別府の湯けむり、君と50年の未来

50年の旅

 地獄温泉ミュージアムの中は、外の暑さを忘れるほど静かだった。

 雪と遥斗は、ゆっくりと展示を見て回っていた。

 雨水が大地に染み込み、長い年月をかけて地中を旅する。

 そして、やがて温泉となって地上へ湧き出してくる。

 映像の中で、水が暗い地層の奥へ進んでいく。

「雨が、こんなに長い旅をするんやね」

 雪が呟いた。

「うん」

 遥斗も画面を見つめる。

「五十年か……長いな」

 雪はしばらく黙っていた。

 そして、ぽつりと口を開いた。

「私たちも、似てるのかな」

「え?」

「今は離れてるけど……」

 雪は遥斗を見る。

「離れてる時間が、いつか何かに繋がるのかなって」

 遥斗は雪の言葉を聞き、少し考えた。

「繋がるよ」

「本当に?」

「ああ」

 遥斗はまっすぐ雪を見る。

「今は遠くても、俺は雪との約束を忘れない」

 雪の胸が、少しだけ熱くなる。

「……遥斗くん」

「五十年かかって温泉になるなら、俺たちの時間だって、焦らなくていい」

「うん……」

「離れちょる時間も、二人が強くなるための時間だと思えばいい」

 雪は、静かに頷いた。

 ミュージアムの展示が、次の映像へと切り替わる。

 暗かった画面に、少しずつ光が差し込んでいく。

 雪はその光を見ながら笑った。

「綺麗……」

「雪みたいだな」

「え?」

「暗いところから、ちゃんと光のところに出てくる」

「もう……何それ」

 雪は恥ずかしそうに笑った。

 けれど、その笑顔はとても嬉しそうだった。

     *

 ミュージアムを出ると、午後になっていた。

「そろそろ大分駅に行かないと」

 遥斗が言う。

 雪は小さく頷いた。

「うん……」

 楽しい時間が終わってしまう。

 それが分かっているから、雪は何度も振り返った。

 別府の湯煙。

 地獄の景色。

 昨日から歩いた道。

 全部、忘れたくなかった。

     *

 大分駅。

 鎌倉へ戻る電車の時間が近づいていた。

 ホームに立つ雪の手には、地獄温泉ミュージアムのパンフレット。

 その目には、涙が浮かんでいる。

「……帰りたくないな」

「雪……」

「また一年くらい、会えんのかな」

 雪の声が震える。

 遥斗は、雪の手にそっとパンフレットを握らせた。

「雪」

「……?」

「温泉は五十年かけて、ゆっくり温かいお湯になるんやって」

 雪は遥斗を見る。

「俺たちの距離も同じや」

「……」

「高校を卒業したら、今度は俺が鎌倉に雪を迎えに行く」

 遥斗の声は、まっすぐだった。

「だから、離れちょる時間は、二人がもっと強くなるための『地中の旅』やと思おう」

 雪の涙が頬を伝う。

「俺、絶対会いに行くけん」

 そして――

「待ってて」

 雪は涙を拭った。

 そして、精一杯笑った。

「うん……!」

 電車の発車時刻が近づく。

「私、五十年でも何年でも、鎌倉で遥斗くんのこと待っちょるけん!」

 遥斗は笑った。

「約束な」

「うん。約束!」

 汽笛が鳴る。

 雪は電車に乗り込む。

 ドアが閉まる直前、もう一度だけ遥斗を見る。

「遥斗くん!」

「ん?」

「絶対、迎えに来てね!」

「ああ!」

 電車がゆっくり動き出す。

 雪は窓越しに手を振った。

 遥斗も手を振り返す。

 やがて電車は遠ざかり、雪の姿が見えなくなる。

 遥斗は、最後までその場所に立っていた。

 手元には、雪が落としていった小さなスタンプラリーの台紙。

 そこには、二人で巡った地獄のスタンプが並んでいた。

 遥斗はそれを大切にしまう。

「……待ってて、雪」

 五十年という長い時間。

 それがどれほど長いのか、二人にはまだ分からない。

 けれど――

 あの日、別府で交わした約束だけは、二人の胸に残り続けていた。
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