改札も通れない完璧令嬢に、庶民高校生の俺が普通の放課後を教えます
第十一話 食事処ささおかの危機
噂の出所を追う調査を進めていた矢先、新たな問題が起きた。
ある朝、店を開けようとした父さんが険しい顔でスマートフォンを見つめていた。厨房に立つ前の、まだ暖簾も出していない時間帯だった。
「父さん、どうしたの?」
「これ、見てみろ」
差し出された画面には地域の口コミサイトに投稿された匿名の書き込みが表示されていた。
『食事処ささおか、厨房の衛生管理がずさん。食材の管理も雑で、食中毒が心配』
事実無根の内容だった。うちの厨房は父さんが毎日欠かさず清掃し、食材の管理も徹底している。子供の頃から何度も見てきた父さんの仕事ぶりを思い出せば、この文章の一言一句が的外れだと分かる。だが匿名の書き込みというのは真偽に関係なく広まってしまうものらしい。
「まさか、これ」
「分からん。だが、タイミングが良すぎる」
父さんの声には、珍しく苛立ちが滲んでいた。
その日から店には目に見える変化が現れ始めた。予約のキャンセルが相次ぎ常連客の足も少しずつ遠のいていく。追い打ちをかけるように店の電話には無言の嫌がらせや心無い言葉を投げつける電話までかかってくるようになった。受話器を置くたびに、母さんの表情が少しずつ疲れていくのが分かった。
「食事処ささおか、まだやってるの?」
母さんが電話を切ったあと、疲れた顔でつぶやいた言葉に俺は胸が締めつけられる思いだった。
☆
そんなことが続いていたある日の夕方、店のことを知った玲華から何度か連絡が来ていた。けれど俺は、何と返せばいいのか分からないまま、メッセージを開いては閉じることを繰り返していた。
「俺のせいだ」
夜、店の片付けをしながら俺は誰にともなく呟いていた。閉店後の店内は静まり返っていて、自分の声だけがやけに響いた。
「玲華と関わったせいで、噂が広まって、店にまで被害が出てる」
「陽翔」
声に振り向くと、裏口に玲華が立っていた。
「いつからそこに」
「今、来たところです。……お店のこと、聞きました」
玲華の表情には明らかな怒りと自責の念が浮かんでいた。街灯の明かりに照らされたその顔は、いつもより青白く見えた。
「これは、私の責任です。鷹司グループの力を使えば、この投稿を削除させることも、店への支援を行うことも、簡単にできます」
「玲華」
「ですが」
玲華は珍しく言葉を選ぶように間を置いた。
「それをすれば、噂を事実であるかのように見せてしまう危険があります。財力で解決したという事実が、『やはり陽翔は鷹司家の力を利用している』という噂を、かえって裏づけてしまいます」
その冷静な判断に、俺は歯がゆさを感じずにはいられなかった。頭では正しいと分かっていても、目の前で店の信用が削られていく様子を見ていると、感情が追いつかなかった。
「じゃあ、どうすればいいんですか。このまま店が潰れるのを見てろって言うんですか」
「いいえ」
玲華ははっきりと首を振った。
「事実を積み上げて、噂の矛盾を明らかにします。力ではなく、証拠で」
その日から玲華は連日、この店に通うようになった。学園の生徒会長という立場を隠さず堂々と店に来ては衛生管理の記録や仕入れ先の伝票を一つずつ確認していく。制服姿のまま伝票の束と向き合う姿は、まるで会計士のように真剣だった。
「父さん、お店の衛生管理記録、見せてもらえますか」
父さんは戸惑いながらも日々つけている清掃記録や保健所の検査結果を見せた。玲華はそれを丁寧に読み込み、書き込まれた内容と実際の記録との矛盾を洗い出していく。
「この投稿には『先週、厨房で異臭がした』と書かれていますが、記録によれば、その日は店を臨時休業しています」
「本当だ」
「投稿者は、実際に店に来ていない可能性が高いです」
玲華はさらに店の防犯カメラの映像も確認させてもらい、投稿にあった日時と実際の店の様子を照らし合わせていった。矛盾は一つまた一つと見つかっていく。画面を見つめる玲華の眼差しには、これまで見たどの場面よりも鋭い集中力が宿っていた。
一方で俺も自分にできることを探していた。商店街の顔なじみに事情を説明し、店の実態を知る人々に協力を頼んで回った。頭を下げて回るうちに、これまで気づかなかった商店街の温かさを、改めて実感することになった。
「ささおかの店が、そんなずさんなわけないだろ。俺が保証するよ」
八百屋の店主がそう言って声を上げてくれた。他の店の人々も次々と店の信用を証言してくれる。俺は自分の言葉で家族が積み上げてきた信用を守ろうとしていた。
「陽翔、この調子です。事実は、必ず積み重なります」
調査を進めるうちに、玲華と美桜は書き込みが投稿されたアカウントの動きを丹念に追っていった。すると、そのアカウントと似た書き込みのパターンが以前にも別の場所で使われていたことが分かった。
「これ、透子先輩の周辺にいる生徒のアカウントっぽい」
