七日後、この町から私が消える

第三章 知らない家族

 写真の中で、少年は笑っていた。

 母親の真由美。

 妹の美月。

 そして、亡くなった父。

 その三人に囲まれるように立っている少年。

 桐谷奏太と同じ顔をした、知らない少年。

「……俺だ」

 奏太は呟いた。

「でも……俺じゃない」

 隣に立つ莉子は何も言わない。

 写真を持つ奏太の手が震えていた。

 顔だけなら、偶然似ているという可能性もあったかもしれない。

 だが違う。

 髪型。

 身長。

 笑った時に少しだけ細くなる右目。

 左耳の下にある小さなほくろまで同じだった。

 どう見ても桐谷奏太だった。

 しかし奏太には、この写真を撮った記憶がない。

「裏……」

 莉子が小さく言った。

「え?」

「写真の裏」

 奏太はもう一度裏返す。

 そこには、自分とまったく同じ筆跡で書かれている。

 『ただいま』

「これ……いつ撮った写真だと思う?」

「分からない」

「家族旅行の写真なんだよね?」

「うん」

「三年前?」

「そう」

「じゃあ……」

 莉子は言いにくそうに続けた。

「三年前から、もう一人いたってこと?」

「そんなわけない」

 奏太は即座に否定した。

「絶対にない」

「でも写真には……」

「俺は覚えてるんだよ」

 海。

 旅館。

 父親と早朝に釣りをしたこと。

 美月とソフトクリームを奪い合ったこと。

 母親が道を間違えて、父親と笑っていたこと。

 全部覚えている。

「この写真だって俺も一緒に撮った」

「じゃあ、なんで……」

「分かんないよ!」

 思わず声が大きくなる。

 莉子が黙った。

「……ごめん」

「ううん」

 奏太は写真を鞄へ入れた。

「家に帰る」

「私も行く」

「え?」

「一人で帰るつもり?」

「でも……」

「私も確認したい」

 莉子の表情は真剣だった。

「奏太の家族が、この写真をどう見るのか」

 ◇

 午後六時二十三分。

 二人は桐谷家の前に立っていた。

「ここだよね?」

 莉子が尋ねる。

「何回も来たことあるだろ」

「確認しただけ」

 奏太は玄関を開ける。

「ただいま」

 リビングから母親の声が返ってきた。

「おかえり」

「水瀬も一緒」

「莉子ちゃん?」

 真由美が顔を出す。

「あら、久しぶり」

「お邪魔します」

「どうぞ。夕飯食べていく?」

「いえ、今日はちょっと……」

 普通だった。

 昨日までと何も変わらない。

 奏太は少しだけ安心した。

「母さん」

「何?」

「これ見て」

 例の写真を渡す。

 真由美は写真を受け取る。

「あら、懐かしい」

 奏太の心臓が止まりそうになった。

「……懐かしい?」

「三年前の旅行じゃない」

 母親は笑っている。

「お父さん、この日すごく張り切ってたわね」

「母さん」

「何?」

「この写真に写ってる男、誰?」

 真由美の笑顔が消えた。

「男?」

「ここ」

 奏太は自分と同じ顔をした少年を指さす。

 母親は少年を見る。

 そして不思議そうに奏太を見た。

「何言ってるの?」

「誰?」

「奏太でしょう」

 部屋の空気が変わった。

 莉子が奏太を見る。

「俺?」

「そうよ」

「じゃあ……」

 奏太は唾を飲み込む。

「ここにいる俺は?」

 母親は笑った。

「何言ってるのよ」

「ちゃんと答えて」

「奏太でしょ?」

「写真のこいつも?」

「奏太」

「俺も?」

「奏太」

 母親の笑顔が少しずつ不自然に見えてくる。

「じゃあ二人いるじゃん」

 沈黙。

 真由美が写真を見る。

 そして、

「……二人?」

 初めて気づいたような顔をした。

「そうだよ!」

 奏太は写真を指さす。

「こいつが俺なら、ここにいる俺は誰なんだよ!」

 母親は奏太を見る。

 写真を見る。

 また奏太を見る。

「……変ね」

