触れられない政略結婚〜過保護な御曹司は幼い妻を手放さない〜
第十五章 妻が見てしまった匂わせ写真
その写真を、玲奈は自分から探したわけではなかった。
見たくて見たわけでもない。
むしろ。
できることなら――知らないままでいたかった。
午後三時十分。
大学の講義を終えた玲奈は、キャンパス内のカフェにいた。
窓の外には、初夏の青々とした木々が並んでいる。
昼過ぎまで降っていた雨はすでに上がり、濡れた葉が陽の光を受けてきらきらと輝いていた。
店内には講義を終えた学生たちの声が飛び交っている。
玲奈の向かいには美緒。
テーブルの上には二人分のアイスティーと、半分ほど食べたチーズケーキ。
本来なら。
大学にいる間くらい、普通の十九歳として過ごせるはずだった。
けれど今日の玲奈は、何度もスマートフォンへ視線を落としていた。
隼人から連絡が来ていないか。
自分でも嫌になる。
一条家へ戻って二日目。
昨夜、隼人から届いたのは、
『神谷の警護復帰について手配した』
という短いメッセージだけだった。
玲奈は、
『ありがとうございます』
と返した。
それだけ。
本当は電話をすると言っていた。
けれど仕事が長引いたらしく、
『遅くなった。明日にする』
と連絡があった。
玲奈も、
『分かりました』
と返した。
以前の自分なら、待っただろう。
眠くても。
電話が来るかもしれないと思って、起きていた。
けれど昨夜はスマートフォンを枕元へ置いて、そのまま眠った。
少しずつ。
待たないことを覚えなければならない。
そう思っている。
「玲奈」
美緒に呼ばれ、玲奈は顔を上げた。
「何?」
「聞いてる?」
「聞いてるよ」
「じゃあ私、今何の話してた?」
玲奈は黙った。
美緒がため息をつく。
「全然聞いてないじゃん」
「……ごめん」
玲奈はストローで氷を動かした。
カラン、と小さな音がする。
美緒は玲奈の顔をじっと見た。
「黒川さんと何かあった?」
「どうしてそうなるの?」
「だって最近の玲奈、ずっとそんな顔してる」
「そんな顔って?」
「好きな人に言いたいことがあるのに、言えなくて勝手に苦しくなってる顔」
玲奈の手が止まった。
「……美緒って時々怖いね」
「親友歴、何年だと思ってるの」
玲奈は小さく笑った。
それから窓の外へ視線を向ける。
「少しだけ、一条の家に戻ってるの」
「え?」
美緒の表情が変わった。
「喧嘩?」
「……たぶん」
「たぶんって何」
「私にもよく分からない」
隼人と話せば話すほど。
分からないことが増える。
美緒は何か言おうとした。
その時。
玲奈のスマートフォンが震えた。
画面には通知。
メッセージを送ってきたのは――桜庭紗良。
幼い頃から付き合いのある令嬢仲間。
『玲奈、これ知ってる?』
続けて。
画像が一枚送られてきた。
玲奈は何気なく画面を開いた。
そして。
指が止まった。
「……え」
美緒が玲奈の顔を見る。
「どうしたの?」
玲奈は答えられなかった。
画面に映っているのは。
美月のSNSの投稿だった。
投稿されたのは、わずか十分前。
写真には、ホテルか高級レストランと思われるテーブル。
柔らかな照明。
二つ並んだワイングラス。
高級そうな料理。
そして。
写真の右端に映り込んでいる、男性の左手。
顔はない。
身体すらほとんど写っていない。
でも。
玲奈には分かった。
その腕時計。
黒い文字盤。
細かな傷の位置まで。
隼人が毎日のように身につけているものだった。
さらに。
男性の手元には、見慣れた黒いカフス。
それも。
玲奈が何度も見たことのあるもの。
写真に添えられた文章。
『長い一日の終わりに。
やっぱり、昔から一緒にいる人との時間が一番落ち着く。
七年経っても変わらないものって、あるんですね。』
玲奈の呼吸が浅くなった。
七年。
その数字。
何度聞いただろう。
美月と隼人が一緒にいた時間。
玲奈には絶対に埋められない年月。
さらに。
文章の最後には小さな白いハート。
名前は書いていない。
隼人とも。
社長とも。
恋人とも。
何一つ書いていない。
だからこそ。
言い逃れはいくらでもできる。
それでも。
分かる人には分かる。
隼人の腕時計を知っている人なら。
二人が長年仕事をしてきたことを知っている人なら。
「……玲奈?」
美緒の声。
玲奈は画面を見たまま動けなかった。
「これ……」
美緒がスマートフォンを覗き込む。
そして顔をしかめた。
「何、これ」
玲奈は唇を開く。
声が出ない。
紗良から、もう一通。
『香月美月さんの投稿。消されるかもしれないからスクショした』
その次。
『右に写ってるの、黒川さんじゃない?』
玲奈は返信できなかった。
胸の奥が。
ぎゅっと。
誰かに掴まれているように痛い。
「……隼人さんだと思う」
ようやく出た声。
「時計が」
美緒が玲奈を見る。
「でも、今日の写真とは限らないでしょう?」
玲奈の目が少し揺れる。
確かに。
そうだ。
今日撮ったものとは限らない。
昔の写真かもしれない。
仕事の会食かもしれない。
そもそも。
隼人と美月が二人きりだったという証拠もない。
周りに何人もいたかもしれない。
玲奈は自分に言い聞かせた。
(仕事かもしれない)
また。
同じ。
いつもそう。
仕事。
秘書。
昔から。
七年。
だから気にしてはいけない。
でも。
美月はわざわざ、
『昔から一緒にいる人との時間が一番落ち着く』
と書いた。
玲奈が見る可能性を考えなかったのだろうか。
いや。
「……見てほしかったのかな」
思わず漏れた。
美緒が眉を寄せる。
「誰に?」
玲奈は答えなかった。
自分に。
そう思った。
今までの美月の言葉を思い出す。
『七年もおそばにおりますと、何でも分かるようになるんです』
『いつものお店を取ってあります』
『隼人さんが貸してくださったんです』
『今夜のことは、二人だけの秘密ですね』
偶然。
全部偶然。
そう思おうとしていた。
でも。
もし。
偶然ではなかったら?
