触れられない政略結婚〜過保護な御曹司は幼い妻を手放さない〜
第十七章 あなたが私に触れなかった理由
扉が閉じる音が、いつもより大きく聞こえた。
黒川ホールディングス最上階。
窓の向こうには、夕暮れの東京が広がっている。
沈みかけた太陽が高層ビルの窓を赤く染め、道路を走る車は小さな光の粒のようだった。
広い執務室にいるのは、玲奈と隼人の二人だけ。
玲奈はソファの前に立ったまま、どうしていいか分からず指先を重ねた。
つい数分前。
この部屋から出ていった美月。
そして、その直前に聞いてしまった隼人の言葉。
『それでも玲奈じゃなければ意味がない』
『帰ってきてほしい』
『俺を選んでほしい』
何度思い返しても、胸が熱くなる。
聞き間違いではない。
確かに隼人の声だった。
玲奈へ聞かせるために言った言葉でもない。
だからこそ信じられる。
けれど――。
それでも、分からないことはたくさん残っていた。
「座れ」
先に口を開いたのは隼人だった。
いつもの低い声。
玲奈は顔を上げる。
「はい」
向かい合う形でソファへ座った。
隼人も腰を下ろす。
テーブルを挟んでいるのに。
今日はいつもより距離が近く感じた。
玲奈は膝の上で手を握る。
何から聞けばいいのだろう。
本当は山ほどある。
美月のこと。
隼人の気持ち。
この結婚のこと。
そして。
ずっと玲奈の胸に引っかかってきたこと。
玲奈が迷っていると、隼人が口を開いた。
「まず」
「はい」
「香月の件は俺の責任だ」
玲奈は少し驚いて夫を見る。
「隼人さんの?」
「ああ」
「でも、SNSへ投稿したのは香月さんでしょう?」
「それ以前の話だ」
隼人は視線を少し落とした。
「俺が距離を曖昧にした」
玲奈は黙って聞く。
「俺にとって香月は仕事のできる秘書だった。それ以上でも、それ以下でもない」
昨日も聞いた。
それでも。
今日もう一度、隼人自身の口から聞けることが嬉しかった。
「だから、俺は気にしなかった」
「何をですか?」
「名前で呼ばれることも。ネクタイに触れられることも。ジャケットを使われることも」
玲奈の指先がわずかに動く。
全部。
玲奈が傷ついたことだ。
「俺に意味がなかったから、玲奈にも意味がないと思っていた」
隼人が苦い顔をする。
「馬鹿だった」
玲奈は思わず瞬きをした。
隼人が。
自分で自分を馬鹿だと言った。
「隼人さんでも、そういうこと言うんですね」
「玲奈」
少しだけ呆れた顔。
玲奈の口元が緩む。
けれど、すぐ真面目な表情へ戻った。
「……私、本当に嫌だったんです」
「ああ」
「香月さんが隼人さんに触れるの」
言葉にすると、まだ胸が痛む。
「会社へ行くたび、私が知らない隼人さんを香月さんが知っていて」
「……」
「好きな食べ物も、予定も、仕事も」
玲奈は俯いた。
「私より香月さんのほうが、ずっと隼人さんの妻みたいに見えました」
隼人の眉が寄る。
「それはない」
「私にはそう見えたんです」
「玲奈」
「だって私は何も知らなかったから」
玲奈は顔を上げる。
「聞いても、隼人さんはあまり話してくれないでしょう?」
「だから勝手に想像しました」
玲奈は小さく息を吐く。
「香月さんが好きなのかもしれない」
「違う」
今度はすぐだった。
「はい。今は分かっています」
「一度もない」
「もう分かりましたって」
玲奈が少し笑う。
隼人はそれでも念を押すように言った。
「本当にない」
その真剣な顔が。
少し可笑しくて。
少し嬉しい。
玲奈は初めて、胸の奥にあった美月への不安が静かに薄れていくのを感じた。
でも。
それが消えたことで。
もっと大きな疑問が残る。
玲奈の笑顔が消えた。
「では」
隼人が玲奈を見る。
「何だ」
玲奈は少し迷ってから。
ずっと聞きたかったことを口にした。
「どうして……私には触れなかったんですか?」
隼人の表情が固まった。
玲奈の頬が熱くなる。
それでも目を逸らさなかった。
「結婚した夜から」
声が少し小さくなる。
「ずっと別の部屋でした」
「ああ」
「十八歳だったからだって言いましたよね」
「そうだ」
