七日後、この町から私が消える

第四章 帰ってきた兄


「明日から、お兄ちゃんが帰ってくるでしょう?」

 母親の言葉を、奏太はすぐには理解できなかった。

「……何言ってるの?」

「何って?」

「お兄ちゃんって誰だよ」

 真由美はきょとんとする。

 まるで、奏太の質問の意味が分からないという顔だった。

「誰って……」

 その時。

 コン、コン。

 二階から音がした。

 奏太の表情が変わる。

 壁。

 あの音。

 そして――

「きゃあああっ!」

 美月の悲鳴。

「美月!」

 奏太は駆け出した。

 階段を一気に上る。

「美月!」

 妹の部屋の扉を開ける。

 美月はベッドの上にいた。

 壁際へ体を寄せ、震えている。

「どうした!?」

「……いた」

「何が?」

 美月は窓を指さした。

「外……」

 奏太はカーテンへ近づく。

「待って!」

 美月が叫ぶ。

「開けないで!」

「でも」

「お願い!」

 奏太は手を止めた。

「何を見た?」

 美月は唇を震わせる。

「お兄ちゃん」

「……俺?」

「違う」

 美月は首を横に振る。

「もう一人の方」

 奏太の背中を冷たいものが走った。

「どこにいた?」

「窓の外」

「ここ二階だぞ」

「分かってる!」

 美月は泣きそうな顔をしている。

「でもいたの!」

「どんなふうに?」

 美月は答えようとして、

 口を閉じた。

「美月?」

「……こっち見てた」

「顔は?」

「お兄ちゃんだった」

「本当に?」

「うん」

「それだけ?」

 美月は首を横に振る。

「何か言ってた」

「何て?」

「聞こえなかった」

「窓閉まってるから?」

「違う」

 美月は震える。

「口だけ動かしてた」

「何て言ってた?」

「分かんない」

 その時。

 階段を上がってきた母親が部屋へ入る。

「どうしたの?」

「母さん、外に誰かいる!」

「外?」

「窓のところ!」

 真由美はカーテンへ近づく。

「やめて!」

 美月が叫ぶ。

 だが母親は勢いよくカーテンを開けた。

 窓の外。

 暗い庭。

 街灯。

 隣家の屋根。

 誰もいない。

「ほら」

「でも……」

「疲れてるのよ」

「絶対いた!」

「美月」

 真由美は妹の頭を撫でる。

「大丈夫だから」

 奏太は窓へ近づいた。

 二階の高さ。

 人が立てる場所などない。

 ベランダもない。

 ただ。

 窓ガラスの外側に、

 手の跡が残っていた。

「母さん」

「何?」

「これ」

 真由美も気づく。

 指の形がはっきり分かる。

 誰かが外側から窓へ手を押しつけた跡。

「……鳥とか?」

「鳥に指五本あるの?」

 母親は黙った。

 奏太はスマートフォンで写真を撮る。

 その瞬間。

 美月が言った。

「分かった」

「何?」

「さっき、何て言ってたか」

 奏太が振り返る。

「思い出した?」

「うん」

 美月は奏太ではなく、窓を見ている。

「あの人……」

 一度息を飲む。

「『そこ、僕の部屋』って言ってた」

 ◇

 午後十一時三十八分。

 その夜、三人はリビングに集まっていた。

 誰も二階へ戻ろうとしなかった。

 テレビはついている。

 しかし内容など誰も見ていない。

「警察に相談しよう」

 奏太が言った。

 真由美は黙っている。

「母さん」

「……うん」

「写真もある。窓の手形もある」

「そうね」

「それと」

 奏太は母親を見る。

「さっきの話」

「何?」

「明日、お兄ちゃんが帰ってくるって」

 真由美の表情が固まる。

「私、そんなこと言った?」

「言った」

「……覚えてない」

「また?」

「ごめん」

「謝ってほしいんじゃない」

 奏太は声を落とす。

「母さん、本当に大丈夫?」

「大丈夫よ」

 そう答えたものの、母親自身も不安そうだった。

 美月がソファの端で膝を抱えている。

「ねえ」

「何?」

「今日、みんなここで寝ない?」

 奏太は頷いた。