玲奈の背筋が冷たくなる。
「玲奈」
美緒がスマートフォンをテーブルへ伏せた。
「これだけで決めつけたら駄目」
「分かってる」
「黒川さんに聞こう」
「……聞いても」
玲奈の声が小さくなる。
「仕事だって言われると思う」
「じゃあ聞くだけ聞けばいいじゃん」
「美緒」
「玲奈はまた一人で考えて、一人で結論出そうとしてる」
図星だった。
玲奈は何も言えない。
「好きなんでしょう?」
胸が痛い。
玲奈は小さく頷いた。
「……うん」
「じゃあ聞きなよ」
「怖い」
初めて。
素直に言った。
「もし本当に……」
その先を言えない。
もし。
隼人が美月を好きだったら。
もし。
玲奈と結婚したのは本当に一条家との関係だけで。
本当は美月のような女性を愛していたら。
知らないままのほうが。
少しだけ幸せなのかもしれない。
「私……」
玲奈は画面へ視線を落とす。
「ずっと、香月さんのほうが隼人さんに似合うって思ってた」
「玲奈」
「仕事もできて、大人で」
声が震える。
「隼人さんのこと、何でも知ってる」
「だからって」
「私は何も知らない」
玲奈は笑った。
ひどく寂しい笑顔だった。
「今でも」
午後四時半。
玲奈は九条コーポレーション本社近くのラウンジにいた。
本当なら九条本社へ行く予定だった。
しかし今日は社内の大会議室が使用中とのことで、蓮から場所を変更したいと連絡が入ったのだ。
玲奈の前には資料が広げられている。
けれど。
内容がまったく頭へ入らなかった。
「玲奈さん」
蓮の声。
「はい」
「ここ、計算間違ってる」
「え?」
玲奈は資料を見る。
普段ならしないような単純なミス。
「すみません」
訂正する。
数分後。
「そこも違う」
「……すみません」
蓮はペンを置いた。
「今日は終わり」
玲奈が顔を上げる。
「でも、まだ――」
「仕事になってない」
はっきり言われた。
玲奈は俯く。
「申し訳ありません」
「怒ってない」
「でも」
「何があった?」
玲奈の指が止まった。
「何も」
「嘘」
隼人とは違う。
蓮はすぐに言う。
「ホテルで黒川に会った時よりひどい顔してる」
玲奈は答えなかった。
蓮が身を乗り出す。
「黒川?」
「違います」
「じゃあ秘書?」
玲奈の顔が上がった。
蓮は小さく息を吐く。
「当たりか」
「……どうして分かるんですか」
「前から気にしてただろ」
玲奈は少し迷った。
それから。
スマートフォンを蓮へ向けた。
「これ」
蓮が画面を見る。
数秒。
表情が変わった。
「香月美月のアカウント?」
「はい」
蓮は写真を拡大する。
時計。
カフス。
グラス。
そして文章。
「……ずいぶん分かりやすい匂わせだな」
玲奈の胸が痛む。
「やっぱりそう見えますか」
「見えるように撮ってる」
蓮は即答した。
「でも」
玲奈は慌てる。
「仕事かもしれません」
「仕事かどうかは知らない」
蓮は玲奈を見る。
「ただ、この女が『仕事に見せたい』とは思ってないのは確かだな」
玲奈は黙る。
「黒川に確認した?」
「してません」
「何で」
「……怖いから」
蓮が少し驚いた顔をする。
玲奈は視線を落とした。
「もし本当に二人が……」
言えない。
蓮はしばらく玲奈を見ていた。
それから。
「俺なら」
玲奈が顔を上げる。
「好きな女に、こんな顔させた時点で説明するけどな」
「九条さん」
「仕事だろうが何だろうが」
蓮の声は軽くない。
「誤解されて困るなら、誤解させないようにする」
玲奈の胸に刺さる。
「黒川が何を考えてるか、俺には分からない」
「……はい」
「でも」
蓮は玲奈をまっすぐ見る。
「玲奈さんがこんなに我慢する必要もないと思う」
その言葉。
最近。
何度聞いただろう。
亮も。
父も。
同じようなことを言った。
我慢しなくていい。
どうして隼人以外の人ばかりが。
玲奈の寂しさに気づくのだろう。
「……少し、外を歩いてもいいですか?」
「いいよ」
蓮は資料を閉じた。
同じ頃。
黒川ホールディングス。
「香月さん」
第二秘書・佐伯奈緒は、自分のスマートフォンを見つめたまま固まっていた。
昼休みに社員仲間から送られてきた画像。
美月のSNS。
奈緒は何度も確認した。
見間違いではない。
写真の男性。
顔はない。
けれど隼人の時計だ。
奈緒は毎日スケジュール管理をしている。
隼人の持ち物くらい分かる。
問題は。
その写真の日付だった。
奈緒には見覚えがあった。
「これ……先月の」
ホテルで極秘会議をした日。
奈緒は資料を届けるため、途中まで同席していた。
参加者は隼人と美月だけではない。
橘常務。
顧問弁護士。
海外法人責任者。
全部で六名。
写真は会議終了後。
ホテル内のレストランで全員が食事を取った際のものだ。
テーブルを切り取れば。
隼人と美月だけの食事に見える。
しかも。
「どうして、今……」
一か月近く前の写真を。
今日撮ったように投稿している。
そして。
《昔から一緒にいる人との時間が一番落ち着く》
仕事仲間が読むだけでも誤解する。
まして。
妻が見たら。
奈緒は立ち上がった。