「でも、それだけじゃないって」
以前。
そう言われた。
玲奈は何度、その理由を考えただろう。
自分に魅力がない。
子供だから。
美月のような大人の女性が好きだから。
政略結婚だから。
どれも玲奈を傷つけた。
「本当の理由を、教えてください」
隼人は答えない。
玲奈は待った。
今度は逃げたくなかった。
隼人にも、逃げてほしくない。
しばらくして。
隼人が深く息を吐いた。
「……怖かった」
玲奈の目が大きくなる。
聞き間違いかと思った。
「隼人さんが?」
「ああ」
「何がですか?」
隼人はすぐには答えなかった。
窓の向こうへ一度視線を向ける。
いつもなら迷わず仕事の判断を下す男が。
言葉を探していた。
「玲奈が俺と結婚した理由だ」
玲奈の胸が少し重くなる。
「一条の会社を救うためです」
「ああ」
「それが?」
「だからだ」
隼人は玲奈を見る。
「お前は十八だった」
「……はい」
「高校を卒業したばかりで、これから大学へ行って、友人と遊んで」
声が少し低くなる。
「本来なら、これから好きな男ができてもおかしくなかった」
玲奈は黙る。
「それなのに会社のために俺と結婚した」
隼人の手がわずかに握られる。
「俺は、お前の家が困っている時に、その立場を使って妻にした男だ」
「違います」
玲奈は反射的に言った。
隼人が顔を上げる。
「私が決めました」
「それでもだ」
「お父様にも、隼人さんにも断っていいって言われました」
「でも玲奈は断れなかった」
玲奈の口が閉じる。
否定できない。
会社。
社員。
家族。
全部を考えたら。
玲奈は自分の気持ちだけを優先することはできなかった。
「そんな玲奈に」
隼人は続ける。
「結婚したからという理由だけで触れたら」
そこで一度、言葉を止めた。
「俺は一生、自分を許せないと思った」
玲奈は息をするのも忘れていた。
「だから……?」
「ああ」
「私が嫌だったんじゃなくて?」
「逆だ」
あまりに早い返事。
玲奈の胸が大きく鳴る。
「逆……?」
隼人は苦しそうに眉を寄せた。
「玲奈」
「はい」
「俺は、お前が思っているほど理性的な男じゃない」
玲奈は意味が分からず、瞬きをする。
「どういう――」
「好きでもない女なら、あんなに距離を取る必要はなかった」
玲奈の頬が一気に熱くなる。
隼人も少し視線を逸らした。
「近くにいたら触れたくなる」
玲奈は動けない。
「抱きしめたくなる」
胸が苦しいくらい鳴っている。
「でも玲奈がそれを望んでいるのか、分からなかった」
隼人は初めて。
玲奈がずっと欲しかった言葉を。
少しずつ。
不器用に口にしていく。
「俺だけが欲しがっている状態で、夫婦だからとお前に触れるのが嫌だった」
玲奈は唇を開く。
声が出ない。
今まで。
ずっと逆だと思っていた。
自分に興味がないから触れない。
女として見ていないから。
それが。
「……好きだから?」
ようやく声が出た。
隼人が玲奈を見る。
逃げ道のない問い。
「好きだから、触れなかったんですか?」
長い間。
隼人は何も言わなかった。
玲奈の胸が苦しくなる。
また答えてくれないのかと思った時。
「そうだ」
低い声。
たった二文字。
それだけで。
玲奈の目に涙が滲んだ。
「……ずるい」
「何が」
「ずるいです」
「玲奈」
「そんなこと、今まで一言も言わなかったじゃないですか」
涙が頬を伝う。
でも。
悲しいだけの涙ではなかった。
「私、ずっと……」
玲奈は目元を拭う。
「自分には魅力がないんだって」
「何?」
隼人の顔が明らかに険しくなる。
「香月さんみたいな人が好きで、私は子供だから駄目なんだって」
「誰がそんなことを言った」
「誰も言ってません」
「ならなぜ――」
「隼人さんが何も言わないからでしょう!」
今度は玲奈が少し声を上げた。
隼人が黙る。
「私だって分からないんです!」
「……悪かった」
「すぐ謝らないでください」
「ではどうしろ」
「そういうところです!」
玲奈は泣きながら、少し笑った。
隼人も困ったように眉を寄せる。
こんな会話。
今までできなかった。
夫婦なのに。
本音を言えば。
