触れられない政略結婚〜過保護な御曹司は幼い妻を手放さない〜
第十六章 秘書の最後の賭け
翌朝。
目を覚ました玲奈は、しばらく天井を見つめていた。
一条家の自室。
薄いクリーム色の天井も、窓辺に置かれた小さな本棚も、高校生の頃から何も変わっていない。
けれど。
昨日までの自分とは、少しだけ何かが違っていた。
玲奈はゆっくり右手を頬へ添えた。
そこにもう温もりなど残っていない。
それなのに。
昨日、隼人の指が涙を拭ってくれた場所だけが、妙に意識された。
『触っていいか』
思い出す。
あの隼人が。
いつも玲奈の意思を聞くより先に、
帰れ。
待て。
行くな。
そう決めていた隼人が。
初めて玲奈へ許可を求めた。
そして。
『俺が香月を女性として見たことはない』
はっきりそう言った。
一度もない、と。
玲奈は毛布を胸元まで引き上げた。
「……だったら」
どうして。
今まで何も言ってくれなかったのだろう。
それさえ最初から分かっていたら。
あんなに美月へ怯えることもなかった。
ホテルで二人を見た夜も。
ジャケットを羽織った美月を見た時も。
SNSの写真を見た時も。
ここまで傷つかずに済んだ。
けれど。
全部隼人のせいにするのも違うことは分かっている。
玲奈も聞かなかった。
怖くて。
勝手に考えた。
勝手に傷ついた。
夫婦なのに。
二人とも言葉が足りなかったのだ。
スマートフォンが震えた。
玲奈の心臓が少し跳ねる。
画面を見る。
隼人。
『今日、大学が終わったら話したい』
短い文章。
玲奈は数秒、画面を見つめた。
以前なら。
それだけで慌てて予定を全部空けただろう。
でも。
今は少し違う。
玲奈は自分のスケジュールを確認する。
午後三時まで講義。
その後、一条化粧品の企画資料をまとめる予定だった。
少し考えてから返信する。
『五時半なら大丈夫です』
送信。
すぐに既読。
『分かった。会社で待っている』
会社。
黒川ホールディングス。
当然、美月もいる場所。
胸の奥に少しだけ不安が生まれる。
けれど。
玲奈はスマートフォンを伏せた。
逃げたくなかった。
美月のことも。
隼人とのことも。
そろそろ。
怖いから聞かない、という自分をやめたい。
「……行こう」
玲奈はベッドから降りた。
同じ朝。
黒川ホールディングス最上階。
美月は自分のデスクへ置かれた一枚の書類を見つめていた。
《秘書業務配置変更通知》
紙に並ぶ文字が、ひどく遠く見えた。
今後。
黒川隼人専属秘書から外れ、経営企画室付へ異動。
隼人の個人スケジュール管理は佐伯奈緒へ移管。
海外出張への同行も原則としてなくなる。
七年間。
守り続けてきた場所。
毎朝一番に隼人の予定を確認した。
会食相手。
移動時間。
出張先。
昼食。
体調。
何時に会社へ入り、何時に帰るのか。
誰より知っていた。
それが。
今日から自分の仕事ではなくなる。
「香月さん」
奈緒が遠慮がちに声をかける。
美月はゆっくり顔を上げた。
「何?」
「十時から、人事部長との面談だそうです」
「分かってるわ」
「それと……」
奈緒は言いにくそうに視線を下げる。
「黒川社長が、SNSの投稿についても確認したいと」
美月の指先がわずかに震えた。
昨日投稿した写真。
すでに削除した。
けれどスクリーンショットは広がっている。
隼人も知った。
そして。
玲奈にも説明したのだろう。
昨日。
車の中から見た。
玲奈の頬に触れる隼人。
あの男は、女へ自分から触れるような人ではない。
まして。
あんなに優しく。
「……分かった」
美月は通知書を裏返した。
奈緒はまだ立っている。
「何か?」
「いえ」
奈緒が少し迷う。
「香月さん」
「何」
「昨日の写真……」
美月の目が冷たくなる。
奈緒はそれでも続けた。
「あの日、二人きりではありませんでしたよね」
美月の唇がわずかに歪む。
「だから?」
「奥様が誤解されるような投稿は……」
「あなたに関係ある?」
奈緒の顔が強張る。
美月は立ち上がった。