迷った。
美月は先輩だ。
入社以来、仕事を教えてくれた。
厳しいが。
尊敬していた。
それでも。
これは違う。
奈緒は隼人の執務室の扉をノックした。
「どうぞ」
「失礼します」
隼人は資料から顔を上げる。
「何だ」
「社長」
少し迷って。
スマートフォンを差し出す。
「こちら、ご存じでしょうか」
隼人が画面を見る。
その瞬間。
表情が変わった。
「……何だ、これは」
奈緒の背筋が伸びる。
「香月さんが本日SNSへ投稿されたものです」
「今日?」
「はい」
隼人が画面を手に取る。
文章を読む。
顔から温度が消えていく。
「この写真はいつだ」
「先月十二日の海外案件会議後だと思います」
隼人もすぐに思い出した。
あの日。
ホテル。
玲奈に誤解をさせた夜。
その後。
参加者全員で簡単に食事をした。
隼人の隣に橘。
向かいに弁護士。
美月は斜め前だった。
二人きりなどではない。
「なぜこんな撮り方になっている」
奈緒は答えられない。
隼人が立ち上がった。
「香月は」
「本日は午後から外出しております」
「どこへ」
「取引先への資料届けと聞いております」
「戻りは」
「十八時予定です」
隼人はスマートフォンを取り出す。
最初に美月へかける。
出ない。
もう一度。
出ない。
隼人の眉が深く寄る。
「玲奈は」
口から出た名前。
奈緒は少し驚く。
「奥様、ですか?」
隼人はもう玲奈へ電話をかけていた。
一度。
繋がらない。
二度目。
出ない。
胸の奥に嫌な予感が広がる。
「……見たのか」
小さく呟く。
玲奈は以前。
自分と美月の距離が嫌だと、はっきり言った。
それなのに。
こんなものを見たら。
どう思う。
『やっぱり私は、隼人さんには必要ない』
玲奈なら。
そう考えかねない。
隼人はジャケットへ手を伸ばした。
「社長?」
「今日の残りは橘へ回せ」
「ですが十七時半から――」
「キャンセル」
迷いはなかった。
「玲奈を探す」
奈緒は何も言えなくなった。
玲奈は蓮と並んで、ビルの外へ出た。
夕方の街。
雨上がりの歩道に夕日が反射している。
少し離れて亮がついてきていた。
朝。
約束通り玲奈の護衛へ戻ってきた。
再会した時。
亮は何も聞かなかった。
ただ、
『本日より、またよろしくお願いいたします』
と頭を下げた。
それだけだった。
玲奈は歩きながら空を見る。
「雨、止んでよかった」
「そうだな」
蓮が答える。
しばらく二人とも何も話さなかった。
玲奈はスマートフォンをバッグへ入れた。
画面を見るのが嫌だった。
「九条さん」
「何?」
「もし」
玲奈は歩きながら言う。
「好きな人に、別に大切な人がいたら……どうします?」
蓮が玲奈を見る。
「諦める?」
「質問しているのは私です」
「じゃあ俺なら諦めない」
即答だった。
玲奈が少し笑う。
「九条さんらしい」
「ただし」
蓮の表情が少し真面目になる。
「相手の気持ちがはっきりそっちにあるなら、話は別」
玲奈は黙る。
「自分を選ぶ可能性がない女を、いつまでも縛りたくはない」
その言葉が胸へ落ちる。
「玲奈さんは?」
「私?」
「黒川が香月を好きだったら」
玲奈の足が少し遅くなる。
考えたくなかった。
でも。
考えなければならない。
「……離れます」
声は思っていたより静かだった。
蓮の表情が変わる。
「いいの?」
「だって」
玲奈は少し笑った。
「好きな人が幸せになりたい相手の邪魔はしたくありません」
言ってしまうと。
胸が激しく痛んだ。
隼人と離れる。
想像するだけで苦しい。
でも。
もし本当に美月を愛しているなら。
玲奈が妻の座に居座ることに、何の意味があるのだろう。
政略結婚として始まったのだから。
一条化粧品さえ自力で立て直せれば。
もう。
隼人を縛る理由はない。
「……会社」
玲奈が小さく呟く。
蓮が聞き返す。
「何?」
「一条化粧品を、もっと早く一人で立てるようにしないと」
「玲奈さん?」
玲奈の中で。
小さな考えが形になり始めていた。
黒川家からの支援がなくても。
一条が生きていけるようになれば。
この結婚を続けなければならない理由はなくなる。
そうすれば。
隼人も。
自分が本当に好きな人を選べる。
「玲奈」
突然。
背後から名前を呼ばれた。
聞き慣れた声。
玲奈の身体が止まる。
蓮も振り返る。
歩道の少し先。
黒い車の横に。
隼人が立っていた。
「……隼人さん」
どうして。
仕事中のはず。
隼人は玲奈だけを見ている。
蓮の存在など気にしていないように。
こちらへ歩いてくる。
いつもより速い。
そして。
玲奈の前で足を止めた。
「電話した」
「……気づきませんでした」
「そうか」
隼人の呼吸が、ほんの少し乱れている。
急いできたのだろうか。
「玲奈」
「はい」
「香月のSNSを見たか」
胸が大きく鳴った。
玲奈は答えなかった。
それだけで。
隼人には分かった。
「見たんだな」
「……はい」
隼人が目を閉じる。
ほんの一瞬。
「違う」
玲奈の胸が揺れる。
「何がですか」
「あの写真は今日じゃない」
