あなたをみてる
「俺が好きなのは、ゆかりなんだ」
言ってしまった。
ずっと胸の奥にしまっていた言葉。
ゆかりは何も言わず、俺を見つめていた。
返事を待つ時間が、やけに長く感じる。
「……ごめん」
耐えきれず、俺は目を逸らした。
「急にこんなこと言われても困るよな」
「ううん」
ゆかりは小さく首を振った。
「びっくりしただけ」
「……そっか」
「奏くんが、私のことそんなふうに思ってたなんて、知らなかった」
「言えなかったから」
「どうして?」
「どうしてって……」
言えるわけがない。
哲平がゆかりに好意を持っていることをを知っていたから。
友達と同じ女の子を好きになったことに、どこか後ろめたさがあったから。
それに何より、俺なんかが告白しても困らせるだけだと思っていた。
「……いろいろ」
「何それ」
ゆかりが小さく笑った。
その笑顔を見て、少しだけ緊張がほどける。
「返事は今じゃなくていいから」
「奏くん」
「ん?」
「さっきのキス……」
心臓が跳ねた。
「ご、ごめん。やっぱり嫌だった?」
ゆかりは俺を見つめたまま、小さく首を振った。
「……嫌じゃなかったよ」
「え……」
また、目が合った。
今度は、どちらも逸らさなかった。
さっきよりも長く。
何も言わず、ただお互いを見つめていた。
少しずつ、ゆかりの顔が近づく。
俺もゆっくり顔を近づけた。
今度は勢いじゃない。
俺だけでもない。
ゆかりも逃げなかった。
そして――。
もう一度、唇が重なった。
さっきより、少しだけ長いキス。
唇が離れても、俺たちはすぐには離れなかった。
「……ゆかり」
「何?」
聞きたいことはあった。
今のキスは、どういう意味なのか。
俺のことを少しでも好きだと思ってくれているのか。
でも、聞けなかった。
聞いたら、この時間が終わってしまいそうな気がした。
「……何でもない」
「変なの」
ゆかりが笑う。
そして、もう一度俺の肩に頭を預けた。
俺は何も言わなかった。
ただ、この時間がもう少しだけ続けばいいと思った。
翌朝。
真司が目を覚ますと、隣にかの子はいなかった。
「……かの子?」
返事はない。
ベッドから起き上がり、寝室を出る。
キッチンへ向かうと、かの子がいた。
真司に背を向けたまま、朝食の支度をしている。
「……おはよう」
返事はなかった。
「まだ怒ってんの?」
「怒ってないわよ」
「怒ってるだろ」
「別に」
真司は小さく息を吐いた。
「昨日のことは悪かったよ」
かの子の手が止まる。
「ちゃんと話すから」
「……何を?」
「だから……」
かの子がゆっくり振り返った。
「別れるって?」
真司は答えなかった。
「いつ別れるの?」
「…………」
かの子は真司を見つめていた。
真司も何も言えない。
しばらくの沈黙。
やがて、かの子が包丁へ手を伸ばした。
「……かの子?」
包丁を握る。
そして、真司へ向けた。
「おい……何してんだよ」
かの子の表情は変わらない。
「あの子と別れないなら――」
真司の顔から笑みが消えた。
「あなたを殺して、私も死ぬわ」
「……何言ってんだよ」
「本気よ」
「馬鹿なことやめろ。危ないから置け」
真司が一歩近づこうとする。
「来ないで!」
包丁の切っ先が動いた。
真司の足が止まる。
「分かった。行かないから」
「私、本気だから」
かの子の目に涙が浮かんだ。
「真司をあの子に取られるくらいなら、全部なくなったほうがいい」
「かの子……」
「私を選んで」
「…………」
「私を選ぶって言って」
真司は包丁を見た。
震えている。
かの子の手も、声も。
「……分かった」
「何が?」
「お前を選ぶ」
かの子の目が揺れた。
「本当に?」
「ああ。だから、それ置いてくれ」
「約束する?」
「約束する」
しばらくして、かの子の手がゆっくり下がった。
真司は大きく息を吐いた。
かの子は包丁を置くと、その場で泣き崩れた。
数日後。
「明日、休みだろ?」
真司がそう言うと、かの子は怪訝そうに顔を上げた。
「そうだけど?」
「どっか行くか?」
「……どっかって?」
「ドライブでも。久しぶりに」
「二人で?」
「他に誰がいるんだよ」
かの子は真司の顔をじっと見た。