「まだ私に仕事を教えられる立場じゃないでしょう」
「……すみません」
奈緒が頭を下げる。
それでも。
去り際に。
「でも、玲奈様は何も悪くないと思います」
美月の身体が止まった。
奈緒はそれ以上言わず、自分の席へ戻った。
玲奈は何も悪くない。
その言葉が。
胸の奥を鋭く抉った。
どうして皆。
玲奈ばかり。
隼人も。
佐和子も。
奈緒まで。
あの少女を庇う。
自分は七年。
誰にも甘えず働いた。
努力した。
隼人に相応しい女になろうとした。
それなのに。
何も知らない玲奈が現れて。
すべてを持っていった。
妻という場所も。
隼人の関心も。
そして今。
自分の仕事まで。
美月は執務室の扉を見る。
中には隼人がいる。
もう。
一度きちんと話さなければ。
このままでは終われない。
午前十時。
美月は人事部長との面談を終えたあと、そのまま隼人の執務室へ向かった。
ノックする。
「どうぞ」
いつもの声。
胸が痛んだ。
「失礼いたします」
隼人はデスクで資料を読んでいた。
顔を上げる。
美月が入った瞬間。
表情が少しだけ固くなる。
以前は。
そんな顔をされたことなどなかった。
「人事から説明は受けたな」
「はい」
美月は執務机の前へ立った。
「異動に異論はあるか」
「あります」
隼人の眉がわずかに動く。
「聞こう」
「私は七年間、あなたの秘書を務めてきました」
「知っている」
「仕事上のミスが理由でしょうか」
「違う」
「なら」
美月は声を抑えた。
「私があなたを好きだから?」
隼人の表情は変わらなかった。
「それだけなら異動させていない」
「では、なぜ」
「私情を業務へ持ち込んだからだ」
はっきり言われた。
「玲奈との予定を意図的に変えたこと」
美月の顔がわずかに強張る。
「SNSへ誤解を招く投稿をしたこと」
「……」
「ホテルの件もだ」
隼人は資料を机へ置いた。
「玲奈が来ると分かっていたのか」
美月は答えない。
「香月」
「……偶然です」
「本当に?」
「はい」
隼人はしばらく美月を見つめた。
七年間。
嘘をつけば見抜かれることくらい分かっている。
「分かった」
それだけ。
責めない。
怒鳴らない。
けれど。
信じてはいない。
美月には分かった。
「隼人さん」
「社内では社長と呼べ」
胸が痛い。
以前は許していた。
注意はされても、本気で拒絶されたことはなかった。
「……黒川社長」
美月は唇を噛んだ。
「私を専属から外したら、困るのはあなたです」
「困らない」
即答。
美月の顔から血の気が引く。
「佐伯もいる。橘もいる」
「でも私ほどあなたを理解している人はいません」
「仕事は理解している」
隼人は静かだった。
「俺自身を理解していると思ったことはない」
美月の胸が大きく痛んだ。
「ひどい……」
「事実だ」
「では玲奈さんは?」
また。
名前を口にしてしまった。
隼人の目が少し険しくなる。
「玲奈さんなら、あなたを理解しているんですか?」
「この話に玲奈は関係ない」
「あります!」
美月の声が初めて大きくなった。
「全部あの子が来てからです!」
隼人の顔が冷える。
「私は七年間――」
「その七年を、自分だけのもののように使うな」
美月の言葉が止まった。
「一緒に働いた。それだけだ」
「それだけ……」
「俺がお前に恋愛感情を示したことが一度でもあったか」
答えられない。
なかった。
一度も。
花を贈られたことも。
食事に誘われたことも。
好きだと言われたことも。
「でも」
美月は震える声で言った。
「誰とも付き合わなかった」
「だから何だ」
「私は……待っていたんです」
「待てと言った覚えはない」
残酷だった。
けれど。
正しかった。
美月自身も。
本当は分かっている。
勝手に期待した。
いつか選ばれると。
勝手に思った。
それでも。
認めたくなかった。
「だったら」
美月はゆっくり隼人へ近づいた。
「一度だけ」
隼人の眉が寄る。
「何を」
「一度だけ、私を見てください」
「香月」