「……」
「先月の海外案件の会議後だ」
玲奈は隼人を見る。
「二人ではない」
隼人は続ける。
「橘も、弁護士も、海外法人の担当者もいた」
玲奈の瞳が揺れた。
「本当に?」
「嘘を言う理由がない」
隼人はスマートフォンを取り出す。
奈緒から送られてきた当日の会議予定。
参加者。
レストラン予約。
すべて玲奈へ見せる。
「写真は切り取られている」
玲奈は画面を見つめた。
確かに。
六名。
「投稿した理由は、まだ聞いていない」
隼人の声が低くなる。
「だが、俺が許可したものじゃない」
玲奈は何も言えない。
隼人が。
説明している。
今まで。
何度聞いても、
『仕事だ』
だけだった。
それが初めて。
玲奈が誤解しないように、言葉を選んでいる。
「……でも」
玲奈は小さく言った。
「七年、一緒なのは本当ですよね」
隼人の表情が変わる。
「それは仕事だ」
「香月さんは、そう思っていないかもしれません」
その言葉で。
隼人が黙った。
玲奈の胸が冷える。
やっぱり。
何かある。
「……何ですか」
「玲奈」
「何か、あったんですか?」
隼人は数秒迷った。
以前なら。
言わなかっただろう。
玲奈を巻き込みたくない。
余計な心配をさせたくない。
そう考えて。
けれど。
その結果が今だ。
隼人は口を開いた。
「香月から、想いを告げられた」
玲奈の顔から血の気が引いた。
蓮も少し眉を動かす。
「……いつ」
「昨夜」
玲奈は動けない。
昨夜。
自分が一条家へ戻った夜。
「黒川邸で?」
「……ああ」
胸が痛い。
美月は。
玲奈がいない黒川邸へ行った。
そこで。
隼人へ想いを告げた。
玲奈の指先が震える。
それでも。
一番聞かなければならない。
「隼人さんは?」
声がかすれた。
「何て答えたんですか」
隼人は玲奈を見る。
逃げなかった。
「断った」
玲奈の呼吸が止まりそうになる。
「俺が香月を女性として見たことはない」
はっきり。
初めて。
玲奈がずっと聞きたかった言葉だった。
「一度もない」
胸の奥で。
固く結ばれていたものが、少しだけほどける。
それでも。
まだ。
すべてではない。
玲奈は隼人を見上げる。
「だったら……」
声が震える。
「どうして、今まで言ってくれなかったんですか」
隼人は答えられない。
「私、ずっと」
玲奈の目に涙が浮かぶ。
「ずっと怖かったんです」
「玲奈」
「香月さんのほうが好きなのかもしれないって」
一歩。
玲奈が後ろへ下がる。
「隼人さんは何も言ってくれないから」
声が崩れる。
「私、自分で考えるしかなかった」
隼人の胸が痛む。
「……悪かった」
玲奈が目を見開く。
隼人が。
謝った。
それも。
言い訳せずに。
「本当に」
隼人は続ける。
「悪かった」
玲奈の頬を涙が伝う。
隼人が反射的に手を伸ばしかける。
けれど。
途中で止めた。
触れていいか分からない。
以前なら、勝手に肩を抱いていたかもしれない。
今は。
「触っていいか」
玲奈の目がさらに大きくなる。
そんなことを。
隼人が聞くなんて。
玲奈は答えられなかった。
でも。
逃げなかった。
隼人はそれを拒絶ではないと受け取り。
そっと。
本当にそっと。
玲奈の頬に触れた。
親指で涙を拭う。
玲奈の胸が激しく鳴る。
こんなにも優しく。
隼人に触れられたのは。
初めてだった。
少し離れたところで。
蓮は二人を見ていた。
何も言わず。
ただ。
隼人を見る目だけが、少し複雑になっていた。
そして。
さらに離れた場所。
ビルの影に停まった一台の車の中から。
その光景を見ている女がいた。
美月だった。
玲奈の頬へ触れる隼人。
逃げない玲奈。
二人の距離。
「……どうして」
美月の唇が震える。
自分が投稿した写真は。
玲奈を遠ざけるはずだった。
隼人を信じられなくさせるはずだった。
なのに。
結果は逆。
隼人は初めて玲奈へすべて説明した。
自分の告白まで。
そして今。
自分には一度も向けなかった優しい手で。
玲奈の涙を拭っている。
美月の指が、スマートフォンを強く握る。
「どうして、私じゃないの……」
七年間。
待った。
支えた。
隣にいた。
それなのに。
隼人の心を動かしたのは。
何も知らなかった十九歳の少女。
美月の中で。
最後に残っていた理性が。
ゆっくりと。
音もなく、崩れ始めていた。
見たくて見たわけでもない。
むしろ。
できることなら――知らないままでいたかった。
午後三時十分。
大学の講義を終えた玲奈は、キャンパス内のカフェにいた。
窓の外には、初夏の青々とした木々が並んでいる。
昼過ぎまで降っていた雨はすでに上がり、濡れた葉が陽の光を受けてきらきらと輝いていた。
店内には講義を終えた学生たちの声が飛び交っている。
玲奈の向かいには美緒。
テーブルの上には二人分のアイスティーと、半分ほど食べたチーズケーキ。
本来なら。
大学にいる間くらい、普通の十九歳として過ごせるはずだった。
けれど今日の玲奈は、何度もスマートフォンへ視線を落としていた。
隼人から連絡が来ていないか。
自分でも嫌になる。