喧嘩にもなる。
困る。
恥ずかしい。
それでも。
以前のように一人で泣くより、ずっといい。
玲奈は涙を拭った。
「……いつからですか?」
隼人の動きが止まる。
「何が」
「私を好きになったの」
隼人が急に黙った。
玲奈は眉を寄せる。
「また言わないんですか?」
「……長くなる」
「聞きます」
「玲奈」
「今日は逃がしません」
十九歳の妻に言われ。
隼人が小さく息を吐いた。
「十年前のことを覚えているか」
「十年前?」
玲奈は考える。
自分が九歳になる前。
まだ母が生きていた頃。
「黒川家の別荘へ来たことがある」
「別荘……」
ぼんやり。
記憶の奥に残っている。
夏。
緑の多い場所。
黒川家と一条家の家族が集まった。
そして。
いつも一人でいた少年。
「……隼人お兄ちゃん?」
思わず昔の呼び方が出た。
隼人の顔が少しだけ変わる。
「覚えていたのか」
「少しだけ」
玲奈は記憶を辿る。
十五歳くらいの隼人。
今よりずっと細く。
でもすでに大人びていて。
他の子供たちとは遊ばず、一人で本を読んでいた。
幼い玲奈は。
何度も隼人のところへ行った。
何を話しただろう。
「私……すごく邪魔してませんでした?」
「かなり」
玲奈の顔が赤くなる。
「やっぱり」
「本を読んでいる横でずっと話していた」
「すみません」
「今さらだ」
隼人の口元がわずかに緩む。
「でも」
その表情が少し遠くなる。
「当時の俺は、家のことで荒れていた」
玲奈は黙って聞く。
黒川家。
大きな財閥。
その後継者として育てられた隼人。
今なら。
十五歳の少年にどれほど大きな重圧があったのか、少し想像できる。
「誰と話しても、黒川家の後継者として扱われた」
隼人の声は静かだった。
「父親にも、祖父にも」
「……」
「玲奈だけだった」
「私?」
「ああ」
隼人が玲奈を見る。
「俺が何者かなんて気にしていなかった」
幼い少女。
財閥も会社も知らない。
ただ。
寂しそうな少年を見つけただけ。
『隼人お兄ちゃん、どうして笑わないの?』
『笑う理由がない』
『じゃあ、玲奈が笑わせてあげる』
そんなことを言った。
微かに。
思い出した。
「……私、そんな恥ずかしいこと言ったんですか?」
「言った」
「忘れてください」
「無理だ」
玲奈は顔を手で覆った。
隼人が少し笑う。
「それから白い花を渡された」
玲奈が顔を上げる。
「花?」
「クローバーの花」
胸の奥。
懐かしい記憶。
庭で見つけた小さな白い花。
「押し花にした」
「隼人さんが?」
「ああ」
「どうして?」
「……捨てられなかった」
玲奈は夫を見つめた。
胸が温かくなる。
でも。
隼人はすぐに付け加えた。
「当時から恋愛感情があったわけじゃない」
玲奈は小さく頷く。
「当たり前です」
「ただ」
隼人の目が優しくなる。
「玲奈は、俺にとって特別だった」
その言葉に。
玲奈の胸がきゅっとなる。
「その後、何年もほとんど会わなかった」
「そうですね」
「玲奈が高校を卒業する少し前。一条家の集まりで再会した」
玲奈にも覚えがある。
あの日。
久しぶりに会った隼人。
昔の『隼人お兄ちゃん』とはまるで違っていて。
玲奈は緊張してほとんど話せなかった。
「その時ですか?」
「ああ」
「……好きになったの」
隼人は少しだけ目を逸らす。
「認めるまで時間はかかった」
「どうして?」
「七歳下だ」
「そればっかり」
玲奈が少し頬を膨らませる。
「俺には大きい」
「私にはそんなに大きくありません」
「十九歳になったばかりの人間に言われてもな」
「また子供扱い」
「そういう意味じゃない」
二人の間に。
小さな笑いが生まれた。
玲奈は胸が温かかった。
こんなふうに話したかった。
ずっと。
夫婦らしい特別なことなどなくても。
ただ。
隼人の考えていることを知りたかった。
「じゃあ」
玲奈は少し真面目な顔になる。
「一条が危なくなった時」
隼人の表情も戻る。
「助けるって言ったのは……」
「ああ」
「隼人さん?」
「最初に提携を提案したのは俺だ」
玲奈は息を呑む。
「祖父じゃないんですか?」