「やっと分かった?」

「どうして」

 真由美の表情から血の気が引いていく。

「どうしてあなたが二人いるの?」

 その言葉を聞いた瞬間。

 奏太は、安心してしまった。

 母親にも見えている。

 自分がおかしくなったわけではない。

 しかし――

「お母さん?」

 莉子が声を掛ける。

 真由美は写真から目を離さない。

「これ……」

「はい」

「いつ撮ったの?」

「三年前でしょ?」

 奏太が答える。

「違う」

「え?」

「この写真じゃない」

 母親が指していたのは、写真の中の少年だった。

「この子……」

 震えた声。

「いつから写ってたの?」

「だから分かんないんだよ」

 真由美は何かを思い出そうとするように額へ手を当てる。

「私……」

「母さん?」

「この子を知ってる」

 奏太と莉子が固まった。

「知ってる?」

「でも……」

 真由美は苦しそうに目を閉じる。

「思い出せない」

「何を?」

「名前」

「俺と同じ顔なんだから俺じゃないの?」

「違う」

 真由美は即答した。

 奏太の背中を冷たい汗が流れる。

「どうして分かるの?」

「分からない」

「じゃあなんで!」

「だって……」

 母親の目から涙がこぼれた。

「この子を見てると」

 一度、言葉を飲み込む。

「すごく悲しくなるの」

 ◇

「何してるの?」

 階段から美月の声がした。

 三人が振り向く。

 美月がリビングへ入ってくる。

「美月」

「何?」

「この写真」

 奏太が差し出す。

 美月は受け取った。

 数秒。

 何も言わない。

「分かる?」

「……うん」

「誰?」

 美月が少年を指さす。

「お兄ちゃん」

「やっぱり俺?」

「うん」

「じゃあ俺は?」

 美月が奏太を見る。

 その瞬間。

 表情が変わった。

「……え?」

「俺は誰?」

 美月は写真を見る。

 奏太を見る。

 また写真を見る。

「待って」

「何?」

「なんで……?」

 美月が後ずさる。

「どうした?」

「お兄ちゃん」

「だから何だよ」

「どっち?」

 奏太は言葉を失った。

「どっちって……」

「分かんない」

 美月の呼吸が速くなる。

「写真のお兄ちゃんと、今のお兄ちゃん」

「同じだろ」

「違う」

 奏太の心臓が跳ねる。

「何が?」

「目」

「目?」

「写真のお兄ちゃんは……」

 美月が震える指で写真を指す。

「左目の下にほくろがある」

 奏太は笑った。

「俺もあるだろ」

 左目の下を指さす。

 しかし。

 美月の表情が固まっている。

「……ないよ」

「は?」

 奏太はリビングの鏡へ走った。

 自分の顔を見る。

 右目。

 左目。

 何もない。

「嘘……」

 昨日まであった。

 小学生の頃、美月に「ゴミついてる」とからかわれたこともある。

 確かにあった。

 なのに消えている。

「そんな……」

 莉子が近づく。

「奏太」

「莉子は覚えてるよな?」

「……うん」

「あったよな?」

「小さいのが」

「だよな!」

 写真を見る。

 少年にはある。

 自分にはない。

 奏太は急に、自分の顔が自分のものではないような感覚に襲われた。

 ◇

 その夜。

 莉子は家へ帰った。

 奏太は自室で古い写真を全部調べた。

 幼稚園。

 小学校。

 中学校。

 家族旅行。

 運動会。

 誕生日。

 写真によって違っていた。

 奏太がいる写真。

 いない写真。

 そして――

 二人いる写真。

「……なんだよこれ」

 小学五年生の運動会。

 ゴールテープを切る奏太。

 観客席にも奏太がいる。

 中学一年生の入学式。

 母親の隣に奏太。

 校舎二階の窓にも奏太。

 父親の葬儀。

 家族の後ろに奏太。

 そして。

 廊下の奥にも、

 もう一人の奏太。

「ずっと……いた?」