「七年間を全部なかったことにしないで」
美月は机の横まで回った。
隼人が立ち上がる。
「近づくな」
「怖いんですか?」
「何?」
「私を女として見るのが」
隼人の表情が一気に冷える。
「勘違いするな」
「なら」
美月は笑った。
泣きそうな笑顔だった。
「一度くらい、できるでしょう?」
一歩。
距離を詰める。
「玲奈さんには触れられるのに」
「やめろ」
「私にはどうして――」
美月は隼人の胸元へ両手を伸ばした。
その瞬間。
隼人が手首を掴む。
「離れろ」
「嫌です」
初めて。
美月は抵抗した。
「一度でいい」
「香月!」
「七年好きだったんです!」
美月の目から涙が落ちる。
「一度くらい、私を女として見てくれてもいいでしょう!」
身体を寄せる。
隼人はすぐに距離を取ろうとする。
それでも美月は袖を掴んだ。
「やめろ」
「嫌!」
「香月!」
そして。
美月は背伸びをした。
顔を近づける。
隼人の唇へ。
――触れる直前。
強い力で肩を押し戻された。
「やめろと言っている」
低い声。
今までで一番。
はっきりとした拒絶だった。
美月はよろめき、机へ手をつく。
「……そんなに」
涙が止まらない。
「そんなに、玲奈さんがいいんですか」
隼人は答えなかった。
それが。
美月には何より残酷だった。
「私は……」
声が崩れる。
「私なら、あなたを困らせないのに」
隼人の目が少し変わった。
「それが違う」
美月が顔を上げる。
「何が……」
「玲奈が俺を困らせることが問題なんじゃない」
隼人は静かに言った。
「困らされてもいいと思っている」
美月の瞳が大きくなる。
「怒られても」
「帰られても」
「他の男に笑いかけられて腹が立っても」
隼人の声は低かった。
自分自身に言い聞かせるようでもあった。
「それでも玲奈じゃなければ意味がない」
美月の顔が歪んだ。
それは。
初めてだった。
隼人が。
玲奈への気持ちを、ここまではっきり言葉にしたのは。
「……愛してるんですか」
震える問い。
隼人は少しだけ黙った。
そして。
「そうなんだと思う」
美月の涙が止まった。
あまりにも静かな言葉。
でも。
迷いはなかった。
「……思う?」
「俺はそういうことを考えてこなかった」
隼人は目を伏せた。
「だが玲奈がいなくなって分かった」
黒川邸。
玲奈がいない朝。
空いた席。
帰っても聞こえない、
『おかえりなさい』
そのすべてが。
思っていた以上に苦しかった。
「帰ってきてほしい」
隼人は小さく言った。
「俺を選んでほしい」
美月はもう。
何も言えなかった。
⸻
同じ頃。
午後五時十五分。
玲奈は黒川ホールディングスのエレベーターを降りた。
予定より十五分早い。
「玲奈様」
隣には亮。
約束通り、今日から護衛へ戻っている。
「こちらでお待ちしましょうか」
「はい」
玲奈は少し緊張しながら最上階の廊下を歩いた。
久しぶりに来た気がする。
以前ここへ来た時。
美月が隼人のジャケットを羽織っていた。
胸が少し痛む。
けれど。
昨日、隼人は話してくれた。
美月を女性として見たことはない。
だから。
今度は信じてみたい。
玲奈はそう思っていた。
秘書エリアへ入る。
そこに美月はいなかった。
奈緒が玲奈に気づき、立ち上がる。
「玲奈様」
「こんにちは」
「社長は執務室に……」
そこで奈緒が言葉を止めた。
少し困った顔。
玲奈が首を傾げる。
「どうしました?」
「いえ」
「隼人さん、会議中ですか?」
「香月さんが……」
奈緒が言いかけた時。
執務室の中から。
美月の声が聞こえた。
「七年好きだったんです!」
玲奈の足が止まった。
亮も表情を変える。
扉は完全には閉まっていない。
ほんの少し開いている。
中の声が漏れていた。
玲奈の心臓が大きく鳴る。
聞いてはいけない。
そう思う。
でも。
動けなかった。
「一度くらい、私を女として見てくれてもいいでしょう!」
次の瞬間。
玲奈の視界に。
隙間から二人の姿が見えた。