美桜が調べ上げた情報を前に、玲華は険しい表情を浮かべた。
「……透子の周辺人物、ですか」
「うん。ただ、透子先輩自身が直接指示したっていう証拠は、今のところ出てきてない」
「そうですか」
「噂を広めるきっかけを作ったのは透子先輩。でも、店への書き込みまで指示したのか、それとも周りの生徒が勝手にやったのかは、まだ分からない」
玲華はしばらく黙り込んだあと穏やかに、しかし確固たる意志を持って口を開いた。
「なら、そこは分けて考えるべきですね。透子がしたことと、周囲の生徒がしたことを、一緒にはできません。証拠が不十分な状態で、透子を一方的に糾弾するのは、私たちがやろうとしていることと矛盾します」
「じゃあ、どうするんですか」
「透子と、正面から話します」
その言葉にはこれまでとは違う覚悟が滲んでいた。
☆
数日後、店の口コミサイトには玲華と父さんが集めた記録に基づく反論と、実際の営業実態を示す証拠が店の名前で丁寧に投稿された。感情的な反論ではなく事実だけを淡々と積み上げた内容だった。
それを見た常連客たちが次々と好意的なコメントを寄せてくれるようになる。
「ささおかの生姜焼き、何年も食べてるけど一度もお腹壊したことないよ」
「衛生管理、むしろ丁寧な店だと思う」
少しずつ、確実に店の信用は回復し始めていた。母さんが久しぶりに笑顔を見せた日、俺は密かに胸を撫で下ろした。
「陽翔のお父さん」
ある日、店に来た玲華がカウンターの奥にいる父さんに声をかけた。
「今回のこと、私が陽翔と親しくしたことが原因の一端にあります。申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げる玲華に父さんはいつもの無口な調子でただ一言返した。
「玲華ちゃん。冷める前に食べな」
そう言って、いつもの定食を玲華の前にそっと置いた。少しだけご飯が少なめだった。疲れている玲華が無理なく食べられる量にしたのだと、俺には分かった。
湯気が立ちのぼる定食を前に、玲華はしばらく動けずにいた。
謝罪の言葉を待っていた玲華は一瞬戸惑ったように父さんを見つめた。
「……いただきます」
小さな声でそう言うと玲華は箸を手に取った。責めるでもなく許すでもなくただいつも通りに客として迎え入れる。それが笹岡家なりの答えだった。箸を持つ手が少しだけ震えていたのを、俺は見なかったふりをした。
店の危機は少しずつ収束へ向かっていた。だが噂の根本にある透子との対峙はまだこれからだった。
ある朝、店を開けようとした父さんが険しい顔でスマートフォンを見つめていた。厨房に立つ前の、まだ暖簾も出していない時間帯だった。
「父さん、どうしたの?」
「これ、見てみろ」
差し出された画面には地域の口コミサイトに投稿された匿名の書き込みが表示されていた。
『食事処ささおか、厨房の衛生管理がずさん。食材の管理も雑で、食中毒が心配』
事実無根の内容だった。うちの厨房は父さんが毎日欠かさず清掃し、食材の管理も徹底している。子供の頃から何度も見てきた父さんの仕事ぶりを思い出せば、この文章の一言一句が的外れだと分かる。だが匿名の書き込みというのは真偽に関係なく広まってしまうものらしい。
「まさか、これ」
「分からん。だが、タイミングが良すぎる」
父さんの声には、珍しく苛立ちが滲んでいた。
その日から店には目に見える変化が現れ始めた。予約のキャンセルが相次ぎ常連客の足も少しずつ遠のいていく。追い打ちをかけるように店の電話には無言の嫌がらせや心無い言葉を投げつける電話までかかってくるようになった。受話器を置くたびに、母さんの表情が少しずつ疲れていくのが分かった。
「食事処ささおか、まだやってるの?」
母さんが電話を切ったあと、疲れた顔でつぶやいた言葉に俺は胸が締めつけられる思いだった。
☆
そんなことが続いていたある日の夕方、店のことを知った玲華から何度か連絡が来ていた。けれど俺は、何と返せばいいのか分からないまま、メッセージを開いては閉じることを繰り返していた。
「俺のせいだ」
夜、店の片付けをしながら俺は誰にともなく呟いていた。閉店後の店内は静まり返っていて、自分の声だけがやけに響いた。
「玲華と関わったせいで、噂が広まって、店にまで被害が出てる」
「陽翔」
声に振り向くと、裏口に玲華が立っていた。
「いつからそこに」
「今、来たところです。……お店のこと、聞きました」
玲華の表情には明らかな怒りと自責の念が浮かんでいた。街灯の明かりに照らされたその顔は、いつもより青白く見えた。
「これは、私の責任です。鷹司グループの力を使えば、この投稿を削除させることも、店への支援を行うことも、簡単にできます」
「玲華」
「ですが」
玲華は珍しく言葉を選ぶように間を置いた。