「何よ、急に」
「たまにはいいだろ」
「ふーん」
興味がなさそうな返事。
けれど、かの子の口元には小さな笑みが浮かんでいた。
翌日。
二人を乗せた車が街を走っていた。
最初は、どこかぎこちなかった。
ラジオだけが車内に流れている。
「ねえ」
かの子が窓の外を見ながら言った。
「ここ、覚えてる?」
「何が?」
「昔来たじゃない」
「……ああ」
「真司、道間違えたのよね」
「違う。お前が右って言ったんだろ」
「左って言ったわよ」
「絶対右だった」
「左!」
「はいはい」
「何よ、その言い方」
真司が笑った。
つられるように、かの子も笑う。
久しぶりだった。
二人でこんなふうに笑うのは。
途中で買い物をして、昼食を食べた。
店を出たあと、かの子が紙袋を真司へ差し出す。
「持って」
「自分で持てよ」
「夫でしょ?」
「そういうときだけ夫扱いかよ」
「いいじゃない」
「はいはい」
文句を言いながら、真司は紙袋を受け取った。
かの子が嬉しそうに笑う。
その日のかの子に、数日前の険しい表情はなかった。
同じ頃。
「ねえ、このあとどうする?」
「私、ちょっと休みたい。歩きすぎた」
「じゃあカフェ行こっか」
「いいね」
友達の一人がゆかりを見る。
「ゆかりは?」
「私? 行く行く」
ゆかりも笑った。
数人の友達と買い物をしていた。
両手には、それぞれが買った店の紙袋。
「でも、その前にあっち見たい!」
「まだ見るの?」
「見るだけ!」
「絶対買うじゃん」
「買わないって!」
笑い声が響く。
ゆかりも一緒になって笑った。
その時だった。
信号待ちをしている一台の車が目に入った。
見覚えがある。
ゆかりの足が、ほんの少しだけ遅くなった。
「…………」
運転席を見る。
真司だった。
一瞬、胸が弾んだ。
こんなところで会うなんて。
声をかけようか。
そう思った。
けれど――。
助手席を見た瞬間、その考えは消えた。
かの子の笑っている姿が見えた。
「ゆかり?」
「……え?」
前を歩いていた友達が振り返った。
「どうしたの?」
「ううん。何でもない」
ゆかりは慌てて笑った。
「ちょっとぼーっとしてた」
「疲れた?」
「かも。歩きすぎたかな」
「だから休もうって言ったじゃん」
「そうだね」
友達が笑う。
ゆかりも笑った。
そのまま歩き出す。
けれど、目だけは車から離せなかった。
真司が何かを言った。
かの子が笑う。
真司も笑った。
何を話しているのかは聞こえない。
それでも、楽しそうなのは分かった。
かの子が真司の腕に触れる。
真司は嫌がらない。
当たり前のように、そのまま話している。
胸の奥が冷たくなった。
昨日まで自分を抱きしめていた男。
もう少し待ってくれと言った男。
自分を好きだと言った男が――。
妻の隣で笑っている。
「ゆかりー、早く!」
「あ、ごめん!」
少し先から友達が呼んでいる。
ゆかりは小走りで追いついた。
「何見てたの?」
「何でもないって」
「怪しい。イケメンでもいた?」
「違うよ」
「ほんとに?」
「ほんとほんと」
笑った。
ちゃんと笑えた。
誰にも気づかれないように。
信号が青に変わる。
車が走り出した。
ゆかりは友達と話しながら歩き続ける。
振り返らなかった。
振り返ったら、何かが顔に出てしまいそうだった。
「ねえ、ゆかり。カフェ入ったら何飲む?」
「んー……アイスティーかな」
自分でも驚くほど、普通の声が出た。
友達は誰も気づいていない。
ゆかりも、いつもと同じように笑っている。
けれど頭の中では、さっきの光景だけが何度も繰り返されていた。
かの子の笑顔。
真司の笑顔。
触れ合う二人。
――もう少し待ってくれ。
真司の声が蘇る。
ゆかりは笑顔のまま、買い物袋の持ち手を強く握った。
指が痛くなるほど。
そして心の中で、そっと呟いた。
――何が、もう少し待って、よ。
翌日。
「おはよう、鮎田さん」
「……おはようございます」
ゆかりは、かの子の顔を見た。
機嫌がいい。
あの騒ぎが嘘だったみたいに。
「今日も暑いわね」
「・・・そうですね」
「体調、大丈夫?」
「……はい」
「無理しないでね」
「ありがとうございます」
ゆかりは笑顔で答えた。
何なの?