美月が隼人の胸元へ手を伸ばしている。
身体を寄せる。
顔を近づける。
玲奈の指先が冷たくなった。
でも。
昨日までの玲奈なら。
そこで逃げていたかもしれない。
見たものだけを信じて。
二人は親密なのだと決めつけて。
けれど。
今日は。
足を動かさなかった。
その直後。
隼人が美月をはっきり押し戻した。
「やめろと言っている」
玲奈の目が大きくなる。
美月の泣き声。
そして。
問い。
「そんなに、玲奈さんがいいんですか」
胸が。
強く鳴る。
玲奈は息をするのも忘れて。
答えを待った。
『それでも玲奈じゃなければ意味がない』
隼人の声。
玲奈の目が熱くなる。
『帰ってきてほしい』
そして。
『俺を選んでほしい』
玲奈の唇が震えた。
初めて。
聞いた。
隼人の本音。
自分へ向けてではない。
だからこそ。
嘘ではないと思えた。
玲奈に聞かせるための言葉ではない。
隼人自身の。
本当の気持ち。
「玲奈様……」
奈緒が心配そうに声をかける。
玲奈は目元へ手を当てた。
「大丈夫です」
声が震えている。
それでも。
今度の涙は。
今までのものとは違った。
苦しくて流す涙ではない。
⸻
執務室の中。
美月は俯いたまま立っていた。
隼人が呼び出しボタンへ手を伸ばす。
「今日は帰れ」
「……」
「明日から経営企画室へ行け」
美月は顔を上げた。
「もう……専属には戻れないんですね」
「ああ」
隼人の答えに迷いはない。
美月は唇を噛んだ。
「分かりました」
ようやく。
そう言った。
扉へ向かう。
そして。
開けた瞬間。
美月の身体が固まった。
廊下に。
玲奈が立っていた。
「……玲奈、さん」
玲奈も美月を見る。
以前なら。
目を逸らしたかもしれない。
自分より美しい。
大人。
隼人を七年間知っている女性。
それだけで自信を失った。
でも今日は。
逃げなかった。
美月の顔は泣いていた。
初めて見る。
余裕のない表情。
「聞いて……いたの?」
玲奈は少しだけ頷いた。
「はい」
美月の顔が歪む。
「どこから?」
玲奈は答えなかった。
美月は玲奈を見つめる。
その首元。
そこには。
誕生日に隼人から贈られた花のネックレスがあった。
今日。
玲奈は初めてそれを身につけてきた。
美月の目がそこへ止まる。
「それ……」
玲奈が指先でネックレスへ触れる。
「隼人さんからいただきました」
初めて。
自分から言った。
美月の唇が震える。
「……そう」
玲奈は美月を責めなかった。
SNSのことも。
誕生日のことも。
ホテルのことも。
聞きたいことはいくらでもある。
けれど。
今は。
何も言わなかった。
美月はそんな玲奈を一度だけ睨むように見て。
そのまま歩き去った。
亮が静かに道を空ける。
奈緒も何も言わない。
玲奈は遠ざかる美月の背中を見つめた。
少しだけ。
胸が痛んだ。
七年間。
一人の人を好きだった。
その気持ちだけなら。
玲奈にも分かるから。
でも。
だからといって。
誰かを傷つけていい理由にはならない。
玲奈はゆっくり執務室へ向いた。
その時。
隼人が扉の前に立っていた。
玲奈と目が合う。
顔が固まる。
「……玲奈?」
珍しく。
明らかに動揺していた。
「いつからいた」
玲奈は少し考えた。
「『それでも玲奈じゃなければ意味がない』くらいから」
隼人の顔から表情が消えた。
「……」
玲奈は初めて。
ほんの少しだけ笑った。
「隼人さん」
「忘れろ」
「嫌です」
即答した。
隼人が額へ手を当てる。
「玲奈」
「聞きました」
「……」
「全部」
隼人が本気で困った顔をしている。
そんな姿を。
玲奈は初めて見た気がした。
少し可笑しい。
そして。
嬉しかった。
「私とお話したいって言いましたよね」
「ああ」
「私もあります」
玲奈は執務室へ入る。
隼人は何も言わず、後ろから扉を閉めた。
今度は。
二人きり。
玲奈はもう逃げなかった。
隼人も。
曖昧な言葉だけでは済ませられない。
二人の政略結婚が始まってから。
初めて。
