水色に混ざる夏 2
第三話 消えない想いと、消えゆく影
商店街を抜けると、夕空にひときわ高いビルのシルエットが浮かんでいた。
8月の日は長い。もう夕方と呼ぶには遅い時間なのに、空はまだオレンジ色の光を残している。
「……あの建物、何階建てだ?」
透くんが足を止めて、ビルを見上げた。
「あれは『オーセタワー』。今年オープンしたばかりのビルで、たしか30階くらいだったかな。上の方に展望台があるんだよ」
「今年……。上から街を見下ろせるのか。……なあ凛花、あそこに行けないか?」
「え、今から?」
「ああ。思い出の場所が、この時代でも見えるか確かめたいんだ」
——思い出の場所。
その言葉で真っ先に浮かんだのは、十喜声山。
去年の夏、透くんが最初に連れていってくれた山。学校の裏山なのに、わたしはそれまで存在すら知らなくて、「へえ……裏山なんてあったんだ……」って間抜けなことを言ったっけ。
(透くんも、あの場所のこと、大切に思ってるんだ……)
嬉しくて、迷わず頷いた。
「うん! 行こう!」
◆
エレベーターを降りると、一面のガラス窓の向こうに街が広がっていた。

[挿絵E:展望台に到着]
夕暮れの陽岬市。オレンジと紫が溶け合う空の下に、ビルや住宅地が小さく並んでいる。遠くには海がきらきら光っていて、その手前の街並みがまるで模型みたいだった。
「……すごいな」
透くんが、息を呑むように呟いた。
「30年で、こんなに変わるのか」
「うん……透くんの知ってる街とは、だいぶ違うよね」
「建物が増えた。道も広い。……でも、海の形は変わってないな」
透くんは窓に近づいて、じっと街を見下ろしている。
その目が、何かを探すように左右に動いた。
「…………」
しばらくして、透くんの眉がわずかに寄った。
「……おかしいな」
「え? どうしたの?」
「十喜声山が、見えない」
わたしも慌てて窓の外を見た。学校がある方角、その裏側にあるはずの——あの山。
でも、どこにもない。
ビルに隠れているのかと思って、角度を変えて覗き込んでみたけど、やっぱり見当たらない。そもそもあの辺りには、山らしい起伏がまったくなかった。
「30年でビルが増えたとは言っても……山がまるごと消えるのは、ありえないだろ」
透くんが腕を組んで、静かに言った。その声には困惑と——もっと深い、得体の知れない違和感がにじんでいた。
(……そういえば)
わたしは、ふと思い出していた。
去年の夏、透くんに「裏山に行こう」って誘われたとき——わたし、本当に驚いたんだ。
生まれてからずっとこの街に住んでいるのに、十喜声山のことを一度も聞いたことがなかった。友だちからも、お母さんからも。
——あの山は、本当に「普通の山」だったのかな。
背筋が、すうっと冷たくなった。
展望台は冷房が効いているけど、今のは、そういう冷たさじゃない。
(……なにか大きな力が、わたしたちを引き合わせてくれたんじゃ——)
考えかけて、首を振った。考えすぎだ。きっと角度の問題で見えないだけ。
でも、胸の奥に灯った小さな不安の火は、消えてくれなかった。
◆
「ねえ透くん、写真撮ろうよ! せっかくの展望台だし!」
重くなりかけた空気を振り払いたくて、わたしはスマホを取り出した。
「写真?」
「うん! 夜景をバックに、ふたりで! ……あ、えっと、記念に! べ、別にそういう意味じゃなくて!」
透くんがふっと笑う。「いいよ」とだけ言って、わたしの隣に並んでくれた。
インカメラを起動して、ふたりが画面に収まるように腕を伸ばす。
夕焼けのガラスを背に、透くんとわたしが映っている——はず、だった。
「……ん?」
画面の中の透くんの顔に、一瞬、ノイズのような線が走った。
(え……?)
目をこすって、もう一度見る。今度は普通に映っている。
……気のせいだよね。スマホの調子が悪いだけ。
「撮るよ? はい、ちー——」
シャッターを切った。
——なのに、カメラロールを開いても、今撮ったはずの写真がどこにもない。
「……あれ? 保存されてない……?」
「どうした?」
「ちょっと待って、もう一回……」
もう一度シャッターを切る。今度こそ——とカメラロールを確認すると、やっぱり、ない。直前に撮ったはずの写真だけが、まるで最初からなかったみたいに存在しない。
背中に、じわりと嫌な汗がにじんだ。
「……透くん、ちょっとだけじっとしてて」
今度は透くんだけを撮ろうとして、カメラを向ける。
ファインダー越しの透くんは、普通に立っている。普通に、かっこいい。
——でも。
シャッターを切る直前、透くんの輪郭がほんの一瞬、砂嵐のように乱れた。
(……っ)
スマホを持つ手が、震えた。
「凛花?」
「な、なんでもない……! スマホの調子悪いみたい……えへへ……」
笑ってみせたけど、心臓はばくばくだった。
ふと視線をガラス窓に移すと、展望台の中の風景が薄く映り込んでいた。わたしの姿。後ろを歩くカップル。手すりにもたれた家族連れ——
でも。
わたしの隣に立っているはずの透くんの影だけが、一瞬、ガラスの向こうの夜景に溶けるように薄くなった気がした。
(——え?)
