その青は廻る
最後に残った男が重そうに腰を上げ、散らかったテーブルの上を片付けながら、埋もれていた履歴書を手にすると、こちらへ突き出すように渡してくる。
「持って帰って、処分できないから」と促したあと、忘れていたような素振りで、続けざまに携帯が返却された。
そこで、ようやく業務が終わったと深い息を吐き、用意していた質問をしようと、口を開きかけたとき。
「俺は初恋のこと、覚えてる。はっきりと」
片付け終えた男は、ポケットを探りながらこちらを眺めた。
『まぁ、そういう人もいますよね』と社交辞令で乗り切ろうと思ったが、昔話に花が咲きそうな気がして、愛想笑いを繕った。そうすれば、さすがに相手も気づくだろうと思った。
なのに、男は煙草を取り出しながら「俺が二十四歳のときだった」と続ける。だが、聞いたところで『はぁ……』と気の抜けた返事をするしかなく、どう切り抜けようか考えた。でも、それも無駄なようで、男はこちらに構わず続けた。
「その子、俺のこと大好きだって自信満々に言ってたのに、約束もしたのに、少し仕事が立て込んでる間に、消えた……」煙草の吸い口を爪の先で、ときおり軽く弾きながら、話し終えたかと思うと、不意にこちらに向いて「なぁんも言わずにな」と加えた。
男の顔は諦めたようで、不服そうな、どちらとも言えない表情だった。話の内容だけを見れば、よくあることだと言えるのかもしれない。けれど、今の状態ではそんなことを口にできるほどの関係ではない。だから、黙る選択しかなかった。
気まずい空気が漂い始めたとき、それを掻き消すように男が「なぁ」と呼びかけてくる。そこで窺うように男を見ると、彼は続けて言う。
「たまごちゃんは、ここでどんな仕事がしたい?」
そう問われ、考えてみたものの、すぐに躓いた。
『たまごちゃん……?』
その呼び名だけが、妙に耳に残った。確かに知っているけれど、誰に呼ばれていたのかが思い出せない。
目の前の男は穏やかな表情でこちらを見ている。けれど、回り始めた思考は、あらゆる記憶の引き出しを散らかしていた。
どこで、いつ、どんな会話をした……?
「答えられないか?」と言った男の低い声が、静かな個室内に響いて聞こえる。怒ってはいないし、急かしてもいない。なのに口を噤んでしまう。ただ、手掛かりを探していた。
『どこかでお会いしましたか?』なんて今の状況で言えるわけがない。どう考えても失礼だ。静かに頭を振ると、男は急に優しげな表情を見せて言う。
「じゃあ、違うことするか?例えばキスとか」
「はい?」
業務の選択肢に有り得ない言葉を耳にし、思わず聞き返したが、構わずに近づいてくる男を止める間もなく、距離を詰められる。
男はこちらを見つめたまま、煙草を片手に燻らし、もう片方はポケットに仕舞っている。
あの煙草の火が消えれば、その手が――。
そうなれば……。飲み込んだ唾の音が、耳にはっきり聞こえていた。
「持って帰って、処分できないから」と促したあと、忘れていたような素振りで、続けざまに携帯が返却された。
そこで、ようやく業務が終わったと深い息を吐き、用意していた質問をしようと、口を開きかけたとき。
「俺は初恋のこと、覚えてる。はっきりと」
片付け終えた男は、ポケットを探りながらこちらを眺めた。
『まぁ、そういう人もいますよね』と社交辞令で乗り切ろうと思ったが、昔話に花が咲きそうな気がして、愛想笑いを繕った。そうすれば、さすがに相手も気づくだろうと思った。
なのに、男は煙草を取り出しながら「俺が二十四歳のときだった」と続ける。だが、聞いたところで『はぁ……』と気の抜けた返事をするしかなく、どう切り抜けようか考えた。でも、それも無駄なようで、男はこちらに構わず続けた。
「その子、俺のこと大好きだって自信満々に言ってたのに、約束もしたのに、少し仕事が立て込んでる間に、消えた……」煙草の吸い口を爪の先で、ときおり軽く弾きながら、話し終えたかと思うと、不意にこちらに向いて「なぁんも言わずにな」と加えた。
男の顔は諦めたようで、不服そうな、どちらとも言えない表情だった。話の内容だけを見れば、よくあることだと言えるのかもしれない。けれど、今の状態ではそんなことを口にできるほどの関係ではない。だから、黙る選択しかなかった。
気まずい空気が漂い始めたとき、それを掻き消すように男が「なぁ」と呼びかけてくる。そこで窺うように男を見ると、彼は続けて言う。
「たまごちゃんは、ここでどんな仕事がしたい?」
そう問われ、考えてみたものの、すぐに躓いた。
『たまごちゃん……?』
その呼び名だけが、妙に耳に残った。確かに知っているけれど、誰に呼ばれていたのかが思い出せない。
目の前の男は穏やかな表情でこちらを見ている。けれど、回り始めた思考は、あらゆる記憶の引き出しを散らかしていた。
どこで、いつ、どんな会話をした……?
「答えられないか?」と言った男の低い声が、静かな個室内に響いて聞こえる。怒ってはいないし、急かしてもいない。なのに口を噤んでしまう。ただ、手掛かりを探していた。
『どこかでお会いしましたか?』なんて今の状況で言えるわけがない。どう考えても失礼だ。静かに頭を振ると、男は急に優しげな表情を見せて言う。
「じゃあ、違うことするか?例えばキスとか」
「はい?」
業務の選択肢に有り得ない言葉を耳にし、思わず聞き返したが、構わずに近づいてくる男を止める間もなく、距離を詰められる。
男はこちらを見つめたまま、煙草を片手に燻らし、もう片方はポケットに仕舞っている。
あの煙草の火が消えれば、その手が――。
そうなれば……。飲み込んだ唾の音が、耳にはっきり聞こえていた。