本当に夫婦になるための話をする時が。
ようやく来ようとしていた。
目を覚ました玲奈は、しばらく天井を見つめていた。
一条家の自室。
薄いクリーム色の天井も、窓辺に置かれた小さな本棚も、高校生の頃から何も変わっていない。
けれど。
昨日までの自分とは、少しだけ何かが違っていた。
玲奈はゆっくり右手を頬へ添えた。
そこにもう温もりなど残っていない。
それなのに。
昨日、隼人の指が涙を拭ってくれた場所だけが、妙に意識された。
『触っていいか』
思い出す。
あの隼人が。
いつも玲奈の意思を聞くより先に、
帰れ。
待て。
行くな。
そう決めていた隼人が。
初めて玲奈へ許可を求めた。
そして。
『俺が香月を女性として見たことはない』
はっきりそう言った。
一度もない、と。
玲奈は毛布を胸元まで引き上げた。
「……だったら」
どうして。
今まで何も言ってくれなかったのだろう。
それさえ最初から分かっていたら。
あんなに美月へ怯えることもなかった。
ホテルで二人を見た夜も。
ジャケットを羽織った美月を見た時も。
SNSの写真を見た時も。
ここまで傷つかずに済んだ。
けれど。
全部隼人のせいにするのも違うことは分かっている。
玲奈も聞かなかった。
怖くて。
勝手に考えた。
勝手に傷ついた。
夫婦なのに。
二人とも言葉が足りなかったのだ。
スマートフォンが震えた。
玲奈の心臓が少し跳ねる。
画面を見る。
隼人。
『今日、大学が終わったら話したい』
短い文章。
玲奈は数秒、画面を見つめた。
以前なら。
それだけで慌てて予定を全部空けただろう。
でも。
今は少し違う。
玲奈は自分のスケジュールを確認する。
午後三時まで講義。
その後、一条化粧品の企画資料をまとめる予定だった。
少し考えてから返信する。
『五時半なら大丈夫です』
送信。
すぐに既読。
『分かった。会社で待っている』
会社。
黒川ホールディングス。
当然、美月もいる場所。
胸の奥に少しだけ不安が生まれる。
けれど。
玲奈はスマートフォンを伏せた。
逃げたくなかった。
美月のことも。
隼人とのことも。
そろそろ。
怖いから聞かない、という自分をやめたい。
「……行こう」
玲奈はベッドから降りた。
同じ朝。
黒川ホールディングス最上階。
美月は自分のデスクへ置かれた一枚の書類を見つめていた。
《秘書業務配置変更通知》
紙に並ぶ文字が、ひどく遠く見えた。
今後。
黒川隼人専属秘書から外れ、経営企画室付へ異動。
隼人の個人スケジュール管理は佐伯奈緒へ移管。
海外出張への同行も原則としてなくなる。
七年間。
守り続けてきた場所。
毎朝一番に隼人の予定を確認した。
会食相手。
移動時間。
出張先。
昼食。
体調。
何時に会社へ入り、何時に帰るのか。
誰より知っていた。
それが。
今日から自分の仕事ではなくなる。
「香月さん」
奈緒が遠慮がちに声をかける。
美月はゆっくり顔を上げた。
「何?」
「十時から、人事部長との面談だそうです」
「分かってるわ」
「それと……」
奈緒は言いにくそうに視線を下げる。
「黒川社長が、SNSの投稿についても確認したいと」
美月の指先がわずかに震えた。
昨日投稿した写真。
すでに削除した。
けれどスクリーンショットは広がっている。
隼人も知った。
そして。
玲奈にも説明したのだろう。
昨日。
車の中から見た。
玲奈の頬に触れる隼人。
あの男は、女へ自分から触れるような人ではない。
まして。
あんなに優しく。
「……分かった」
美月は通知書を裏返した。
奈緒はまだ立っている。
「何か?」
「いえ」
奈緒が少し迷う。
「香月さん」
「何」
「昨日の写真……」
美月の目が冷たくなる。
奈緒はそれでも続けた。
「あの日、二人きりではありませんでしたよね」
美月の唇がわずかに歪む。
「だから?」
「奥様が誤解されるような投稿は……」
「あなたに関係ある?」
奈緒の顔が強張る。
美月は立ち上がった。
「まだ私に仕事を教えられる立場じゃないでしょう」