一条家へ戻って二日目。
昨夜、隼人から届いたのは、
『神谷の警護復帰について手配した』
という短いメッセージだけだった。
玲奈は、
『ありがとうございます』
と返した。
それだけ。
本当は電話をすると言っていた。
けれど仕事が長引いたらしく、
『遅くなった。明日にする』
と連絡があった。
玲奈も、
『分かりました』
と返した。
以前の自分なら、待っただろう。
眠くても。
電話が来るかもしれないと思って、起きていた。
けれど昨夜はスマートフォンを枕元へ置いて、そのまま眠った。
少しずつ。
待たないことを覚えなければならない。
そう思っている。
「玲奈」
美緒に呼ばれ、玲奈は顔を上げた。
「何?」
「聞いてる?」
「聞いてるよ」
「じゃあ私、今何の話してた?」
玲奈は黙った。
美緒がため息をつく。
「全然聞いてないじゃん」
「……ごめん」
玲奈はストローで氷を動かした。
カラン、と小さな音がする。
美緒は玲奈の顔をじっと見た。
「黒川さんと何かあった?」
「どうしてそうなるの?」
「だって最近の玲奈、ずっとそんな顔してる」
「そんな顔って?」
「好きな人に言いたいことがあるのに、言えなくて勝手に苦しくなってる顔」
玲奈の手が止まった。
「……美緒って時々怖いね」
「親友歴、何年だと思ってるの」
玲奈は小さく笑った。
それから窓の外へ視線を向ける。
「少しだけ、一条の家に戻ってるの」
「え?」
美緒の表情が変わった。
「喧嘩?」
「……たぶん」
「たぶんって何」
「私にもよく分からない」
隼人と話せば話すほど。
分からないことが増える。
美緒は何か言おうとした。
その時。
玲奈のスマートフォンが震えた。
画面には通知。
メッセージを送ってきたのは――桜庭紗良。
幼い頃から付き合いのある令嬢仲間。
『玲奈、これ知ってる?』
続けて。
画像が一枚送られてきた。
玲奈は何気なく画面を開いた。
そして。
指が止まった。
「……え」
美緒が玲奈の顔を見る。
「どうしたの?」
玲奈は答えられなかった。
画面に映っているのは。
美月のSNSの投稿だった。
投稿されたのは、わずか十分前。
写真には、ホテルか高級レストランと思われるテーブル。
柔らかな照明。
二つ並んだワイングラス。
高級そうな料理。
そして。
写真の右端に映り込んでいる、男性の左手。
顔はない。
身体すらほとんど写っていない。
でも。
玲奈には分かった。
その腕時計。
黒い文字盤。
細かな傷の位置まで。
隼人が毎日のように身につけているものだった。
さらに。
男性の手元には、見慣れた黒いカフス。
それも。
玲奈が何度も見たことのあるもの。
写真に添えられた文章。
『長い一日の終わりに。
やっぱり、昔から一緒にいる人との時間が一番落ち着く。
七年経っても変わらないものって、あるんですね。』
玲奈の呼吸が浅くなった。
七年。
その数字。
何度聞いただろう。
美月と隼人が一緒にいた時間。
玲奈には絶対に埋められない年月。
さらに。
文章の最後には小さな白いハート。
名前は書いていない。
隼人とも。
社長とも。
恋人とも。
何一つ書いていない。
だからこそ。
言い逃れはいくらでもできる。
それでも。
分かる人には分かる。
隼人の腕時計を知っている人なら。
二人が長年仕事をしてきたことを知っている人なら。
「……玲奈?」
美緒の声。
玲奈は画面を見たまま動けなかった。
「これ……」
美緒がスマートフォンを覗き込む。
そして顔をしかめた。
「何、これ」
玲奈は唇を開く。
声が出ない。
紗良から、もう一通。
『香月美月さんの投稿。消されるかもしれないからスクショした』
その次。
『右に写ってるの、黒川さんじゃない?』
玲奈は返信できなかった。
胸の奥が。
ぎゅっと。
誰かに掴まれているように痛い。
「……隼人さんだと思う」
ようやく出た声。
「時計が」
美緒が玲奈を見る。
「でも、今日の写真とは限らないでしょう?」
玲奈の目が少し揺れる。
確かに。
そうだ。
今日撮ったものとは限らない。
昔の写真かもしれない。
仕事の会食かもしれない。
そもそも。
隼人と美月が二人きりだったという証拠もない。
周りに何人もいたかもしれない。
玲奈は自分に言い聞かせた。
(仕事かもしれない)
また。
同じ。
いつもそう。
仕事。
秘書。
昔から。
七年。
だから気にしてはいけない。
でも。
美月はわざわざ、
『昔から一緒にいる人との時間が一番落ち着く』
と書いた。
玲奈が見る可能性を考えなかったのだろうか。
いや。
「……見てほしかったのかな」
思わず漏れた。
美緒が眉を寄せる。
「誰に?」
玲奈は答えなかった。
自分に。
そう思った。
今までの美月の言葉を思い出す。
『七年もおそばにおりますと、何でも分かるようになるんです』
『いつものお店を取ってあります』
『隼人さんが貸してくださったんです』
『今夜のことは、二人だけの秘密ですね』
偶然。
全部偶然。
そう思おうとしていた。
でも。
もし。
偶然ではなかったら?