昨日の光景が頭に浮かぶ。
少しして、真司が店に出てきた。
「おはよう」
「おはよう、真司」
かの子が嬉しそうに答える。
「昨日ありがとね」
「何が?」
「ドライブ」
「ああ」
「楽しかった」
「そっか」
「また行こうね」
「……ああ」
ゆかりは少し離れた場所から、その会話を聞いていた。
やっぱり。
偶然一緒にいただけじゃない。
二人で出かけたんだ。
「鮎田さん」
突然呼ばれ、ゆかりは顔を上げた。
かの子が立っている。
「はい」
「この前はごめんなさいね」
「……え?」
「私、ちょっと取り乱しちゃって」
かの子が笑った。
「お客さんの前であんな大声出して。大人げなかったわ」
「……いえ」
「まあ」
かの子は真司をちらりと見た。
「夫婦って、いろいろあるから」
「…………」
「でも結局、夫婦は夫婦なのよね」
一瞬だけ、ゆかりの笑顔が消えた。
けれど、すぐに戻る。
「……そうですね」
「じゃあ、今日もよろしくね」
「はい」
かの子は機嫌よくレジへ戻っていった。
ゆかりはその背中を見つめる。
――結局、夫婦は夫婦。
胸の奥で、何かがざらついた。
「ゆかり」
突然声をかけられた。
振り返る。
哲平だった。
「……何?」
「今日、終わったら話せる?」
「何の話?」
「ちょっと聞きたいことがある」
「今じゃだめなの?」
「ここじゃ話せない」
「…………」
「待ってるから」
哲平はそれだけ言って離れていった。
少し離れた場所で品出しをしていた俺は、二人を見ていた。
何を話していたのかは聞こえなかった。
ただ、ゆかりの表情が気になった。
初めて相談された日のことを思い出す。
――哲平くんの強引なところ、ちょっと困ってるんだ。
胸の奥に、嫌なものが残った。
その日のバイトが終わった。
店を出ると、外にはまだ昼間の熱気が残っていた。
「ゆかり」
声に振り返る。
哲平が立っていた。
「……本当に待ってたの?」
「待ってるって言っただろ」
「私、帰るから」
「少しくらいいいじゃん」
「疲れてるの」
哲平が前に回り込む。
「店長のこと聞きたいだけ」
ゆかりの表情が変わった。
「関係ないでしょ」
「俺にはあるよ」
「ないよ」
「ある」
「なんで?」
哲平はゆかりを見つめた。
「俺がお前のこと好きって、何回告った?」
ゆかりはため息をついた。
「そういうところが嫌なの」
「どういうところ?」
「何度言ったら分かるの? 私、哲平くんと付き合う気ないから」
「店長とは付き合うのに?」
「…………」
「店長とはどこまでやったの?」
「最低」
「セックスしたんだ?」
「どいて」
「なあ」
哲平が一歩近づく。
ゆかりは一歩下がった。
「なんで店長ならいいんだよ」
「どいてって言ってるでしょ」
「俺だってずっと好きだって言ってるじゃん」
「だからって、何してもいいわけじゃないでしょ!」
ゆかりが横を通り抜けようとする。
哲平が腕を掴んだ。
「痛い! 離して!」
「話してるだけだろ!」
「嫌だって言ってるでしょ!」
ゆかりが腕を振りほどく。
「もう帰る!」
背を向けた瞬間、哲平が肩を掴んだ。
「待てって!」
「きゃっ!」
バランスを崩し、ゆかりはその場に倒れた。
「痛っ……」
「ゆかり」
「来ないで」
哲平が近づく。
ゆかりは後ずさった。
「何怖がってんだよ」
「やめて」
「店長とはいいんだろ?」
「やめてって言ってるでしょ!」
「だったら俺ともいいことしようぜ」
哲平がゆかりを押さえつける。
「いや! 離して!」
「一回くらいいいだろ」
「哲平くん、やめて!」
「キスさせろよ」
「いや!」
哲平の顔が近づく。
ゆかりは必死に顔を背けた。
「やめて……!」
「哲平!!」
怒鳴り声が響いた。
哲平が振り向く。
「……奏?」
俺は走った。
店を出たあと、少し離れたところに哲平の姿が見えた。