「そうしよう」

「私、布団持ってくる」

「一人で行くな」

「じゃあ一緒に来て」

 二人で立ち上がる。

 その時。

 ピンポーン。

 三人の動きが止まった。

 時計を見る。

 午後十一時四十一分。

「誰……?」

 美月が呟く。

 奏太はインターホンのモニターを見る。

 誰もいない。

 まただ。

「出ない方がいい」

 母親が言う。

「うん」

 ピンポーン。

 もう一度。

 そして、

 ピンポーン。

 三回目。

 奏太はモニターを見る。

 画面には玄関前が映っている。

 誰もいない。

 だが。

「……待って」

「どうしたの?」

 美月が近づく。

「これ」

 画面の一番下。

 ほんの少しだけ、

 黒い髪が映っている。

 誰かがカメラの真下に立っている。

「いる……」

 美月が奏太の服を掴む。

 奏太はインターホンの通話ボタンを押した。

「誰ですか」

 返事はない。

「誰だ!」

 ザーッ。

 ノイズ。

 そして。

『……僕』

 三人が凍りつく。

 奏太と同じ声だった。

「何しに来た」

『帰ってきた』

「ここは俺の家だ」

『知ってる』

「帰れ」

『どうして?』

「警察呼ぶぞ」

 少し沈黙。

 そして声が笑う。

『呼べば?』

「……」

『どっちを連れていくかな』

 ブツン。

 通話が切れた。

 美月が震えている。

 母親は顔面蒼白だった。

「奏太……」

「絶対開けるな」

 奏太は警察へ電話しようとスマートフォンを取り出す。

 その時。

 玄関から音。

 カチャ。

 鍵が回った。

「え?」

 内側のサムターンが、

 ゆっくり動いている。

 誰も触っていない。

「離れて!」

 奏太は二人を後ろへ下がらせる。

 カチャ。

 鍵が開いた。

「なんで……」

 ドアノブが下がる。

 扉が、

 ゆっくり開く。

 冷たい夜風が入り込む。

 玄関の外には――

 誰もいなかった。

「……いない」

 奏太は外を見る。

 住宅街は静かだった。

 街灯。

 道路。

 向かいの家。

 誰もいない。

 その時。

 母親が小さく言った。

「……おかえり」

 奏太は振り返る。

「母さん?」

 真由美は開いた玄関を見ていた。

「何言ってんの?」

「え?」

「今、おかえりって」

「私が?」

「そうだよ」

 母親は困った顔をする。

「言ってないわよ」

 奏太は何も言えなかった。

 ◇

 翌朝。

 八月二十六日。

 奏太はリビングのソファで目を覚ました。

 スマートフォンを見る。

 午前七時十八分。

 隣では美月が眠っている。

 母親の姿はない。

「……母さん?」

 キッチンから音がする。

 包丁。

 フライパン。

 朝食を作っているようだ。

「おはよう」

 奏太が声を掛ける。

「おはよう」

 母親はいつも通りだった。

「昨日……」

「何?」

「いや」

 奏太は言うのをやめた。

 テーブルを見る。

 そして。

 動きが止まった。

 皿が、

 四枚。

「母さん」

「何?」

「これ」

「朝ご飯?」

「なんで四人分?」

 真由美が奏太を見る。

「何言ってるの?」

 その瞬間。

 二階から足音が聞こえた。

 ギシッ。

 ギシッ。

 奏太の心臓が跳ねる。

 美月も目を覚ました。

「……何?」

 足音。

 誰かが階段を下りてくる。

 一段。

 一段。

「母さん」

「どうしたの?」

「誰かいる」

「誰かって?」

 真由美は笑った。

「お兄ちゃんでしょう?」

 奏太と美月が同時に母親を見る。

 階段から足が見える。

 制服のズボン。

 白いシャツ。

 ゆっくり下りてくる。

 そして。

 少年がリビングへ入ってきた。

「おはよう」

 奏太は息をすることすら忘れた。

 自分だった。

 顔。

 髪。

 身長。

 声。

 何もかも同じ。

 ただ一つ。

 左目の下に、

 小さなほくろがある。

