら、私たちは中身があるような、ないような世間話を続けていた。
「はい! ……いえ、僕なんかで大丈夫でしょうか」
「うーん、もう少しシャキッとした方がいいかも」
「こうですか?」
荒井君が急に背筋を伸ばす。
「……そういう意味じゃないんだけど」
思わず笑いそうになって、言葉を飲み込んだ。
精神的に、なんて偉そうなことを言える立場でもない。失恋ひとつで一週間も引きずっている私より、この後輩の方がずっと前を向いている気さえした。
「まぁ、いいや。そうだ。駅まで、私を後輩だと思って接してみてよ」
「せ、先輩をですか!?」
面白そう。
ただそれだけの理由で、私は荒井君へ無茶な課題を出した。
「うん。先輩らしく振る舞う練習」
「せ、先輩を後輩のように……」
荒井君は私の思いつきを、冗談とも取らず真剣に悩み始める。その横顔を眺めながら、ふと気付いた。
私、今、ちゃんと楽しいんだ。
友人との会話には適当に相槌を打ち、勉強も、マネージャーの仕事も、どこかなあなあで過ごしてきた。
そんな私が、このどうでもいいやり取りを素直に楽しんでいる。
少しだけ、不思議だった。
「荒井君はさ……目標っていうか、憧れてる人とかいる?」
また思いつきで問いかける。
私が同じことを聞かれたら、直近の授業で覚えた偉人の名前でも適当に挙げるかもしれない。
でも荒井君なら、こんな質問にも真面目に考えて答える。それが分かっていて聞くのだから、我ながら少し意地が悪い。
けれど、返事は思ったより早かった。
「僕……早瀬先輩が目標なんです」
「そ、そうなんだ。また、どうして」
声が僅かに上ずった。
思ってもいないところから聞こえてきた名前。
聞きたくないわけじゃない。ただ、もう少しだけ遠ざけていたかった。
赤信号は、なかなか青に変わらない。その間にも、荒井君は嬉しそうに話を続ける。
「早瀬先輩、凄く優しいんです! 僕、いつも顧問に叱られちゃってるんですけど……部活終わりに、少し練習付き合ってくれたり」
私の知らない先輩の姿だった。それでも、不思議なくらい簡単に想像できる。
きっと、そういう人だ。
私が好きになった人は。
荒井君の話を聞いているうちに、名前を聞いただけで痛んだ胸が、ほんの少しだけ軽くなっていく。
自分の知らない先輩の良さを、誰かと共有できたことが嬉しかった。
「あと……これは、少し恥ずかしいですけど。早瀬先輩、カッコイイじゃないですか! 僕も、早瀬先輩みたいにカッコ良くなりたいなぁって」
「カッコ良くなって、女子にモテたいんだ」
「ち、違いますよ!」
荒井君が真っ赤な顔で全力否定する。
あまりにも必死なので、今度は隠すこともなく笑ってしまった。
「いいじゃん、いいじゃん。女の子だって可愛くなりたいって思うもの。男子だって、カッコ良くなりたいって思うでしょ」
「せ、先輩も思うんですか?」
「それは──」
もちろん、思った。
可愛くなれば、少しは気にしてもらえるかもしれない。
目立てば、私を見てくれるかもしれない。
服を選んで、髪型を気にして。この帰り道だって、何度先輩と一緒に歩けたらと思っただろう。
でも、その努力が届くことはなかった。
「先輩?」
荒井君の声で、意識が戻る。
十八時を過ぎた冬の空はもう真っ暗で、街の灯りにも負けない一つの星が、頭上で強く輝いていた。
早瀬先輩が見ていた星は、最初からずっと決まっていた。私ではない誰か。
分かっている。
なのに。
「せ、先輩は可愛いです!」
「……は?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「新藤先輩は可愛いです!」
「繰り返さなくていい!」
慌てて横を見る。
荒井君の顔は、そんなに赤くなるものなのかと感心するくらい真っ赤だった。それでも、私を見る目だけは逸らさない。
本気で言っているらしい。
そう分かった瞬間、自分の顔まで熱くなった。
「ほ、ほら。信号変わったよ。いこ」
私は逃げるように横断歩道へ踏み出す。
自然と歩幅が大きくなり、頬に触れると自分でも分かるほど熱を持っていた。
何で、ただの後輩に。
そう心の中で文句を言いながら歩いていたところで、ようやく違和感に気付く。
「あれ、荒井君?」
隣にいない。
少し後ろにもいない。
信号を渡り終えた人の波を逆らうように見渡し、来た道へ目を向ける。荒井君は、まだ反対側にいた。
「荒井君、どうしてまだそこに──」
少し声を張ったところで、人の流れが途切れる。その隣には、杖をついた一人の老婆がいた。
荒井君の手には、見覚えのない荷物。
あぁ。そういうことか。
「なんだ。君も、十分カッコ良いじゃん」
無意識に漏れた言葉に自分でも笑ってしまい。
私は少しだけ見直した後輩のもとへ、駆け足で戻っていった。