 写真を落とす。

 その時。

 廊下から足音。

 ギシッ。

 ギシッ。

「美月?」

 返事はない。

 足音が部屋の前で止まる。

 コン、コン。

 ノック。

「誰?」

 返事はない。

「母さん?」

 沈黙。

 奏太は扉へ近づく。

 鍵は掛けてある。

 ドアスコープはない。

「誰なんだよ」

 すると。

 扉の向こうから声。

「僕」

 奏太は凍りつく。

 自分の声。

「……何しに来た」

「帰ってきただけ」

「どこから」

「ずっと近くにいたよ」

「壁の中?」

 沈黙。

「答えろよ!」

「奏太」

「何だよ」

「写真、見た?」

 奏太は床に散らばった写真を見る。

「見たよ」

「僕もいたでしょう?」

「お前は誰なんだ」

「だから」

 声が少し笑う。

「奏太だよ」

「俺が奏太だ!」

「そう思ってるんだ」

「……何?」

 扉の向こうの声が、静かに続ける。

「じゃあ聞くけど」

 一拍。

「お父さんが死んだ日のこと、覚えてる?」

 奏太は口を開く。

 だが。

 言葉が出なかった。

「……覚えてるよ」

「何月何日?」

「それは……」

「どこの病院?」

「……」

「最後に何を話した?」

「黙れ」

「覚えてないでしょう?」

「黙れ!」

 奏太は扉を殴った。

「知ってるよ」

 向こうの声は静かなままだった。

「だって」

「僕は覚えてるから」

 奏太の呼吸が止まる。

「最後にお父さんが言ったんだ」

 声が少し近づく。

 まるで扉へ顔を寄せたように。

「『奏太、美月を頼む』って」

「……」

「そのあと、お父さんは僕の手を握った」

「やめろ」

「泣いてた母さんを、僕が抱きしめた」

「やめろ!」

「美月は廊下でずっと泣いてた」

「黙れ!!」

 奏太は耳を塞ぐ。

 知らない。

 そんな記憶はない。

 父親が亡くなったことは覚えている。

 葬儀も覚えている。

 なのに。

 その日の具体的な記憶だけが、

 きれいに抜け落ちている。

 扉の向こうの声が言った。

「ねえ」

「……何だよ」

「本当に君が桐谷奏太なら」

 一拍。

「どうして僕の方が、奏太のことを覚えてるの?」

 奏太は答えられなかった。

 そして。

 廊下から別の声が聞こえた。

「お兄ちゃん?」

 美月だった。

「美月!」

 奏太は扉へ駆け寄る。

「そこにいるのか?」

「うん」

「今、扉の前に誰かいる?」

「え?」

「俺と同じ顔の奴!」

 沈黙。

「美月!」

「誰もいないよ」

「そんなわけない!」

「本当にいない」

 奏太は鍵を開けた。

 勢いよく扉を開く。

 美月が一人で立っている。

 廊下には誰もいない。

「どこ行った……」

「何?」

「今ここにいたんだよ!」

「誰が?」

「俺が!」

 美月が怯えた顔をする。

「……お兄ちゃん」

「何?」

「今日、変だよ」

「俺だって分かってる!」

「そうじゃなくて」

 美月は奏太の部屋を見る。

 床に散らばった写真。

「誰と話してたの?」

「だから俺と同じ奴!」

「ずっと一人だったよ」

「聞こえなかった?」

「声は聞こえた」

「だろ!」

「でも……」

 美月は言った。

「お兄ちゃんの声しか聞こえなかった」

 奏太は動けなくなった。

「俺と、もう一人いただろ?」

「いないよ」

「二人で話してた!」

「違う」

 美月の顔色が悪くなる。

「お兄ちゃん」

「何?」

「ずっと一人で」

 言うべきか迷ったあと、

「声を変えながら、自分と話してたよ」

 ◇

 午前零時四十分。

 奏太は眠れず、リビングへ降りた。

 冷蔵庫から水を取り出す。

 頭がおかしくなったのか。

 もう一人の奏太など存在しない?

 自分が無意識に話しているだけ?

 写真も、自分で加工した?

 郵便受けに入れたのも自分?