「祖父は採算が取れないなら切れと言った」
「……」
黒川会長らしい。
隼人は続ける。
「俺が止めた」
「どうして……」
聞く必要もない。
でも。
聞きたかった。
隼人は玲奈を見る。
「玲奈の家だからだ」
涙がまた出そうになる。
玲奈は慌てて目元を押さえた。
「今日、泣いてばっかり」
「昔からよく泣く」
「泣いてません」
「泣いていた」
「子供の頃でしょう?」
「今もだ」
玲奈はむっとする。
でも。
嬉しかった。
「結婚も……隼人さんが言ったんですか?」
そこだけ。
玲奈は少し怖かった。
もし。
会社を助ける代わりに玲奈との結婚を要求したのなら。
やはり少し複雑だ。
隼人はすぐに首を横に振った。
「違う」
玲奈が顔を上げる。
「提携の話が進んだあと、両家から結婚の話が出た」
「……はい」
「俺は最初に条件を出した」
「条件?」
「玲奈が嫌なら、この話はなしだと」
玲奈の胸が大きく鳴る。
「お前には断っていいと言っただろう」
「覚えています」
『嫌なら断っていい』
確かに。
最初に隼人から言われた。
あの時は。
自分と結婚したくないから言っているのだと思った。
「……全部、逆だったんだ」
思わず呟く。
「何が」
「私が思っていたこと」
玲奈は少し笑った。
「結婚したくないから、断っていいって言われたと思ってました」
隼人の顔が固まる。
「……なぜそうなる」
「だって隼人さん、全然嬉しそうじゃなかったし」
「嬉しかった」
「嘘」
「本当だ」
「見えませんでした」
「表に出すのが得意じゃない」
「知ってます」
今なら。
嫌というほど分かる。
玲奈は一度息を吐いた。
「でも」
少しだけ表情を曇らせる。
「私、すぐには黒川邸へ戻れません」
隼人の表情が変わった。
「……そうか」
以前なら。
『帰れ』
と言ったかもしれない。
でも今は違う。
「理由を聞いてもいいか」
ちゃんと。
玲奈へ尋ねた。
そのことが嬉しかった。
「まだ、少し怖いんです」
「俺が?」
「隼人さんだけじゃありません」
玲奈は首を横に振る。
「私自身が」
「……」
「今日こうして話せて、すごく嬉しいです」
それは本当。
「でも今まで、私は隼人さんが少し優しくしてくれるたびに期待して」
「……ああ」
「違うかもしれないと思って、また傷ついて」
玲奈は膝の上の指を見つめた。
「だから、自分の気持ちをちゃんと整理したい」
隼人は黙って聞いている。
「会社のためじゃなく」
「はい」
「お父様のためでもなく」
玲奈は顔を上げる。
「私自身が、本当に隼人さんの妻でいたいって思えたら」
声は小さかった。
でも。
はっきり言った。
「その時、自分で帰りたいです」
隼人は長く玲奈を見つめた。
「……分かった」
驚くほど静かな返事。
玲奈が少し驚く。
「怒らないんですか?」
「怒ってほしいのか」
「違います」
隼人がほんの少し笑う。
「待つ」
玲奈の胸が温かくなる。
「ただし」
「何ですか?」
「九条とは二人で会うな」
玲奈の顔から笑顔が消えた。
「隼人さん」
「……」
「せっかくいい話をしていたのに」
隼人が視線を逸らす。
「それとこれは別だ」
「別じゃありません」
「仕事でも嫌だ」
あまりに素直。
玲奈は数秒。
夫を見つめた。
そして。
笑ってしまった。
「何がおかしい」
「だって」
笑いながら涙まで出そうになる。
「やっと言った」
「何を」
「九条さんだから嫌、じゃなくて」
玲奈は隼人を見る。
「自分が嫌だからって」
隼人は黙る。
「嫉妬してるんですか?」
直球だった。
隼人の顔が固まる。
玲奈は答えを待つ。
今度は逃げさせない。
「……してる」
低い声。
玲奈の目が大きくなる。
「もう一回」
「言わない」
「聞こえませんでした」
「嘘をつけ」
「隼人さん」
「玲奈」
少し恥ずかしそうな夫。
初めて見る。
玲奈は笑った。
胸の奥にあった長い長い寂しさが。
ほんの少しずつ。
温かなものへ変わっていく。
けれど。
まだ終わりではない。
玲奈が自分で隼人を選ぶために。
そして。
隼人が妻を『守る対象』ではなく、一人の女性として向き合うために。