玲奈の背筋が冷たくなる。
「玲奈」
美緒がスマートフォンをテーブルへ伏せた。
「これだけで決めつけたら駄目」
「分かってる」
「黒川さんに聞こう」
「……聞いても」
玲奈の声が小さくなる。
「仕事だって言われると思う」
「じゃあ聞くだけ聞けばいいじゃん」
「美緒」
「玲奈はまた一人で考えて、一人で結論出そうとしてる」
図星だった。
玲奈は何も言えない。
「好きなんでしょう?」
胸が痛い。
玲奈は小さく頷いた。
「……うん」
「じゃあ聞きなよ」
「怖い」
初めて。
素直に言った。
「もし本当に……」
その先を言えない。
もし。
隼人が美月を好きだったら。
もし。
玲奈と結婚したのは本当に一条家との関係だけで。
本当は美月のような女性を愛していたら。
知らないままのほうが。
少しだけ幸せなのかもしれない。
「私……」
玲奈は画面へ視線を落とす。
「ずっと、香月さんのほうが隼人さんに似合うって思ってた」
「玲奈」
「仕事もできて、大人で」
声が震える。
「隼人さんのこと、何でも知ってる」
「だからって」
「私は何も知らない」
玲奈は笑った。
ひどく寂しい笑顔だった。
「今でも」
午後四時半。
玲奈は九条コーポレーション本社近くのラウンジにいた。
本当なら九条本社へ行く予定だった。
しかし今日は社内の大会議室が使用中とのことで、蓮から場所を変更したいと連絡が入ったのだ。
玲奈の前には資料が広げられている。
けれど。
内容がまったく頭へ入らなかった。
「玲奈さん」
蓮の声。
「はい」
「ここ、計算間違ってる」
「え?」
玲奈は資料を見る。
普段ならしないような単純なミス。
「すみません」
訂正する。
数分後。
「そこも違う」
「……すみません」
蓮はペンを置いた。
「今日は終わり」
玲奈が顔を上げる。
「でも、まだ――」
「仕事になってない」
はっきり言われた。
玲奈は俯く。
「申し訳ありません」
「怒ってない」
「でも」
「何があった?」
玲奈の指が止まった。
「何も」
「嘘」
隼人とは違う。
蓮はすぐに言う。
「ホテルで黒川に会った時よりひどい顔してる」
玲奈は答えなかった。
蓮が身を乗り出す。
「黒川?」
「違います」
「じゃあ秘書?」
玲奈の顔が上がった。
蓮は小さく息を吐く。
「当たりか」
「……どうして分かるんですか」
「前から気にしてただろ」
玲奈は少し迷った。
それから。
スマートフォンを蓮へ向けた。
「これ」
蓮が画面を見る。
数秒。
表情が変わった。
「香月美月のアカウント?」
「はい」
蓮は写真を拡大する。
時計。
カフス。
グラス。
そして文章。
「……ずいぶん分かりやすい匂わせだな」
玲奈の胸が痛む。
「やっぱりそう見えますか」
「見えるように撮ってる」
蓮は即答した。
「でも」
玲奈は慌てる。
「仕事かもしれません」
「仕事かどうかは知らない」
蓮は玲奈を見る。
「ただ、この女が『仕事に見せたい』とは思ってないのは確かだな」
玲奈は黙る。
「黒川に確認した?」
「してません」
「何で」
「……怖いから」
蓮が少し驚いた顔をする。
玲奈は視線を落とした。
「もし本当に二人が……」
言えない。
蓮はしばらく玲奈を見ていた。
それから。
「俺なら」
玲奈が顔を上げる。
「好きな女に、こんな顔させた時点で説明するけどな」
「九条さん」
「仕事だろうが何だろうが」
蓮の声は軽くない。
「誤解されて困るなら、誤解させないようにする」
玲奈の胸に刺さる。
「黒川が何を考えてるか、俺には分からない」
「……はい」
「でも」
蓮は玲奈をまっすぐ見る。
「玲奈さんがこんなに我慢する必要もないと思う」
その言葉。
最近。
何度聞いただろう。
亮も。
父も。
同じようなことを言った。
我慢しなくていい。
どうして隼人以外の人ばかりが。
玲奈の寂しさに気づくのだろう。
「……少し、外を歩いてもいいですか?」
「いいよ」
蓮は資料を閉じた。
同じ頃。
黒川ホールディングス。
「香月さん」
第二秘書・佐伯奈緒は、自分のスマートフォンを見つめたまま固まっていた。
昼休みに社員仲間から送られてきた画像。
美月のSNS。
奈緒は何度も確認した。
見間違いではない。
写真の男性。
顔はない。
けれど隼人の時計だ。
奈緒は毎日スケジュール管理をしている。
隼人の持ち物くらい分かる。
問題は。
その写真の日付だった。
奈緒には見覚えがあった。
「これ……先月の」
ホテルで極秘会議をした日。
奈緒は資料を届けるため、途中まで同席していた。
参加者は隼人と美月だけではない。
橘常務。
顧問弁護士。
海外法人責任者。
全部で六名。
写真は会議終了後。
ホテル内のレストランで全員が食事を取った際のものだ。
テーブルを切り取れば。
隼人と美月だけの食事に見える。
しかも。