昼間の会話が気になって、後を追った。
嫌な予感がした。
そして――。
ゆかりを押さえつけている哲平を見つけた。
「何してんだよ!」
哲平の服を掴み、力任せにゆかりから引き離す。
「離せよ!」
「お前がゆかりから離れろ!」
「奏くん……!」
「大丈夫!?」
「う、うん……」
哲平が俺の手を振り払った。
「何なんだよ、お前!」
「それはこっちの台詞だ!」
「俺とゆかりの問題だろ!」
「ゆかりが嫌がってんだろ!」
「お前には関係ねえ!」
「ある!」
「何があるんだよ!」
哲平が俺の胸ぐらを掴んだ。
「離せよ」
「昨日もゆかり庇って、いい格好しやがって!」
「何言ってんだよ!」
「お前さえいなけりゃ……」
哲平の手に力が入る。
「お前さえいなけりゃ、ゆかりは俺を見てくれるんだよ!」
「ふざけんな! そんなことして、ゆかりがお前を見るわけないだろ!」
「うるせえ!」
拳が飛んできた。
頬に強い衝撃が走る。
「奏くん!」
足がもつれ、俺は地面に手をついた。
頬が熱い。
何が起きたのか一瞬分からなかった。
「邪魔すんなよ!」
哲平がまた向かってくる。
俺は立ち上がった。
「もうやめろ!」
「うるせえ!」
もう一度、哲平の拳が飛んでくる。
今度は避けた。
そして――。
俺も拳を振った。
哲平の頬に当たる。
そこからは、もう止まらなかった。
哲平が俺に掴みかかる。
俺も押し返す。
二人でもつれ合い、そのまま地面に倒れた。
「お前に何が分かるんだよ!」
「分かるよ!」
「何が!」
「少なくとも――」
俺は哲平を睨んだ。
「好きな女が嫌がることなんか、俺はしない!」
哲平の顔が歪んだ。
また拳を振り上げる。
「もうやめて!!」
ゆかりの叫び声だった。
二人の動きが止まった。
「お願いだから……もうやめて」
ゆかりは泣いていた。
俺は哲平から手を離した。
哲平もゆっくり立ち上がる。
荒い息をしながら、俺を睨んだ。
「……何なんだよ」
「…………」
「お前、ゆかりの何なんだよ」
昨日の夜が頭をよぎった。
二度のキス。
そして、俺が伝えた言葉。
――俺が好きなのは、ゆかりなんだ。
でも。
ゆかりから、まだ返事はもらっていない。
俺は哲平を見た。
「何でもいいだろ」
「は?」
「嫌がってる女に無理やりキスしようとする奴よりはマシだ」
「……奏」
哲平の目つきが変わった。
「覚えとけよ」
「何をだよ」
「お前のそういうところ……マジでムカつく」
哲平は俺を睨みつけると、そのまま歩いていった。
「奏くん……」
振り返る。
ゆかりが立っていた。
「大丈夫?」
「俺は平気。それより、ゆかりは?」
「……怖かった」
震える声。
俺が近づくと、ゆかりは俺の服をぎゅっと掴んだ。
「本当に怖かった……」
「もう大丈夫だから」
「奏くんが来てくれなかったら……」
「もういいよ」
ゆかりの肩が震えていた。
俺は少しためらってから、その身体をそっと抱きしめた。
「大丈夫」
ゆかりは拒まなかった。
俺の胸に顔を埋める。
「……ありがとう、奏くん」
「うん」
「助けに来てくれて」
俺は何も答えず、ゆかりを抱いていた。
昨日まで、哲平は友達だった。
少なくとも俺は、そう思っていた。
でも――。
もう、元には戻れない気がした。
言ってしまった。
ずっと胸の奥にしまっていた言葉。
ゆかりは何も言わず、俺を見つめていた。
返事を待つ時間が、やけに長く感じる。
「……ごめん」
耐えきれず、俺は目を逸らした。
「急にこんなこと言われても困るよな」
「ううん」
ゆかりは小さく首を振った。
「びっくりしただけ」
「……そっか」
「奏くんが、私のことそんなふうに思ってたなんて、知らなかった」
「言えなかったから」
「どうして?」
「どうしてって……」
言えるわけがない。
哲平がゆかりに好意を持っていることをを知っていたから。