慌てて透くんを見ると、透くんはちゃんとそこにいる。実体のある、温かい存在として。
……でも、ガラスの影は——
(気のせい。気のせいだよ、ぜったい)
自分にそう言い聞かせた。
でも心の奥で、何かが囁いている。
——これは、「気のせい」で済ませていいことじゃない。
8月の日は長い。もう夕方と呼ぶには遅い時間なのに、空はまだオレンジ色の光を残している。
「……あの建物、何階建てだ?」
透くんが足を止めて、ビルを見上げた。
「あれは『オーセタワー』。今年オープンしたばかりのビルで、たしか30階くらいだったかな。上の方に展望台があるんだよ」
「今年……。上から街を見下ろせるのか。……なあ凛花、あそこに行けないか?」
「え、今から?」
「ああ。思い出の場所が、この時代でも見えるか確かめたいんだ」
——思い出の場所。
その言葉で真っ先に浮かんだのは、十喜声山。
去年の夏、透くんが最初に連れていってくれた山。学校の裏山なのに、わたしはそれまで存在すら知らなくて、「へえ……裏山なんてあったんだ……」って間抜けなことを言ったっけ。
(透くんも、あの場所のこと、大切に思ってるんだ……)
嬉しくて、迷わず頷いた。
「うん! 行こう!」
◆
エレベーターを降りると、一面のガラス窓の向こうに街が広がっていた。

[挿絵E:展望台に到着]
夕暮れの陽岬市。オレンジと紫が溶け合う空の下に、ビルや住宅地が小さく並んでいる。遠くには海がきらきら光っていて、その手前の街並みがまるで模型みたいだった。
「……すごいな」
透くんが、息を呑むように呟いた。
「30年で、こんなに変わるのか」
「うん……透くんの知ってる街とは、だいぶ違うよね」
「建物が増えた。道も広い。……でも、海の形は変わってないな」
透くんは窓に近づいて、じっと街を見下ろしている。
その目が、何かを探すように左右に動いた。
「…………」
しばらくして、透くんの眉がわずかに寄った。
「……おかしいな」
「え? どうしたの?」
「十喜声山が、見えない」
わたしも慌てて窓の外を見た。学校がある方角、その裏側にあるはずの——あの山。
でも、どこにもない。
ビルに隠れているのかと思って、角度を変えて覗き込んでみたけど、やっぱり見当たらない。そもそもあの辺りには、山らしい起伏がまったくなかった。
「30年でビルが増えたとは言っても……山がまるごと消えるのは、ありえないだろ」
透くんが腕を組んで、静かに言った。その声には困惑と——もっと深い、得体の知れない違和感がにじんでいた。
(……そういえば)
わたしは、ふと思い出していた。
去年の夏、透くんに「裏山に行こう」って誘われたとき——わたし、本当に驚いたんだ。
生まれてからずっとこの街に住んでいるのに、十喜声山のことを一度も聞いたことがなかった。友だちからも、お母さんからも。
——あの山は、本当に「普通の山」だったのかな。
背筋が、すうっと冷たくなった。
展望台は冷房が効いているけど、今のは、そういう冷たさじゃない。
(……なにか大きな力が、わたしたちを引き合わせてくれたんじゃ——)
考えかけて、首を振った。考えすぎだ。きっと角度の問題で見えないだけ。
でも、胸の奥に灯った小さな不安の火は、消えてくれなかった。
◆
「ねえ透くん、写真撮ろうよ! せっかくの展望台だし!」
重くなりかけた空気を振り払いたくて、わたしはスマホを取り出した。
「写真?」
「うん! 夜景をバックに、ふたりで! ……あ、えっと、記念に! べ、別にそういう意味じゃなくて!」
透くんがふっと笑う。「いいよ」とだけ言って、わたしの隣に並んでくれた。
インカメラを起動して、ふたりが画面に収まるように腕を伸ばす。
夕焼けのガラスを背に、透くんとわたしが映っている——はず、だった。
「……ん?」
画面の中の透くんの顔に、一瞬、ノイズのような線が走った。
(え……?)
目をこすって、もう一度見る。今度は普通に映っている。
……気のせいだよね。スマホの調子が悪いだけ。
「撮るよ? はい、ちー——」
シャッターを切った。
——なのに、カメラロールを開いても、今撮ったはずの写真がどこにもない。
「……あれ? 保存されてない……?」
「どうした?」
「ちょっと待って、もう一回……」
もう一度シャッターを切る。今度こそ——とカメラロールを確認すると、やっぱり、ない。直前に撮ったはずの写真だけが、まるで最初からなかったみたいに存在しない。
背中に、じわりと嫌な汗がにじんだ。
「……透くん、ちょっとだけじっとしてて」
今度は透くんだけを撮ろうとして、カメラを向ける。
ファインダー越しの透くんは、普通に立っている。普通に、かっこいい。
——でも。
シャッターを切る直前、透くんの輪郭がほんの一瞬、砂嵐のように乱れた。
(……っ)
スマホを持つ手が、震えた。
「凛花?」
「な、なんでもない……! スマホの調子悪いみたい……えへへ……」
笑ってみせたけど、心臓はばくばくだった。
ふと視線をガラス窓に移すと、展望台の中の風景が薄く映り込んでいた。わたしの姿。後ろを歩くカップル。手すりにもたれた家族連れ——
でも。
わたしの隣に立っているはずの透くんの影だけが、一瞬、ガラスの向こうの夜景に溶けるように薄くなった気がした。
(——え?)
慌てて透くんを見ると、透くんはちゃんとそこにいる。実体のある、温かい存在として。
……でも、ガラスの影は——
(気のせい。気のせいだよ、ぜったい)
自分にそう言い聞かせた。
でも心の奥で、何かが囁いている。
——これは、「気のせい」で済ませていいことじゃない。