二人には。
まだ越えなければならないものが残っていた。
黒川ホールディングス最上階。
窓の向こうには、夕暮れの東京が広がっている。
沈みかけた太陽が高層ビルの窓を赤く染め、道路を走る車は小さな光の粒のようだった。
広い執務室にいるのは、玲奈と隼人の二人だけ。
玲奈はソファの前に立ったまま、どうしていいか分からず指先を重ねた。
つい数分前。
この部屋から出ていった美月。
そして、その直前に聞いてしまった隼人の言葉。
『それでも玲奈じゃなければ意味がない』
『帰ってきてほしい』
『俺を選んでほしい』
何度思い返しても、胸が熱くなる。
聞き間違いではない。
確かに隼人の声だった。
玲奈へ聞かせるために言った言葉でもない。
だからこそ信じられる。
けれど――。
それでも、分からないことはたくさん残っていた。
「座れ」
先に口を開いたのは隼人だった。
いつもの低い声。
玲奈は顔を上げる。
「はい」
向かい合う形でソファへ座った。
隼人も腰を下ろす。
テーブルを挟んでいるのに。
今日はいつもより距離が近く感じた。
玲奈は膝の上で手を握る。
何から聞けばいいのだろう。
本当は山ほどある。
美月のこと。
隼人の気持ち。
この結婚のこと。
そして。
ずっと玲奈の胸に引っかかってきたこと。
玲奈が迷っていると、隼人が口を開いた。
「まず」
「はい」
「香月の件は俺の責任だ」
玲奈は少し驚いて夫を見る。
「隼人さんの?」
「ああ」
「でも、SNSへ投稿したのは香月さんでしょう?」
「それ以前の話だ」
隼人は視線を少し落とした。
「俺が距離を曖昧にした」
玲奈は黙って聞く。
「俺にとって香月は仕事のできる秘書だった。それ以上でも、それ以下でもない」
昨日も聞いた。
それでも。
今日もう一度、隼人自身の口から聞けることが嬉しかった。
「だから、俺は気にしなかった」
「何をですか?」
「名前で呼ばれることも。ネクタイに触れられることも。ジャケットを使われることも」
玲奈の指先がわずかに動く。
全部。
玲奈が傷ついたことだ。
「俺に意味がなかったから、玲奈にも意味がないと思っていた」
隼人が苦い顔をする。
「馬鹿だった」
玲奈は思わず瞬きをした。
隼人が。
自分で自分を馬鹿だと言った。
「隼人さんでも、そういうこと言うんですね」
「玲奈」
少しだけ呆れた顔。
玲奈の口元が緩む。
けれど、すぐ真面目な表情へ戻った。
「……私、本当に嫌だったんです」
「ああ」
「香月さんが隼人さんに触れるの」
言葉にすると、まだ胸が痛む。
「会社へ行くたび、私が知らない隼人さんを香月さんが知っていて」
「……」
「好きな食べ物も、予定も、仕事も」
玲奈は俯いた。
「私より香月さんのほうが、ずっと隼人さんの妻みたいに見えました」
隼人の眉が寄る。
「それはない」
「私にはそう見えたんです」
「玲奈」
「だって私は何も知らなかったから」
玲奈は顔を上げる。
「聞いても、隼人さんはあまり話してくれないでしょう?」
「だから勝手に想像しました」
玲奈は小さく息を吐く。
「香月さんが好きなのかもしれない」
「違う」
今度はすぐだった。
「はい。今は分かっています」
「一度もない」
「もう分かりましたって」
玲奈が少し笑う。
隼人はそれでも念を押すように言った。
「本当にない」
その真剣な顔が。
少し可笑しくて。
少し嬉しい。
玲奈は初めて、胸の奥にあった美月への不安が静かに薄れていくのを感じた。
でも。
それが消えたことで。
もっと大きな疑問が残る。
玲奈の笑顔が消えた。
「では」
隼人が玲奈を見る。
「何だ」
玲奈は少し迷ってから。
ずっと聞きたかったことを口にした。
「どうして……私には触れなかったんですか?」
隼人の表情が固まった。
玲奈の頬が熱くなる。
それでも目を逸らさなかった。
「結婚した夜から」
声が少し小さくなる。
「ずっと別の部屋でした」
「ああ」
「十八歳だったからだって言いましたよね」
「そうだ」
「でも、それだけじゃないって」
以前。
そう言われた。
玲奈は何度、その理由を考えただろう。