「……すみません」
奈緒が頭を下げる。
それでも。
去り際に。
「でも、玲奈様は何も悪くないと思います」
美月の身体が止まった。
奈緒はそれ以上言わず、自分の席へ戻った。
玲奈は何も悪くない。
その言葉が。
胸の奥を鋭く抉った。
どうして皆。
玲奈ばかり。
隼人も。
佐和子も。
奈緒まで。
あの少女を庇う。
自分は七年。
誰にも甘えず働いた。
努力した。
隼人に相応しい女になろうとした。
それなのに。
何も知らない玲奈が現れて。
すべてを持っていった。
妻という場所も。
隼人の関心も。
そして今。
自分の仕事まで。
美月は執務室の扉を見る。
中には隼人がいる。
もう。
一度きちんと話さなければ。
このままでは終われない。
午前十時。
美月は人事部長との面談を終えたあと、そのまま隼人の執務室へ向かった。
ノックする。
「どうぞ」
いつもの声。
胸が痛んだ。
「失礼いたします」
隼人はデスクで資料を読んでいた。
顔を上げる。
美月が入った瞬間。
表情が少しだけ固くなる。
以前は。
そんな顔をされたことなどなかった。
「人事から説明は受けたな」
「はい」
美月は執務机の前へ立った。
「異動に異論はあるか」
「あります」
隼人の眉がわずかに動く。
「聞こう」
「私は七年間、あなたの秘書を務めてきました」
「知っている」
「仕事上のミスが理由でしょうか」
「違う」
「なら」
美月は声を抑えた。
「私があなたを好きだから?」
隼人の表情は変わらなかった。
「それだけなら異動させていない」
「では、なぜ」
「私情を業務へ持ち込んだからだ」
はっきり言われた。
「玲奈との予定を意図的に変えたこと」
美月の顔がわずかに強張る。
「SNSへ誤解を招く投稿をしたこと」
「……」
「ホテルの件もだ」
隼人は資料を机へ置いた。
「玲奈が来ると分かっていたのか」
美月は答えない。
「香月」
「……偶然です」
「本当に?」
「はい」
隼人はしばらく美月を見つめた。
七年間。
嘘をつけば見抜かれることくらい分かっている。
「分かった」
それだけ。
責めない。
怒鳴らない。
けれど。
信じてはいない。
美月には分かった。
「隼人さん」
「社内では社長と呼べ」
胸が痛い。
以前は許していた。
注意はされても、本気で拒絶されたことはなかった。
「……黒川社長」
美月は唇を噛んだ。
「私を専属から外したら、困るのはあなたです」
「困らない」
即答。
美月の顔から血の気が引く。
「佐伯もいる。橘もいる」
「でも私ほどあなたを理解している人はいません」
「仕事は理解している」
隼人は静かだった。
「俺自身を理解していると思ったことはない」
美月の胸が大きく痛んだ。
「ひどい……」
「事実だ」
「では玲奈さんは?」
また。
名前を口にしてしまった。
隼人の目が少し険しくなる。
「玲奈さんなら、あなたを理解しているんですか?」
「この話に玲奈は関係ない」
「あります!」
美月の声が初めて大きくなった。
「全部あの子が来てからです!」
隼人の顔が冷える。
「私は七年間――」
「その七年を、自分だけのもののように使うな」
美月の言葉が止まった。
「一緒に働いた。それだけだ」
「それだけ……」
「俺がお前に恋愛感情を示したことが一度でもあったか」
答えられない。
なかった。
一度も。
花を贈られたことも。
食事に誘われたことも。
好きだと言われたことも。
「でも」
美月は震える声で言った。
「誰とも付き合わなかった」
「だから何だ」
「私は……待っていたんです」
「待てと言った覚えはない」
残酷だった。
けれど。
正しかった。
美月自身も。
本当は分かっている。
勝手に期待した。
いつか選ばれると。
勝手に思った。
それでも。
認めたくなかった。
「だったら」
美月はゆっくり隼人へ近づいた。
「一度だけ」
隼人の眉が寄る。
「何を」
「一度だけ、私を見てください」
「香月」
「七年間を全部なかったことにしないで」