友達と同じ女の子を好きになったことに、どこか後ろめたさがあったから。
それに何より、俺なんかが告白しても困らせるだけだと思っていた。
「……いろいろ」
「何それ」
ゆかりが小さく笑った。
その笑顔を見て、少しだけ緊張がほどける。
「返事は今じゃなくていいから」
「奏くん」
「ん?」
「さっきのキス……」
心臓が跳ねた。
「ご、ごめん。やっぱり嫌だった?」
ゆかりは俺を見つめたまま、小さく首を振った。
「……嫌じゃなかったよ」
「え……」
また、目が合った。
今度は、どちらも逸らさなかった。
さっきよりも長く。
何も言わず、ただお互いを見つめていた。
少しずつ、ゆかりの顔が近づく。
俺もゆっくり顔を近づけた。
今度は勢いじゃない。
俺だけでもない。
ゆかりも逃げなかった。
そして――。
もう一度、唇が重なった。
さっきより、少しだけ長いキス。
唇が離れても、俺たちはすぐには離れなかった。
「……ゆかり」
「何?」
聞きたいことはあった。
今のキスは、どういう意味なのか。
俺のことを少しでも好きだと思ってくれているのか。
でも、聞けなかった。
聞いたら、この時間が終わってしまいそうな気がした。
「……何でもない」
「変なの」
ゆかりが笑う。
そして、もう一度俺の肩に頭を預けた。
俺は何も言わなかった。
ただ、この時間がもう少しだけ続けばいいと思った。
翌朝。
真司が目を覚ますと、隣にかの子はいなかった。
「……かの子?」
返事はない。
ベッドから起き上がり、寝室を出る。
キッチンへ向かうと、かの子がいた。
真司に背を向けたまま、朝食の支度をしている。
「……おはよう」
返事はなかった。
「まだ怒ってんの?」
「怒ってないわよ」
「怒ってるだろ」
「別に」
真司は小さく息を吐いた。
「昨日のことは悪かったよ」
かの子の手が止まる。
「ちゃんと話すから」
「……何を?」
「だから……」
かの子がゆっくり振り返った。
「別れるって?」
真司は答えなかった。
「いつ別れるの?」
「…………」
かの子は真司を見つめていた。
真司も何も言えない。
しばらくの沈黙。
やがて、かの子が包丁へ手を伸ばした。
「……かの子?」
包丁を握る。
そして、真司へ向けた。
「おい……何してんだよ」
かの子の表情は変わらない。
「あの子と別れないなら――」
真司の顔から笑みが消えた。
「あなたを殺して、私も死ぬわ」
「……何言ってんだよ」
「本気よ」
「馬鹿なことやめろ。危ないから置け」
真司が一歩近づこうとする。
「来ないで!」
包丁の切っ先が動いた。
真司の足が止まる。
「分かった。行かないから」
「私、本気だから」
かの子の目に涙が浮かんだ。
「真司をあの子に取られるくらいなら、全部なくなったほうがいい」
「かの子……」
「私を選んで」
「…………」
「私を選ぶって言って」
真司は包丁を見た。
震えている。
かの子の手も、声も。
「……分かった」
「何が?」
「お前を選ぶ」
かの子の目が揺れた。
「本当に?」
「ああ。だから、それ置いてくれ」
「約束する?」
「約束する」
しばらくして、かの子の手がゆっくり下がった。
真司は大きく息を吐いた。
かの子は包丁を置くと、その場で泣き崩れた。
数日後。
「明日、休みだろ?」
真司がそう言うと、かの子は怪訝そうに顔を上げた。
「そうだけど?」
「どっか行くか?」
「……どっかって?」
「ドライブでも。久しぶりに」
「二人で?」
「他に誰がいるんだよ」
かの子は真司の顔をじっと見た。
「何よ、急に」
「たまにはいいだろ」
「ふーん」
興味がなさそうな返事。
けれど、かの子の口元には小さな笑みが浮かんでいた。
翌日。
二人を乗せた車が街を走っていた。
最初は、どこかぎこちなかった。
ラジオだけが車内に流れている。
「ねえ」
かの子が窓の外を見ながら言った。
「ここ、覚えてる?」