自分に魅力がない。
子供だから。
美月のような大人の女性が好きだから。
政略結婚だから。
どれも玲奈を傷つけた。
「本当の理由を、教えてください」
隼人は答えない。
玲奈は待った。
今度は逃げたくなかった。
隼人にも、逃げてほしくない。
しばらくして。
隼人が深く息を吐いた。
「……怖かった」
玲奈の目が大きくなる。
聞き間違いかと思った。
「隼人さんが?」
「ああ」
「何がですか?」
隼人はすぐには答えなかった。
窓の向こうへ一度視線を向ける。
いつもなら迷わず仕事の判断を下す男が。
言葉を探していた。
「玲奈が俺と結婚した理由だ」
玲奈の胸が少し重くなる。
「一条の会社を救うためです」
「ああ」
「それが?」
「だからだ」
隼人は玲奈を見る。
「お前は十八だった」
「……はい」
「高校を卒業したばかりで、これから大学へ行って、友人と遊んで」
声が少し低くなる。
「本来なら、これから好きな男ができてもおかしくなかった」
玲奈は黙る。
「それなのに会社のために俺と結婚した」
隼人の手がわずかに握られる。
「俺は、お前の家が困っている時に、その立場を使って妻にした男だ」
「違います」
玲奈は反射的に言った。
隼人が顔を上げる。
「私が決めました」
「それでもだ」
「お父様にも、隼人さんにも断っていいって言われました」
「でも玲奈は断れなかった」
玲奈の口が閉じる。
否定できない。
会社。
社員。
家族。
全部を考えたら。
玲奈は自分の気持ちだけを優先することはできなかった。
「そんな玲奈に」
隼人は続ける。
「結婚したからという理由だけで触れたら」
そこで一度、言葉を止めた。
「俺は一生、自分を許せないと思った」
玲奈は息をするのも忘れていた。
「だから……?」
「ああ」
「私が嫌だったんじゃなくて?」
「逆だ」
あまりに早い返事。
玲奈の胸が大きく鳴る。
「逆……?」
隼人は苦しそうに眉を寄せた。
「玲奈」
「はい」
「俺は、お前が思っているほど理性的な男じゃない」
玲奈は意味が分からず、瞬きをする。
「どういう――」
「好きでもない女なら、あんなに距離を取る必要はなかった」
玲奈の頬が一気に熱くなる。
隼人も少し視線を逸らした。
「近くにいたら触れたくなる」
玲奈は動けない。
「抱きしめたくなる」
胸が苦しいくらい鳴っている。
「でも玲奈がそれを望んでいるのか、分からなかった」
隼人は初めて。
玲奈がずっと欲しかった言葉を。
少しずつ。
不器用に口にしていく。
「俺だけが欲しがっている状態で、夫婦だからとお前に触れるのが嫌だった」
玲奈は唇を開く。
声が出ない。
今まで。
ずっと逆だと思っていた。
自分に興味がないから触れない。
女として見ていないから。
それが。
「……好きだから?」
ようやく声が出た。
隼人が玲奈を見る。
逃げ道のない問い。
「好きだから、触れなかったんですか?」
長い間。
隼人は何も言わなかった。
玲奈の胸が苦しくなる。
また答えてくれないのかと思った時。
「そうだ」
低い声。
たった二文字。
それだけで。
玲奈の目に涙が滲んだ。
「……ずるい」
「何が」
「ずるいです」
「玲奈」
「そんなこと、今まで一言も言わなかったじゃないですか」
涙が頬を伝う。
でも。
悲しいだけの涙ではなかった。
「私、ずっと……」
玲奈は目元を拭う。
「自分には魅力がないんだって」
「何?」
隼人の顔が明らかに険しくなる。
「香月さんみたいな人が好きで、私は子供だから駄目なんだって」
「誰がそんなことを言った」
「誰も言ってません」
「ならなぜ――」
「隼人さんが何も言わないからでしょう!」
今度は玲奈が少し声を上げた。
隼人が黙る。
「私だって分からないんです!」
「……悪かった」
「すぐ謝らないでください」
「ではどうしろ」
「そういうところです!」
玲奈は泣きながら、少し笑った。
隼人も困ったように眉を寄せる。
こんな会話。
今までできなかった。
夫婦なのに。
本音を言えば。
喧嘩にもなる。
困る。
恥ずかしい。
それでも。