「どうして、今……」
一か月近く前の写真を。
今日撮ったように投稿している。
そして。
《昔から一緒にいる人との時間が一番落ち着く》
仕事仲間が読むだけでも誤解する。
まして。
妻が見たら。
奈緒は立ち上がった。
迷った。
美月は先輩だ。
入社以来、仕事を教えてくれた。
厳しいが。
尊敬していた。
それでも。
これは違う。
奈緒は隼人の執務室の扉をノックした。
「どうぞ」
「失礼します」
隼人は資料から顔を上げる。
「何だ」
「社長」
少し迷って。
スマートフォンを差し出す。
「こちら、ご存じでしょうか」
隼人が画面を見る。
その瞬間。
表情が変わった。
「……何だ、これは」
奈緒の背筋が伸びる。
「香月さんが本日SNSへ投稿されたものです」
「今日?」
「はい」
隼人が画面を手に取る。
文章を読む。
顔から温度が消えていく。
「この写真はいつだ」
「先月十二日の海外案件会議後だと思います」
隼人もすぐに思い出した。
あの日。
ホテル。
玲奈に誤解をさせた夜。
その後。
参加者全員で簡単に食事をした。
隼人の隣に橘。
向かいに弁護士。
美月は斜め前だった。
二人きりなどではない。
「なぜこんな撮り方になっている」
奈緒は答えられない。
隼人が立ち上がった。
「香月は」
「本日は午後から外出しております」
「どこへ」
「取引先への資料届けと聞いております」
「戻りは」
「十八時予定です」
隼人はスマートフォンを取り出す。
最初に美月へかける。
出ない。
もう一度。
出ない。
隼人の眉が深く寄る。
「玲奈は」
口から出た名前。
奈緒は少し驚く。
「奥様、ですか?」
隼人はもう玲奈へ電話をかけていた。
一度。
繋がらない。
二度目。
出ない。
胸の奥に嫌な予感が広がる。
「……見たのか」
小さく呟く。
玲奈は以前。
自分と美月の距離が嫌だと、はっきり言った。
それなのに。
こんなものを見たら。
どう思う。
『やっぱり私は、隼人さんには必要ない』
玲奈なら。
そう考えかねない。
隼人はジャケットへ手を伸ばした。
「社長?」
「今日の残りは橘へ回せ」
「ですが十七時半から――」
「キャンセル」
迷いはなかった。
「玲奈を探す」
奈緒は何も言えなくなった。
玲奈は蓮と並んで、ビルの外へ出た。
夕方の街。
雨上がりの歩道に夕日が反射している。
少し離れて亮がついてきていた。
朝。
約束通り玲奈の護衛へ戻ってきた。
再会した時。
亮は何も聞かなかった。
ただ、
『本日より、またよろしくお願いいたします』
と頭を下げた。
それだけだった。
玲奈は歩きながら空を見る。
「雨、止んでよかった」
「そうだな」
蓮が答える。
しばらく二人とも何も話さなかった。
玲奈はスマートフォンをバッグへ入れた。
画面を見るのが嫌だった。
「九条さん」
「何?」
「もし」
玲奈は歩きながら言う。
「好きな人に、別に大切な人がいたら……どうします?」
蓮が玲奈を見る。
「諦める?」
「質問しているのは私です」
「じゃあ俺なら諦めない」
即答だった。
玲奈が少し笑う。
「九条さんらしい」
「ただし」
蓮の表情が少し真面目になる。
「相手の気持ちがはっきりそっちにあるなら、話は別」
玲奈は黙る。
「自分を選ぶ可能性がない女を、いつまでも縛りたくはない」
その言葉が胸へ落ちる。
「玲奈さんは?」
「私?」
「黒川が香月を好きだったら」
玲奈の足が少し遅くなる。
考えたくなかった。
でも。
考えなければならない。
「……離れます」
声は思っていたより静かだった。
蓮の表情が変わる。
「いいの?」
「だって」
玲奈は少し笑った。
「好きな人が幸せになりたい相手の邪魔はしたくありません」
言ってしまうと。
胸が激しく痛んだ。
隼人と離れる。
想像するだけで苦しい。
でも。
もし本当に美月を愛しているなら。
玲奈が妻の座に居座ることに、何の意味があるのだろう。
政略結婚として始まったのだから。
一条化粧品さえ自力で立て直せれば。
もう。
隼人を縛る理由はない。
「……会社」
玲奈が小さく呟く。
蓮が聞き返す。
「何?」
「一条化粧品を、もっと早く一人で立てるようにしないと」
「玲奈さん?」
玲奈の中で。
小さな考えが形になり始めていた。
黒川家からの支援がなくても。
一条が生きていけるようになれば。
この結婚を続けなければならない理由はなくなる。
そうすれば。
隼人も。
自分が本当に好きな人を選べる。
「玲奈」
突然。
背後から名前を呼ばれた。
聞き慣れた声。
玲奈の身体が止まる。
蓮も振り返る。
歩道の少し先。
黒い車の横に。
隼人が立っていた。
「……隼人さん」
どうして。
仕事中のはず。
隼人は玲奈だけを見ている。
蓮の存在など気にしていないように。
こちらへ歩いてくる。
いつもより速い。