「何が?」
「昔来たじゃない」
「……ああ」
「真司、道間違えたのよね」
「違う。お前が右って言ったんだろ」
「左って言ったわよ」
「絶対右だった」
「左!」
「はいはい」
「何よ、その言い方」
真司が笑った。
つられるように、かの子も笑う。
久しぶりだった。
二人でこんなふうに笑うのは。
途中で買い物をして、昼食を食べた。
店を出たあと、かの子が紙袋を真司へ差し出す。
「持って」
「自分で持てよ」
「夫でしょ?」
「そういうときだけ夫扱いかよ」
「いいじゃない」
「はいはい」
文句を言いながら、真司は紙袋を受け取った。
かの子が嬉しそうに笑う。
その日のかの子に、数日前の険しい表情はなかった。
同じ頃。
「ねえ、このあとどうする?」
「私、ちょっと休みたい。歩きすぎた」
「じゃあカフェ行こっか」
「いいね」
友達の一人がゆかりを見る。
「ゆかりは?」
「私? 行く行く」
ゆかりも笑った。
数人の友達と買い物をしていた。
両手には、それぞれが買った店の紙袋。
「でも、その前にあっち見たい!」
「まだ見るの?」
「見るだけ!」
「絶対買うじゃん」
「買わないって!」
笑い声が響く。
ゆかりも一緒になって笑った。
その時だった。
信号待ちをしている一台の車が目に入った。
見覚えがある。
ゆかりの足が、ほんの少しだけ遅くなった。
「…………」
運転席を見る。
真司だった。
一瞬、胸が弾んだ。
こんなところで会うなんて。
声をかけようか。
そう思った。
けれど――。
助手席を見た瞬間、その考えは消えた。
かの子の笑っている姿が見えた。
「ゆかり?」
「……え?」
前を歩いていた友達が振り返った。
「どうしたの?」
「ううん。何でもない」
ゆかりは慌てて笑った。
「ちょっとぼーっとしてた」
「疲れた?」
「かも。歩きすぎたかな」
「だから休もうって言ったじゃん」
「そうだね」
友達が笑う。
ゆかりも笑った。
そのまま歩き出す。
けれど、目だけは車から離せなかった。
真司が何かを言った。
かの子が笑う。
真司も笑った。
何を話しているのかは聞こえない。
それでも、楽しそうなのは分かった。
かの子が真司の腕に触れる。
真司は嫌がらない。
当たり前のように、そのまま話している。
胸の奥が冷たくなった。
昨日まで自分を抱きしめていた男。
もう少し待ってくれと言った男。
自分を好きだと言った男が――。
妻の隣で笑っている。
「ゆかりー、早く!」
「あ、ごめん!」
少し先から友達が呼んでいる。
ゆかりは小走りで追いついた。
「何見てたの?」
「何でもないって」
「怪しい。イケメンでもいた?」
「違うよ」
「ほんとに?」
「ほんとほんと」
笑った。
ちゃんと笑えた。
誰にも気づかれないように。
信号が青に変わる。
車が走り出した。
ゆかりは友達と話しながら歩き続ける。
振り返らなかった。
振り返ったら、何かが顔に出てしまいそうだった。
「ねえ、ゆかり。カフェ入ったら何飲む?」
「んー……アイスティーかな」
自分でも驚くほど、普通の声が出た。
友達は誰も気づいていない。
ゆかりも、いつもと同じように笑っている。
けれど頭の中では、さっきの光景だけが何度も繰り返されていた。
かの子の笑顔。
真司の笑顔。
触れ合う二人。
――もう少し待ってくれ。
真司の声が蘇る。
ゆかりは笑顔のまま、買い物袋の持ち手を強く握った。
指が痛くなるほど。
そして心の中で、そっと呟いた。
――何が、もう少し待って、よ。
翌日。
「おはよう、鮎田さん」
「……おはようございます」
ゆかりは、かの子の顔を見た。
機嫌がいい。
あの騒ぎが嘘だったみたいに。
「今日も暑いわね」
「・・・そうですね」
「体調、大丈夫?」
「……はい」
「無理しないでね」
「ありがとうございます」
ゆかりは笑顔で答えた。
何なの?