以前のように一人で泣くより、ずっといい。
玲奈は涙を拭った。
「……いつからですか?」
隼人の動きが止まる。
「何が」
「私を好きになったの」
隼人が急に黙った。
玲奈は眉を寄せる。
「また言わないんですか?」
「……長くなる」
「聞きます」
「玲奈」
「今日は逃がしません」
十九歳の妻に言われ。
隼人が小さく息を吐いた。
「十年前のことを覚えているか」
「十年前?」
玲奈は考える。
自分が九歳になる前。
まだ母が生きていた頃。
「黒川家の別荘へ来たことがある」
「別荘……」
ぼんやり。
記憶の奥に残っている。
夏。
緑の多い場所。
黒川家と一条家の家族が集まった。
そして。
いつも一人でいた少年。
「……隼人お兄ちゃん?」
思わず昔の呼び方が出た。
隼人の顔が少しだけ変わる。
「覚えていたのか」
「少しだけ」
玲奈は記憶を辿る。
十五歳くらいの隼人。
今よりずっと細く。
でもすでに大人びていて。
他の子供たちとは遊ばず、一人で本を読んでいた。
幼い玲奈は。
何度も隼人のところへ行った。
何を話しただろう。
「私……すごく邪魔してませんでした?」
「かなり」
玲奈の顔が赤くなる。
「やっぱり」
「本を読んでいる横でずっと話していた」
「すみません」
「今さらだ」
隼人の口元がわずかに緩む。
「でも」
その表情が少し遠くなる。
「当時の俺は、家のことで荒れていた」
玲奈は黙って聞く。
黒川家。
大きな財閥。
その後継者として育てられた隼人。
今なら。
十五歳の少年にどれほど大きな重圧があったのか、少し想像できる。
「誰と話しても、黒川家の後継者として扱われた」
隼人の声は静かだった。
「父親にも、祖父にも」
「……」
「玲奈だけだった」
「私?」
「ああ」
隼人が玲奈を見る。
「俺が何者かなんて気にしていなかった」
幼い少女。
財閥も会社も知らない。
ただ。
寂しそうな少年を見つけただけ。
『隼人お兄ちゃん、どうして笑わないの?』
『笑う理由がない』
『じゃあ、玲奈が笑わせてあげる』
そんなことを言った。
微かに。
思い出した。
「……私、そんな恥ずかしいこと言ったんですか?」
「言った」
「忘れてください」
「無理だ」
玲奈は顔を手で覆った。
隼人が少し笑う。
「それから白い花を渡された」
玲奈が顔を上げる。
「花?」
「クローバーの花」
胸の奥。
懐かしい記憶。
庭で見つけた小さな白い花。
「押し花にした」
「隼人さんが?」
「ああ」
「どうして?」
「……捨てられなかった」
玲奈は夫を見つめた。
胸が温かくなる。
でも。
隼人はすぐに付け加えた。
「当時から恋愛感情があったわけじゃない」
玲奈は小さく頷く。
「当たり前です」
「ただ」
隼人の目が優しくなる。
「玲奈は、俺にとって特別だった」
その言葉に。
玲奈の胸がきゅっとなる。
「その後、何年もほとんど会わなかった」
「そうですね」
「玲奈が高校を卒業する少し前。一条家の集まりで再会した」
玲奈にも覚えがある。
あの日。
久しぶりに会った隼人。
昔の『隼人お兄ちゃん』とはまるで違っていて。
玲奈は緊張してほとんど話せなかった。
「その時ですか?」
「ああ」
「……好きになったの」
隼人は少しだけ目を逸らす。
「認めるまで時間はかかった」
「どうして?」
「七歳下だ」
「そればっかり」
玲奈が少し頬を膨らませる。
「俺には大きい」
「私にはそんなに大きくありません」
「十九歳になったばかりの人間に言われてもな」
「また子供扱い」
「そういう意味じゃない」
二人の間に。
小さな笑いが生まれた。
玲奈は胸が温かかった。
こんなふうに話したかった。
ずっと。
夫婦らしい特別なことなどなくても。
ただ。
隼人の考えていることを知りたかった。
「じゃあ」
玲奈は少し真面目な顔になる。
「一条が危なくなった時」
隼人の表情も戻る。
「助けるって言ったのは……」
「ああ」
「隼人さん?」
「最初に提携を提案したのは俺だ」
玲奈は息を呑む。
「祖父じゃないんですか?」
「祖父は採算が取れないなら切れと言った」
「……」
黒川会長らしい。