「……」

 美月は震えている。

 母親だけが笑顔だった。

「遅いじゃない」

「ごめん、寝坊した」

 少年は自然に椅子へ座った。

「いただきます」

 トーストを手に取る。

 奏太は立ち尽くしたまま、その光景を見る。

「お前……」

 少年が奏太を見る。

「ん?」

「誰だ」

 少年は不思議そうな顔をする。

「何言ってるの?」

「名前を言え」

「桐谷奏太」

 母親が笑う。

「朝から何してるの、二人とも」

「二人ともって……!」

「奏太」

 母親が少し怒った顔をする。

「お兄ちゃんに失礼でしょう」

「俺がお兄ちゃんだろ!」

 真由美の表情が止まる。

「……え?」

「俺が奏太だ!」

 母親は少年を見る。

 奏太を見る。

 そして。

 申し訳なさそうに言った。

「ごめんなさい」

「……何が?」

「あなた」

 母親の声が震えた。

「誰だったかしら」

 世界から音が消えたように感じた。

「……母さん?」

 真由美は本当に分からない顔をしている。

「どうして私のことを母さんって呼ぶの?」

「やめろよ」

「ごめんなさい」

「母さん!」

 奏太が近づくと、真由美は一歩後ろへ下がった。

 その反応。

 知らない人間を警戒する母親の目。

「やめて」

 奏太の声が震える。

「俺だよ」

「……」

「奏太だよ!」

 母親は何も答えない。

「美月!」

 奏太は妹を見る。

「お前は分かるよな?」

 美月は震えていた。

「昨日一緒にいただろ!」

「……」

「窓の外の奴を見ただろ!」

「……うん」

「俺が兄ちゃんだろ?」

 美月は奏太を見る。

 そしてもう一人を見る。

 何度も見比べる。

「美月!」

 ようやく美月が口を開いた。

「分かんない……」

「何が?」

「どっちがお兄ちゃんか」

 奏太は言葉を失った。

 もう一人の奏太が立ち上がる。

「怖がらせるなよ」

「黙れ」

「美月、困ってるじゃん」

「お前が何したんだ!」

「何もしてない」

「俺の家族に何した!」

 少年は少し悲しそうな顔をした。

「俺の家族?」

 そして。

 笑った。

「それ、こっちの台詞だよ」

 奏太は拳を握る。

「お前は誰なんだ」

「何回言わせるんだよ」

 少年は奏太を真っ直ぐ見る。

「桐谷奏太」

「嘘だ!」

「じゃあ」

 少年は棚の引き出しを開けた。

 迷いがない。

 そこから一冊の古いアルバムを取り出す。

「これは?」

 奏太は知っている。

 家族のアルバム。

 少年が開く。

 幼稚園の入園式。

 運動会。

 七五三。

 小学校の入学式。

 どの写真にも、

 左目の下にほくろのある少年が写っている。

「嘘だ……」

「これも?」

 少年は次の写真。

 父親の病室。

 ベッドの横で父親の手を握る少年。

 奏太が覚えていなかった日。

「父さんが最後に言ったこと」

 少年が静かに言う。

「覚えてる?」

 奏太は答えられない。

「『奏太、美月を頼む』」

 昨日、壁の向こうから聞いた言葉。

「やめろ」

「病室は四〇七号室」

「やめろ」

「亡くなったのは午後六時二十二分」

「黙れ!」

「最後に握ってたのは右手」

「黙れ!!」

 少年は黙った。

 母親は涙を浮かべている。

「奏太……」

 真由美が少年へ近づく。

 その肩へ手を置く。

「覚えてたのね」

「忘れるわけないよ」

 その光景を見て、

 奏太は初めて恐怖とは違う感情を覚えた。

 自分の場所を、

 奪われている。

 ◇

 奏太は家を飛び出した。

 自転車へ乗る。

 向かう場所は一つしかなかった。

 莉子。

 莉子だけは自分を覚えている。

 スマートフォンで電話する。

 一回。

 二回。

 三回。

『もしもし?』

「莉子!」

『……はい?』

 奏太の体が固まる。

「俺」

『誰ですか?』

「……やめろよ」

『え?』

「奏太だよ」

 沈黙。

『桐谷……くん?』

「そう!」

 少し安心する。