昨日の光景が頭に浮かぶ。
少しして、真司が店に出てきた。
「おはよう」
「おはよう、真司」
かの子が嬉しそうに答える。
「昨日ありがとね」
「何が?」
「ドライブ」
「ああ」
「楽しかった」
「そっか」
「また行こうね」
「……ああ」
ゆかりは少し離れた場所から、その会話を聞いていた。
やっぱり。
偶然一緒にいただけじゃない。
二人で出かけたんだ。
「鮎田さん」
突然呼ばれ、ゆかりは顔を上げた。
かの子が立っている。
「はい」
「この前はごめんなさいね」
「……え?」
「私、ちょっと取り乱しちゃって」
かの子が笑った。
「お客さんの前であんな大声出して。大人げなかったわ」
「……いえ」
「まあ」
かの子は真司をちらりと見た。
「夫婦って、いろいろあるから」
「…………」
「でも結局、夫婦は夫婦なのよね」
一瞬だけ、ゆかりの笑顔が消えた。
けれど、すぐに戻る。
「……そうですね」
「じゃあ、今日もよろしくね」
「はい」
かの子は機嫌よくレジへ戻っていった。
ゆかりはその背中を見つめる。
――結局、夫婦は夫婦。
胸の奥で、何かがざらついた。
「ゆかり」
突然声をかけられた。
振り返る。
哲平だった。
「……何?」
「今日、終わったら話せる?」
「何の話?」
「ちょっと聞きたいことがある」
「今じゃだめなの?」
「ここじゃ話せない」
「…………」
「待ってるから」
哲平はそれだけ言って離れていった。
少し離れた場所で品出しをしていた俺は、二人を見ていた。
何を話していたのかは聞こえなかった。
ただ、ゆかりの表情が気になった。
初めて相談された日のことを思い出す。
――哲平くんの強引なところ、ちょっと困ってるんだ。
胸の奥に、嫌なものが残った。
その日のバイトが終わった。
店を出ると、外にはまだ昼間の熱気が残っていた。
「ゆかり」
声に振り返る。
哲平が立っていた。
「……本当に待ってたの?」
「待ってるって言っただろ」
「私、帰るから」
「少しくらいいいじゃん」
「疲れてるの」
哲平が前に回り込む。
「店長のこと聞きたいだけ」
ゆかりの表情が変わった。
「関係ないでしょ」
「俺にはあるよ」
「ないよ」
「ある」
「なんで?」
哲平はゆかりを見つめた。
「俺がお前のこと好きって、何回告った?」
ゆかりはため息をついた。
「そういうところが嫌なの」
「どういうところ?」
「何度言ったら分かるの? 私、哲平くんと付き合う気ないから」
「店長とは付き合うのに?」
「…………」
「店長とはどこまでやったの?」
「最低」
「セックスしたんだ?」
「どいて」
「なあ」
哲平が一歩近づく。
ゆかりは一歩下がった。
「なんで店長ならいいんだよ」
「どいてって言ってるでしょ」
「俺だってずっと好きだって言ってるじゃん」
「だからって、何してもいいわけじゃないでしょ!」
ゆかりが横を通り抜けようとする。
哲平が腕を掴んだ。
「痛い! 離して!」
「話してるだけだろ!」
「嫌だって言ってるでしょ!」
ゆかりが腕を振りほどく。
「もう帰る!」
背を向けた瞬間、哲平が肩を掴んだ。
「待てって!」
「きゃっ!」
バランスを崩し、ゆかりはその場に倒れた。
「痛っ……」
「ゆかり」
「来ないで」
哲平が近づく。
ゆかりは後ずさった。
「何怖がってんだよ」
「やめて」
「店長とはいいんだろ?」
「やめてって言ってるでしょ!」
「だったら俺ともいいことしようぜ」
哲平がゆかりを押さえつける。
「いや! 離して!」
「一回くらいいいだろ」
