屋敷を守るための契約結婚だったのに、気づけば冷徹社長に囲い込まれていました
それからの日々は、都市開発や九条不動産も調べる必要があって、予想以上に忙しかったが、家に帰ると夏音がいる空間があって、俺は毎日が幸せだった。
それに夏音は、俺を好きにさせるための努力とやらを本気で続けていて、それが妙に面白かった。あまりにも下手な作戦だったものだからつい、キスのひとつでもしたらいいと揶揄ったことがある。夏音は本気で慌てふためき、その様子を見て、彼女にはそういう経験がないのだろうと分かり、少し嬉しくなってもいた。
しかし、何もかもが順調だったわけではない。
夏音との距離が少しずつ縮まり、このまま焦らず時間をかけて信頼を積み重ねていけばいい――そう思い始めていた矢先、その均衡を一瞬で崩される出来事が起きた。
ある夜、総務部の森本が夏音へ想いを告げる場面に偶然居合わせてしまったのだ。
あのときの俺は、社長として冷静でいるべきだった。
夏音の気持ちを尊重し、彼女自身に答えを出させるべきだと頭では理解していたにもかかわらず、森本が夏音へ近づき、その腕へ触れた瞬間、それまで必死に押し込めてきた感情が理性を突き破り、気づけば身体の方が先に動いていた。
『触るな』
嫉妬心は俺の全身を蝕み、止まれなかった。
しかし、彼女の手を無理にひいて歩いて帰る道で、少し冷静になり、俺はしまったと思った。
社長という立場で社員同士の問題へ感情的に割って入り、まして、嫉妬など見せるべきではない。
これまで慎重に築いてきた距離も、ようやく芽生え始めた信頼も、自分の衝動ひとつで壊してしまったのではないかという後悔が、一気に胸へ押し寄せてきた。
しかし、そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、夏音は小さく尋ねてきた。
『手をつないでもいいでしょうか?』
あれが作戦とやらだったのか、それとも別の理由があったのか、今でも本当のところは分からない。
それでも、あの言葉のどこかに彼女の本音が少しでも混じっていてほしいと願わずにはいられなかった。
そして、たとえその場しのぎの作戦だったとしても構わない。その一瞬だけでも彼女の隣に立てるのなら十分だと思いながら、俺は静かにその手を包み込んだ。
指先が触れ合った瞬間、幼い頃に無邪気な笑顔で俺の手を握ってくれた小さな温もりが鮮やかによみがえった。
その温もりをまた知ってしまった以上、もう二度と彼女を誰かへ渡したくないという想いだけが、どうしようもないほど強く胸の奥で膨らんでいった。