美月は机の横まで回った。
隼人が立ち上がる。
「近づくな」
「怖いんですか?」
「何?」
「私を女として見るのが」
隼人の表情が一気に冷える。
「勘違いするな」
「なら」
美月は笑った。
泣きそうな笑顔だった。
「一度くらい、できるでしょう?」
一歩。
距離を詰める。
「玲奈さんには触れられるのに」
「やめろ」
「私にはどうして――」
美月は隼人の胸元へ両手を伸ばした。
その瞬間。
隼人が手首を掴む。
「離れろ」
「嫌です」
初めて。
美月は抵抗した。
「一度でいい」
「香月!」
「七年好きだったんです!」
美月の目から涙が落ちる。
「一度くらい、私を女として見てくれてもいいでしょう!」
身体を寄せる。
隼人はすぐに距離を取ろうとする。
それでも美月は袖を掴んだ。
「やめろ」
「嫌!」
「香月!」
そして。
美月は背伸びをした。
顔を近づける。
隼人の唇へ。
――触れる直前。
強い力で肩を押し戻された。
「やめろと言っている」
低い声。
今までで一番。
はっきりとした拒絶だった。
美月はよろめき、机へ手をつく。
「……そんなに」
涙が止まらない。
「そんなに、玲奈さんがいいんですか」
隼人は答えなかった。
それが。
美月には何より残酷だった。
「私は……」
声が崩れる。
「私なら、あなたを困らせないのに」
隼人の目が少し変わった。
「それが違う」
美月が顔を上げる。
「何が……」
「玲奈が俺を困らせることが問題なんじゃない」
隼人は静かに言った。
「困らされてもいいと思っている」
美月の瞳が大きくなる。
「怒られても」
「帰られても」
「他の男に笑いかけられて腹が立っても」
隼人の声は低かった。
自分自身に言い聞かせるようでもあった。
「それでも玲奈じゃなければ意味がない」
美月の顔が歪んだ。
それは。
初めてだった。
隼人が。
玲奈への気持ちを、ここまではっきり言葉にしたのは。
「……愛してるんですか」
震える問い。
隼人は少しだけ黙った。
そして。
「そうなんだと思う」
美月の涙が止まった。
あまりにも静かな言葉。
でも。
迷いはなかった。
「……思う?」
「俺はそういうことを考えてこなかった」
隼人は目を伏せた。
「だが玲奈がいなくなって分かった」
黒川邸。
玲奈がいない朝。
空いた席。
帰っても聞こえない、
『おかえりなさい』
そのすべてが。
思っていた以上に苦しかった。
「帰ってきてほしい」
隼人は小さく言った。
「俺を選んでほしい」
美月はもう。
何も言えなかった。
⸻
同じ頃。
午後五時十五分。
玲奈は黒川ホールディングスのエレベーターを降りた。
予定より十五分早い。
「玲奈様」
隣には亮。
約束通り、今日から護衛へ戻っている。
「こちらでお待ちしましょうか」
「はい」
玲奈は少し緊張しながら最上階の廊下を歩いた。
久しぶりに来た気がする。
以前ここへ来た時。
美月が隼人のジャケットを羽織っていた。
胸が少し痛む。
けれど。
昨日、隼人は話してくれた。
美月を女性として見たことはない。
だから。
今度は信じてみたい。
玲奈はそう思っていた。
秘書エリアへ入る。
そこに美月はいなかった。
奈緒が玲奈に気づき、立ち上がる。
「玲奈様」
「こんにちは」
「社長は執務室に……」
そこで奈緒が言葉を止めた。
少し困った顔。
玲奈が首を傾げる。
「どうしました?」
「いえ」
「隼人さん、会議中ですか?」
「香月さんが……」
奈緒が言いかけた時。
執務室の中から。
美月の声が聞こえた。
「七年好きだったんです!」
玲奈の足が止まった。
亮も表情を変える。
扉は完全には閉まっていない。
ほんの少し開いている。
中の声が漏れていた。
玲奈の心臓が大きく鳴る。
聞いてはいけない。
そう思う。
でも。
動けなかった。
「一度くらい、私を女として見てくれてもいいでしょう!」
次の瞬間。
玲奈の視界に。
隙間から二人の姿が見えた。
美月が隼人の胸元へ手を伸ばしている。
身体を寄せる。
顔を近づける。
