別府の湯けむり、君と50年の未来

嬉しさのあまり

 結婚してから、また一年が過ぎた。

 ある日の朝。

 雪は、遥斗が出勤したあと、自分のお腹にそっと手を当てた。

 まだ小さな変化。

 けれど、雪には分かっていた。

「遥斗……」

 嬉しさで胸がいっぱいになる。

 そして、遥斗に電話をかけた。

「もしもし?」

『雪? どうした?』

「遥斗、あのね……」

 雪は少し照れながら伝えた。

「赤ちゃん、できたよ」

『……え?』

 電話の向こうが静かになる。

「私たちの赤ちゃん」

『本当に?』

「うん」

『雪、ありがとう!』

 遥斗の声が、電話越しでも分かるほど嬉しそうだった。

「今日は早く帰ってきてね」

『うん! できるだけ早く帰る!』

 そう言って電話を切った。

 雪は笑いながら、遥斗の帰りを待っていた。

     *

 ところが――。

 夕方になっても、遥斗は帰ってこなかった。

「今日は帰りが遅いのかな……」

 そのとき、電話が鳴った。

「はい、もしもし」

『雪さんですか?』

「はい」

『佐々木です。あの……』

 いつも明るい佐々木の声が、少し慌てている。

「どうしたんですか?」

『社長が怪我をされて、今、病院にいます』

「えっ……?」

 雪の顔から笑顔が消えた。

「遥斗が?」

『はい』

「どうして……?」

『それが……』

 佐々木は少し言いにくそうにしてから、答えた。

『笑わないでくださいね』

「笑う?」

『社長、雪さんから赤ちゃんができたって聞いたじゃないですか』

「はい……」

『それが嬉しくて、社員みんなに報告して回ってたんです』

「……遥斗らしい」

『それで、嬉しそうに階段を上っていたら……』

「まさか」

『足を踏み外してしまって』

「……もう!」

 雪は思わず苦笑した。

 心配なのに、遥斗らしすぎて笑ってしまう。

「怪我は大丈夫なんですか?」

『幸い、大きな怪我ではないみたいです。でも念のため病院で診てもらっています』

「分かりました。今から行きます!」

 雪は急いで準備をした。

 お腹に手を当てる。

「パパ、何してるんだろうね……」

 少し笑いながら、でも心配で胸がいっぱいになる。

「赤ちゃんができたって聞いて、嬉しくて転ぶなんて……」

 雪は急いで病院へ向かった。

     *

 病院に着くと、受付で遥斗の名前を伝える。

 そして、案内された病室の扉を開けた。

「遥斗!」

「雪……」

 ベッドの上に遥斗がいた。

「大丈夫?」

「ああ。大丈夫」

 遥斗は申し訳なさそうに笑った。

「ごめん」

「もう……」

 雪は遥斗のそばまで行く。

「赤ちゃんできたって聞いて、階段から落ちる人いる?」

「嬉しくて……」

「もう!」

 雪は怒ったような顔をしながらも、目には涙が浮かんでいた。

 遥斗はそんな雪を見て、優しく笑う。

「雪」

「なに?」

「俺たち、父親と母親になるんだな」

 雪はお腹に手を当てた。

「うん」

「……嬉しいな」

「うん。私も」

 二人は顔を見合わせる。

 これから、二人だけだった人生に――。

 小さな新しい命が加わる。

 その未来を思うと、雪の胸は温かくなった。
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