「それをすれば、噂を事実であるかのように見せてしまう危険があります。財力で解決したという事実が、『やはり陽翔は鷹司家の力を利用している』という噂を、かえって裏づけてしまいます」
その冷静な判断に、俺は歯がゆさを感じずにはいられなかった。頭では正しいと分かっていても、目の前で店の信用が削られていく様子を見ていると、感情が追いつかなかった。
「じゃあ、どうすればいいんですか。このまま店が潰れるのを見てろって言うんですか」
「いいえ」
玲華ははっきりと首を振った。
「事実を積み上げて、噂の矛盾を明らかにします。力ではなく、証拠で」
その日から玲華は連日、この店に通うようになった。学園の生徒会長という立場を隠さず堂々と店に来ては衛生管理の記録や仕入れ先の伝票を一つずつ確認していく。制服姿のまま伝票の束と向き合う姿は、まるで会計士のように真剣だった。
「父さん、お店の衛生管理記録、見せてもらえますか」
父さんは戸惑いながらも日々つけている清掃記録や保健所の検査結果を見せた。玲華はそれを丁寧に読み込み、書き込まれた内容と実際の記録との矛盾を洗い出していく。
「この投稿には『先週、厨房で異臭がした』と書かれていますが、記録によれば、その日は店を臨時休業しています」
「本当だ」
「投稿者は、実際に店に来ていない可能性が高いです」
玲華はさらに店の防犯カメラの映像も確認させてもらい、投稿にあった日時と実際の店の様子を照らし合わせていった。矛盾は一つまた一つと見つかっていく。画面を見つめる玲華の眼差しには、これまで見たどの場面よりも鋭い集中力が宿っていた。
一方で俺も自分にできることを探していた。商店街の顔なじみに事情を説明し、店の実態を知る人々に協力を頼んで回った。頭を下げて回るうちに、これまで気づかなかった商店街の温かさを、改めて実感することになった。
「ささおかの店が、そんなずさんなわけないだろ。俺が保証するよ」
八百屋の店主がそう言って声を上げてくれた。他の店の人々も次々と店の信用を証言してくれる。俺は自分の言葉で家族が積み上げてきた信用を守ろうとしていた。
「陽翔、この調子です。事実は、必ず積み重なります」
調査を進めるうちに、玲華と美桜は書き込みが投稿されたアカウントの動きを丹念に追っていった。すると、そのアカウントと似た書き込みのパターンが以前にも別の場所で使われていたことが分かった。
「これ、透子先輩の周辺にいる生徒のアカウントっぽい」
美桜が調べ上げた情報を前に、玲華は険しい表情を浮かべた。
「……透子の周辺人物、ですか」
「うん。ただ、透子先輩自身が直接指示したっていう証拠は、今のところ出てきてない」
「そうですか」
「噂を広めるきっかけを作ったのは透子先輩。でも、店への書き込みまで指示したのか、それとも周りの生徒が勝手にやったのかは、まだ分からない」
玲華はしばらく黙り込んだあと穏やかに、しかし確固たる意志を持って口を開いた。
「なら、そこは分けて考えるべきですね。透子がしたことと、周囲の生徒がしたことを、一緒にはできません。証拠が不十分な状態で、透子を一方的に糾弾するのは、私たちがやろうとしていることと矛盾します」
「じゃあ、どうするんですか」
「透子と、正面から話します」
その言葉にはこれまでとは違う覚悟が滲んでいた。
☆
数日後、店の口コミサイトには玲華と父さんが集めた記録に基づく反論と、実際の営業実態を示す証拠が店の名前で丁寧に投稿された。感情的な反論ではなく事実だけを淡々と積み上げた内容だった。
それを見た常連客たちが次々と好意的なコメントを寄せてくれるようになる。
「ささおかの生姜焼き、何年も食べてるけど一度もお腹壊したことないよ」
「衛生管理、むしろ丁寧な店だと思う」
少しずつ、確実に店の信用は回復し始めていた。母さんが久しぶりに笑顔を見せた日、俺は密かに胸を撫で下ろした。
「陽翔のお父さん」
ある日、店に来た玲華がカウンターの奥にいる父さんに声をかけた。
「今回のこと、私が陽翔と親しくしたことが原因の一端にあります。申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げる玲華に父さんはいつもの無口な調子でただ一言返した。
「玲華ちゃん。冷める前に食べな」
そう言って、いつもの定食を玲華の前にそっと置いた。少しだけご飯が少なめだった。疲れている玲華が無理なく食べられる量にしたのだと、俺には分かった。
湯気が立ちのぼる定食を前に、玲華はしばらく動けずにいた。
謝罪の言葉を待っていた玲華は一瞬戸惑ったように父さんを見つめた。
「……いただきます」
小さな声でそう言うと玲華は箸を手に取った。責めるでもなく許すでもなくただいつも通りに客として迎え入れる。それが笹岡家なりの答えだった。箸を持つ手が少しだけ震えていたのを、俺は見なかったふりをした。
店の危機は少しずつ収束へ向かっていた。だが噂の根本にある透子との対峙はまだこれからだった。