玲奈の指先が冷たくなった。
でも。
昨日までの玲奈なら。
そこで逃げていたかもしれない。
見たものだけを信じて。
二人は親密なのだと決めつけて。
けれど。
今日は。
足を動かさなかった。
その直後。
隼人が美月をはっきり押し戻した。
「やめろと言っている」
玲奈の目が大きくなる。
美月の泣き声。
そして。
問い。
「そんなに、玲奈さんがいいんですか」
胸が。
強く鳴る。
玲奈は息をするのも忘れて。
答えを待った。
『それでも玲奈じゃなければ意味がない』
隼人の声。
玲奈の目が熱くなる。
『帰ってきてほしい』
そして。
『俺を選んでほしい』
玲奈の唇が震えた。
初めて。
聞いた。
隼人の本音。
自分へ向けてではない。
だからこそ。
嘘ではないと思えた。
玲奈に聞かせるための言葉ではない。
隼人自身の。
本当の気持ち。
「玲奈様……」
奈緒が心配そうに声をかける。
玲奈は目元へ手を当てた。
「大丈夫です」
声が震えている。
それでも。
今度の涙は。
今までのものとは違った。
苦しくて流す涙ではない。
⸻
執務室の中。
美月は俯いたまま立っていた。
隼人が呼び出しボタンへ手を伸ばす。
「今日は帰れ」
「……」
「明日から経営企画室へ行け」
美月は顔を上げた。
「もう……専属には戻れないんですね」
「ああ」
隼人の答えに迷いはない。
美月は唇を噛んだ。
「分かりました」
ようやく。
そう言った。
扉へ向かう。
そして。
開けた瞬間。
美月の身体が固まった。
廊下に。
玲奈が立っていた。
「……玲奈、さん」
玲奈も美月を見る。
以前なら。
目を逸らしたかもしれない。
自分より美しい。
大人。
隼人を七年間知っている女性。
それだけで自信を失った。
でも今日は。
逃げなかった。
美月の顔は泣いていた。
初めて見る。
余裕のない表情。
「聞いて……いたの?」
玲奈は少しだけ頷いた。
「はい」
美月の顔が歪む。
「どこから?」
玲奈は答えなかった。
美月は玲奈を見つめる。
その首元。
そこには。
誕生日に隼人から贈られた花のネックレスがあった。
今日。
玲奈は初めてそれを身につけてきた。
美月の目がそこへ止まる。
「それ……」
玲奈が指先でネックレスへ触れる。
「隼人さんからいただきました」
初めて。
自分から言った。
美月の唇が震える。
「……そう」
玲奈は美月を責めなかった。
SNSのことも。
誕生日のことも。
ホテルのことも。
聞きたいことはいくらでもある。
けれど。
今は。
何も言わなかった。
美月はそんな玲奈を一度だけ睨むように見て。
そのまま歩き去った。
亮が静かに道を空ける。
奈緒も何も言わない。
玲奈は遠ざかる美月の背中を見つめた。
少しだけ。
胸が痛んだ。
七年間。
一人の人を好きだった。
その気持ちだけなら。
玲奈にも分かるから。
でも。
だからといって。
誰かを傷つけていい理由にはならない。
玲奈はゆっくり執務室へ向いた。
その時。
隼人が扉の前に立っていた。
玲奈と目が合う。
顔が固まる。
「……玲奈?」
珍しく。
明らかに動揺していた。
「いつからいた」
玲奈は少し考えた。
「『それでも玲奈じゃなければ意味がない』くらいから」
隼人の顔から表情が消えた。
「……」
玲奈は初めて。
ほんの少しだけ笑った。
「隼人さん」
「忘れろ」
「嫌です」
即答した。
隼人が額へ手を当てる。
「玲奈」
「聞きました」
「……」
「全部」
隼人が本気で困った顔をしている。
そんな姿を。
玲奈は初めて見た気がした。
少し可笑しい。
そして。
嬉しかった。
「私とお話したいって言いましたよね」
「ああ」
「私もあります」
玲奈は執務室へ入る。
隼人は何も言わず、後ろから扉を閉めた。
今度は。
二人きり。
玲奈はもう逃げなかった。
隼人も。
曖昧な言葉だけでは済ませられない。
二人の政略結婚が始まってから。
初めて。
本当に夫婦になるための話をする時が。
ようやく来ようとしていた。