むすび洋菓子店 ―人との縁と縁をつなぐ―

愛した人

 秀の記憶の中に、少しずつ昔の景色が戻ってきていた。

 放課後の教室。

 窓から差し込む夕陽。

 そして、自分にチーズケーキを渡してくれた女の子。

 ――結月。

「……結月」

 名前を口にした瞬間、胸の奥が締めつけられた。

 忘れていたはずなのに。

 忘れたかったわけでもない。

 ただ、長い年月の中で、記憶の奥にしまい込んでいただけだった。

 結月は――

 自分が初めて心から愛した人だった。

 けれど。

「秀?」

 背後から声がした。

 振り返る。

 そこには由美がいた。

「どうしたの? ぼーっとして」

「……いや」

 秀は言葉を濁した。

 今、自分の隣にいるのは由美。

 今、自分が付き合っている恋人。

 由美を大切に思っている。

 だからこそ、胸の奥に突然蘇った昔の感情に戸惑っていた。

「ケーキ、美味しかったね」

「うん……」

 由美は笑顔で秀の隣に立った。

 秀は、ふと結月を見る。

 海色の美しいドレス。

 昔と同じような優しい笑顔。

 そして、あのチーズケーキ。

 全部が、記憶を呼び起こしていく。

 ――俺は、結月を愛していた。

 その事実だけが、はっきりと思い出されていく。

 けれど、もう昔には戻れない。

 結月にも、結月の人生がある。

 そして自分には――由美がいる。

「秀?」

「……何でもないよ」

 秀はそう言って笑った。

 けれど、その笑顔はどこか苦しかった。

 一方、結月は二人を少し離れたところから見ていた。

 秀の隣には由美がいる。

 その光景を見れば、何も言えない。

 結月は静かに視線を落とした。

 愛した人。

 その人が、自分ではない誰かの隣にいる。

 それでも――

 秀が幸せなら、それでいい。

 そう思いたかった。

 結月は胸の痛みを隠して、みんなの輪の中へ戻っていった。

 その背中を、秀は黙って見つめていた。

 そして心の中で、もう一度だけ名前を呼ぶ。

 ――結月。

 忘れていた時間が、今になって静かに動き始めていた。
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