屋敷を守るための契約結婚だったのに、気づけば冷徹社長に囲い込まれていました
朝霧不動産の社長に就任したばかりの俺に、周囲が何より期待していたのは、大規模再開発事業を成功へ導き、新しい時代の朝霧不動産を世間へ示すことだった。
俺自身もその期待に応えるつもりで、就任早々から有力な開発候補地の調査と買収計画を一気に進めていた。
「緑都地区の土地はこれから交渉のものもありますがほぼ買い上げが可能でしょう。しかし、住楽地区の方ですがこちらはなかなか手ごわそうですね」
秘書の綿貫は、机の上へ資料を並べながら落ち着いた口調で進捗を報告してきた。
開発候補地は三か所。その中でも一番土地の広い緑都地区は、早い段階で会社として土地の確保に動き、計画は想定以上の速度で進んでいたが、もう一つの候補地である住楽地区だけは、まるで誰かが最後の砦を守り続けているかのように交渉が停滞していた。
「こちらは中心ともなる土地の所有者が売らない意思が固いようで、他社も苦労しているようです」
綿貫の言葉を聞きながら差し出された地図へ視線を落とすと、開発予定地の中央付近にぽつんと残された一軒の広大な屋敷が赤く示されている。その位置が計画全体の要となることは一目で理解できた。
「こちらですね」
同時にタブレットで空中写真を綿貫が指でさした。その先の屋敷へ視線を向けた瞬間、胸の奥で何かが静かに引っ掛かり、俺は思わず首をひねる。
――どこかで見たことがある。
その違和感が記憶の扉を叩いた次の瞬間、長い年月、心の奥に沈めていた景色が一気によみがえる。幼い頃に駆け回った庭も、風に揺れる木々も、あの屋敷も、鮮明な色を取り戻して俺の脳裏へ押し寄せてきた。
そして、その懐かしい風景の中心には、いつも屈託なく笑っていた夏音の姿があった。
人は忘れたつもりでも、本当に大切な記憶だけは心のどこかで静かに息を潜めていて、ほんのわずかなきっかけさえあれば、何事もなかったような顔で目の前へ戻ってくるものらしい。
それ以上に俺を驚かせたのは、あの屋敷が今なお変わらずそこに存在していたことだった。
あの父親なら、簡単に手放すはずがないか……。
そう思った瞬間、自分でも理由の分からない安堵が胸を満たしていった。
「所有者は九条周作、か」
「よくご存じでしたね。しかし、周作氏は十年ほど前に亡くなり、当時高校生だった娘の九条夏音がその土地と建物を相続しています」
夏音の名前が告げられた瞬間、懐かしさより先に胸へ走ったのは衝撃だった。