そして。
玲奈の前で足を止めた。
「電話した」
「……気づきませんでした」
「そうか」
隼人の呼吸が、ほんの少し乱れている。
急いできたのだろうか。
「玲奈」
「はい」
「香月のSNSを見たか」
胸が大きく鳴った。
玲奈は答えなかった。
それだけで。
隼人には分かった。
「見たんだな」
「……はい」
隼人が目を閉じる。
ほんの一瞬。
「違う」
玲奈の胸が揺れる。
「何がですか」
「あの写真は今日じゃない」
「……」
「先月の海外案件の会議後だ」
玲奈は隼人を見る。
「二人ではない」
隼人は続ける。
「橘も、弁護士も、海外法人の担当者もいた」
玲奈の瞳が揺れた。
「本当に?」
「嘘を言う理由がない」
隼人はスマートフォンを取り出す。
奈緒から送られてきた当日の会議予定。
参加者。
レストラン予約。
すべて玲奈へ見せる。
「写真は切り取られている」
玲奈は画面を見つめた。
確かに。
六名。
「投稿した理由は、まだ聞いていない」
隼人の声が低くなる。
「だが、俺が許可したものじゃない」
玲奈は何も言えない。
隼人が。
説明している。
今まで。
何度聞いても、
『仕事だ』
だけだった。
それが初めて。
玲奈が誤解しないように、言葉を選んでいる。
「……でも」
玲奈は小さく言った。
「七年、一緒なのは本当ですよね」
隼人の表情が変わる。
「それは仕事だ」
「香月さんは、そう思っていないかもしれません」
その言葉で。
隼人が黙った。
玲奈の胸が冷える。
やっぱり。
何かある。
「……何ですか」
「玲奈」
「何か、あったんですか?」
隼人は数秒迷った。
以前なら。
言わなかっただろう。
玲奈を巻き込みたくない。
余計な心配をさせたくない。
そう考えて。
けれど。
その結果が今だ。
隼人は口を開いた。
「香月から、想いを告げられた」
玲奈の顔から血の気が引いた。
蓮も少し眉を動かす。
「……いつ」
「昨夜」
玲奈は動けない。
昨夜。
自分が一条家へ戻った夜。
「黒川邸で?」
「……ああ」
胸が痛い。
美月は。
玲奈がいない黒川邸へ行った。
そこで。
隼人へ想いを告げた。
玲奈の指先が震える。
それでも。
一番聞かなければならない。
「隼人さんは?」
声がかすれた。
「何て答えたんですか」
隼人は玲奈を見る。
逃げなかった。
「断った」
玲奈の呼吸が止まりそうになる。
「俺が香月を女性として見たことはない」
はっきり。
初めて。
玲奈がずっと聞きたかった言葉だった。
「一度もない」
胸の奥で。
固く結ばれていたものが、少しだけほどける。
それでも。
まだ。
すべてではない。
玲奈は隼人を見上げる。
「だったら……」
声が震える。
「どうして、今まで言ってくれなかったんですか」
隼人は答えられない。
「私、ずっと」
玲奈の目に涙が浮かぶ。
「ずっと怖かったんです」
「玲奈」
「香月さんのほうが好きなのかもしれないって」
一歩。
玲奈が後ろへ下がる。
「隼人さんは何も言ってくれないから」
声が崩れる。
「私、自分で考えるしかなかった」
隼人の胸が痛む。
「……悪かった」
玲奈が目を見開く。
隼人が。
謝った。
それも。
言い訳せずに。
「本当に」
隼人は続ける。
「悪かった」
玲奈の頬を涙が伝う。
隼人が反射的に手を伸ばしかける。
けれど。
途中で止めた。
触れていいか分からない。
以前なら、勝手に肩を抱いていたかもしれない。
今は。
「触っていいか」
玲奈の目がさらに大きくなる。
そんなことを。
隼人が聞くなんて。
玲奈は答えられなかった。
でも。
逃げなかった。
隼人はそれを拒絶ではないと受け取り。
そっと。
本当にそっと。
玲奈の頬に触れた。
親指で涙を拭う。
玲奈の胸が激しく鳴る。
こんなにも優しく。
隼人に触れられたのは。
初めてだった。
少し離れたところで。
蓮は二人を見ていた。
何も言わず。
ただ。
隼人を見る目だけが、少し複雑になっていた。
そして。
さらに離れた場所。
ビルの影に停まった一台の車の中から。
その光景を見ている女がいた。
美月だった。
玲奈の頬へ触れる隼人。
逃げない玲奈。
二人の距離。
「……どうして」
美月の唇が震える。
自分が投稿した写真は。
玲奈を遠ざけるはずだった。
隼人を信じられなくさせるはずだった。
なのに。
結果は逆。
隼人は初めて玲奈へすべて説明した。
自分の告白まで。
そして今。
自分には一度も向けなかった優しい手で。
玲奈の涙を拭っている。
美月の指が、スマートフォンを強く握る。
「どうして、私じゃないの……」
七年間。
待った。
支えた。
隣にいた。
それなのに。
隼人の心を動かしたのは。
何も知らなかった十九歳の少女。
美月の中で。
最後に残っていた理性が。
ゆっくりと。
音もなく、崩れ始めていた。