「……そんなわけない」

 その時。

 リビングの棚にある写真立てが目に入った。

 父親。

 母親。

 美月。

 そして奏太。

 今日確認した家族旅行の写真だった。

 奏太は近づく。

 写真の中の少年には、

 左目の下にほくろがある。

「……」

 自分の顔を触る。

 ない。

 写真を見る。

 ある。

 その瞬間。

 背後から、

 コン。

 音。

 奏太は振り向く。

 一階の廊下。

 例の壁とは違う。

「……ここにも?」

 コン。

 壁の向こう。

 奏太はゆっくり近づく。

 耳を当てる。

 何も聞こえない。

 すると。

 スマートフォンが震えた。

 知らない番号からメッセージ。

 写真が一枚添付されている。

 奏太は開いた。

 今のリビング。

 奏太が壁へ耳を当てている。

 撮影されたばかり。

「……どこだ」

 周囲を見る。

 誰もいない。

 写真の撮影位置を確認する。

 リビングの隅。

 壁際。

 そこから撮られている。

 奏太はその場所へ向かう。

 何もない。

 ただ壁があるだけ。

 スマートフォンを見る。

 新しいメッセージ。

 『あと五日』

 そしてもう一通。

 『次は家族です』

「……やめろ」

 さらに通知。

 今度は動画だった。

 再生する。

 暗い映像。

 最初は何も見えない。

 やがてカメラがゆっくり進む。

 狭い場所。

 左右に木材。

 配線。

 壁の内側。

 撮影者は、

 家の壁の中を歩いている。

 映像が止まる。

 一枚の扉が映る。

 扉にはプレート。

 『桐谷奏太』

 撮影者の手が伸びる。

 ドアノブを回す。

 扉が開く。

 その先には、

 奏太の部屋。

 ベッドには、

 誰かが眠っている。

 動画がゆっくり近づく。

 眠っている人物の顔が映る。

「……俺?」

 奏太だった。

 しかし。

 今、奏太は一階にいる。

 スマートフォンを持って、

 この動画を見ている。

 なのに二階のベッドには、

 もう一人の奏太が眠っている。

 動画の中で。

 眠っていた奏太が、

 突然目を開けた。

 カメラを見る。

 そして笑った。

「次は僕の番」

 動画が終了する。

 奏太は二階を見上げた。

 静かだった。

 行ってはいけない。

 頭では分かっている。

 それでも確かめずにはいられなかった。

 奏太は階段を上る。

 一段。

 一段。

 自室の前へ立つ。

 扉は閉まっている。

 自分はさっき開けたまま降りたはずだった。

 奏太はノブへ手を掛ける。

 ゆっくり開ける。

 暗い部屋。

 机。

 本棚。

 ベッド。

 誰もいない。

「……」

 安心した瞬間。

 枕元に何かが置かれていることに気づいた。

 一枚の写真。

 奏太は拾った。

 今日の夕食。

 母親。

 美月。

 奏太。

 三人がテーブルを囲んでいる。

 しかし。

 奏太の隣に、

 もう一つ椅子がある。

 そこには誰も座っていない。

 写真の裏。

 『明日は四人で食べよう』

 そして階下から、

 母親の声が聞こえた。

「奏太ー?」

「……何?」

「ちょっと来て」

 奏太は写真を握ったまま階段を下りる。

 リビング。

 母親が冷蔵庫の前に立っている。

「どうしたの?」

「明日の夕飯なんだけど」

「うん」

 真由美は何気なく言った。

「何が食べたい?」

「何でもいい」

「そう」

 冷蔵庫を閉める。

「じゃあ四人分買ってくるね」

 奏太の表情が固まる。

「……母さん」

「何?」

「今、何人分って言った?」

「四人分」

 真由美は当然のように答えた。

「なんで?」

「なんでって……」

 母親は笑った。

「明日から」

 一瞬だけ、

 奏太の知らない表情をした。

「お兄ちゃんが帰ってくるでしょう?」

 その瞬間。

 二階から、

 コン、コン。

 誰かが壁を叩いた。

 そして美月の部屋から、

 悲鳴が聞こえた。

 ――第四章「帰ってきた兄」へ続く。
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