「哲平くん、やめて!」
「キスさせろよ」
「いや!」
哲平の顔が近づく。
ゆかりは必死に顔を背けた。
「やめて……!」
「哲平!!」
怒鳴り声が響いた。
哲平が振り向く。
「……奏?」
俺は走った。
店を出たあと、少し離れたところに哲平の姿が見えた。
昼間の会話が気になって、後を追った。
嫌な予感がした。
そして――。
ゆかりを押さえつけている哲平を見つけた。
「何してんだよ!」
哲平の服を掴み、力任せにゆかりから引き離す。
「離せよ!」
「お前がゆかりから離れろ!」
「奏くん……!」
「大丈夫!?」
「う、うん……」
哲平が俺の手を振り払った。
「何なんだよ、お前!」
「それはこっちの台詞だ!」
「俺とゆかりの問題だろ!」
「ゆかりが嫌がってんだろ!」
「お前には関係ねえ!」
「ある!」
「何があるんだよ!」
哲平が俺の胸ぐらを掴んだ。
「離せよ」
「昨日もゆかり庇って、いい格好しやがって!」
「何言ってんだよ!」
「お前さえいなけりゃ……」
哲平の手に力が入る。
「お前さえいなけりゃ、ゆかりは俺を見てくれるんだよ!」
「ふざけんな! そんなことして、ゆかりがお前を見るわけないだろ!」
「うるせえ!」
拳が飛んできた。
頬に強い衝撃が走る。
「奏くん!」
足がもつれ、俺は地面に手をついた。
頬が熱い。
何が起きたのか一瞬分からなかった。
「邪魔すんなよ!」
哲平がまた向かってくる。
俺は立ち上がった。
「もうやめろ!」
「うるせえ!」
もう一度、哲平の拳が飛んでくる。
今度は避けた。
そして――。
俺も拳を振った。
哲平の頬に当たる。
そこからは、もう止まらなかった。
哲平が俺に掴みかかる。
俺も押し返す。
二人でもつれ合い、そのまま地面に倒れた。
「お前に何が分かるんだよ!」
「分かるよ!」
「何が!」
「少なくとも――」
俺は哲平を睨んだ。
「好きな女が嫌がることなんか、俺はしない!」
哲平の顔が歪んだ。
また拳を振り上げる。
「もうやめて!!」
ゆかりの叫び声だった。
二人の動きが止まった。
「お願いだから……もうやめて」
ゆかりは泣いていた。
俺は哲平から手を離した。
哲平もゆっくり立ち上がる。
荒い息をしながら、俺を睨んだ。
「……何なんだよ」
「…………」
「お前、ゆかりの何なんだよ」
昨日の夜が頭をよぎった。
二度のキス。
そして、俺が伝えた言葉。
――俺が好きなのは、ゆかりなんだ。
でも。
ゆかりから、まだ返事はもらっていない。
俺は哲平を見た。
「何でもいいだろ」
「は?」
「嫌がってる女に無理やりキスしようとする奴よりはマシだ」
「……奏」
哲平の目つきが変わった。
「覚えとけよ」
「何をだよ」
「お前のそういうところ……マジでムカつく」
哲平は俺を睨みつけると、そのまま歩いていった。
「奏くん……」
振り返る。
ゆかりが立っていた。
「大丈夫?」
「俺は平気。それより、ゆかりは?」
「……怖かった」
震える声。
俺が近づくと、ゆかりは俺の服をぎゅっと掴んだ。
「本当に怖かった……」
「もう大丈夫だから」
「奏くんが来てくれなかったら……」
「もういいよ」
ゆかりの肩が震えていた。
俺は少しためらってから、その身体をそっと抱きしめた。
「大丈夫」
ゆかりは拒まなかった。
俺の胸に顔を埋める。
「……ありがとう、奏くん」
「うん」
「助けに来てくれて」
俺は何も答えず、ゆかりを抱いていた。
昨日まで、哲平は友達だった。
少なくとも俺は、そう思っていた。
でも――。
もう、元には戻れない気がした。