『ごめんなさい』

 莉子が言った。

『桐谷くんって、誰ですか?』

 奏太は自転車を止めた。

「昨日一緒にいた!」

『昨日?』

「資料室!」

『何の話ですか?』

「写真見ただろ!」

『……すみません。人違いじゃないですか?』

「莉子!」

『怖いので切りますね』

「待って!」

 通話が切れた。

 奏太は道路の真ん中で動けなかった。

 母親。

 そして莉子。

 次々と自分を忘れていく。

「……あと五日」

 昨日届いたメッセージ。

 『次は家族です』

 その意味を、

 ようやく理解した。

 家族から自分の存在が消され始めている。

 奏太は学校へ向かった。

 ◇

 午前九時十二分。

 二年三組。

 教室へ入った瞬間。

 誰も奏太を見なかった。

 文化祭準備中の生徒たち。

 笑い声。

 音楽。

 いつもの教室。

「莉子」

 奏太が声を掛ける。

 莉子が振り返る。

「……はい?」

 本当に知らない顔。

「俺だよ」

「誰?」

 奏太は言葉を失う。

 その時。

 担任教師が入ってきた。

「おい、君」

 奏太を見る。

「どこのクラスだ?」

「……二年三組です」

「名前は?」

「桐谷奏太」

 教師が出席簿を見る。

「桐谷?」

 ページをめくる。

「いないぞ」

「そんなわけ……」

「クラス間違えてないか?」

「先生!」

 奏太は出席簿を奪うように見る。

 自分の名前がない。

 そして。

 一番下。

 昨日まではなかった名前が追加されている。

 桐谷奏太。

「あるじゃん!」

 奏太が指さす。

 教師が見る。

「ああ」

「ほら!」

「でも」

 教師は教室の奥を指した。

「桐谷なら、もう来てるぞ」

 奏太はゆっくり振り返った。

 自分の席。

 そこに、

 もう一人の奏太が座っていた。

 莉子と話している。

 莉子が笑う。

 その笑顔は、

 昨日まで奏太へ向けられていたものだった。

 もう一人の奏太がこちらを見る。

 目が合う。

 少年は誰にも見えないように、

 口だけを動かした。

 「あと五日」

 奏太のスマートフォンが震える。

 メッセージ。

 知らない番号。

 添付写真。

 教室の集合写真だった。

 今撮影されたものではない。

 去年の写真。

 昨日まで奏太が消えていた場所に、

 もう一人の奏太が立っている。

 そして写真の裏を撮影した二枚目。

 黒い文字。

 『交換は順調です』

 さらにもう一通。

 『でも、彼も本物ではありません』

「……え?」

 奏太は画面を見つめる。

 メッセージが続く。

 『本物の桐谷奏太を見つけてください』

 そして最後に、

 『残り五日』

 奏太は教室の奥にいる「もう一人の自分」を見る。

 少年は笑っている。

 家族は彼を奏太だと思っている。

 学校も彼を奏太だと思っている。

 写真も記録も、

 すべて彼が本物だと証明している。

 しかし。

 メッセージの送り主は言った。

 彼も本物ではない。

 では――

 本物の桐谷奏太は、

 どこにいる?

 その瞬間。

 奏太はあることに気づいた。

 教室後方。

 昨日まで何もなかった壁。

 そこに、

 一枚の扉がある。

 白い扉。

 誰も気にしていない。

 まるで昔からそこにあったように。

 扉には小さなプレート。

 奏太は近づく。

 そこに書かれていた文字を見て、

 息を止めた。

 『桐谷奏太 1』

 そして扉の向こうから、

 コン、コン。

 ノック。

 続いて、

 小さな少年の声。

「……やっと来た」

 奏太は動けなかった。

「待ってたよ」

 聞いたことのない声だった。

 そして。

「僕が」

 一拍。

 「最初の桐谷奏太だから」

 教室の時計が、

 午前九時十三分を指した。

 ――第五章「最初の奏太」へ続く。
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