隼人は続ける。
「俺が止めた」
「どうして……」
聞く必要もない。
でも。
聞きたかった。
隼人は玲奈を見る。
「玲奈の家だからだ」
涙がまた出そうになる。
玲奈は慌てて目元を押さえた。
「今日、泣いてばっかり」
「昔からよく泣く」
「泣いてません」
「泣いていた」
「子供の頃でしょう?」
「今もだ」
玲奈はむっとする。
でも。
嬉しかった。
「結婚も……隼人さんが言ったんですか?」
そこだけ。
玲奈は少し怖かった。
もし。
会社を助ける代わりに玲奈との結婚を要求したのなら。
やはり少し複雑だ。
隼人はすぐに首を横に振った。
「違う」
玲奈が顔を上げる。
「提携の話が進んだあと、両家から結婚の話が出た」
「……はい」
「俺は最初に条件を出した」
「条件?」
「玲奈が嫌なら、この話はなしだと」
玲奈の胸が大きく鳴る。
「お前には断っていいと言っただろう」
「覚えています」
『嫌なら断っていい』
確かに。
最初に隼人から言われた。
あの時は。
自分と結婚したくないから言っているのだと思った。
「……全部、逆だったんだ」
思わず呟く。
「何が」
「私が思っていたこと」
玲奈は少し笑った。
「結婚したくないから、断っていいって言われたと思ってました」
隼人の顔が固まる。
「……なぜそうなる」
「だって隼人さん、全然嬉しそうじゃなかったし」
「嬉しかった」
「嘘」
「本当だ」
「見えませんでした」
「表に出すのが得意じゃない」
「知ってます」
今なら。
嫌というほど分かる。
玲奈は一度息を吐いた。
「でも」
少しだけ表情を曇らせる。
「私、すぐには黒川邸へ戻れません」
隼人の表情が変わった。
「……そうか」
以前なら。
『帰れ』
と言ったかもしれない。
でも今は違う。
「理由を聞いてもいいか」
ちゃんと。
玲奈へ尋ねた。
そのことが嬉しかった。
「まだ、少し怖いんです」
「俺が?」
「隼人さんだけじゃありません」
玲奈は首を横に振る。
「私自身が」
「……」
「今日こうして話せて、すごく嬉しいです」
それは本当。
「でも今まで、私は隼人さんが少し優しくしてくれるたびに期待して」
「……ああ」
「違うかもしれないと思って、また傷ついて」
玲奈は膝の上の指を見つめた。
「だから、自分の気持ちをちゃんと整理したい」
隼人は黙って聞いている。
「会社のためじゃなく」
「はい」
「お父様のためでもなく」
玲奈は顔を上げる。
「私自身が、本当に隼人さんの妻でいたいって思えたら」
声は小さかった。
でも。
はっきり言った。
「その時、自分で帰りたいです」
隼人は長く玲奈を見つめた。
「……分かった」
驚くほど静かな返事。
玲奈が少し驚く。
「怒らないんですか?」
「怒ってほしいのか」
「違います」
隼人がほんの少し笑う。
「待つ」
玲奈の胸が温かくなる。
「ただし」
「何ですか?」
「九条とは二人で会うな」
玲奈の顔から笑顔が消えた。
「隼人さん」
「……」
「せっかくいい話をしていたのに」
隼人が視線を逸らす。
「それとこれは別だ」
「別じゃありません」
「仕事でも嫌だ」
あまりに素直。
玲奈は数秒。
夫を見つめた。
そして。
笑ってしまった。
「何がおかしい」
「だって」
笑いながら涙まで出そうになる。
「やっと言った」
「何を」
「九条さんだから嫌、じゃなくて」
玲奈は隼人を見る。
「自分が嫌だからって」
隼人は黙る。
「嫉妬してるんですか?」
直球だった。
隼人の顔が固まる。
玲奈は答えを待つ。
今度は逃げさせない。
「……してる」
低い声。
玲奈の目が大きくなる。
「もう一回」
「言わない」
「聞こえませんでした」
「嘘をつけ」
「隼人さん」
「玲奈」
少し恥ずかしそうな夫。
初めて見る。
玲奈は笑った。
胸の奥にあった長い長い寂しさが。
ほんの少しずつ。
温かなものへ変わっていく。
けれど。
まだ終わりではない。
玲奈が自分で隼人を選ぶために。
そして。
隼人が妻を『守る対象』ではなく、一人の女性として向き合うために。
二人には。
まだ越えなければならないものが残っていた。