改札も通れない完璧令嬢に、庶民高校生の俺が普通の放課後を教えます
第十二話 私の人生を決めるのは、私です
放課後の生徒会室に西園寺透子が呼び出されたのは、店の危機が落ち着き始めた頃だった。窓の外は夕暮れに差し掛かり、生徒会室の中は橙色の光でゆっくりと満たされ始めていた。
艶やかな長い髪をなびかせ、上品な微笑みを浮かべながら現れた透子は、玲華の向かいの椅子に優雅な仕草で腰を下ろした。その所作の一つ一つには、誰かに見られることを前提とした洗練が滲んでいた。
「玲華さんが、私に話とは。珍しいこともあるものですね」
「単刀直入に申し上げます。学園内で広まった噂について、あなたがどこまで関わっていたのか。そして、その噂が定食屋への嫌がらせにまで発展した経緯について、お伺いしたいことがあります」
玲華の声には微塵の揺らぎもなかった。机の上に手を重ねたその姿勢は、生徒会の重要な議案を審議するときと変わらない、いつもの落ち着きを保っていた。
透子は柔らかな笑みを崩さないまま穏やかに首を傾げた。
「私が店への書き込みを命じたとでも?」
「そこまでは言っていません。現時点で、その証拠はありません。噂を広めた生徒のアカウントと、あなたの周辺にいる人物のアカウントに、共通点が見つかりました」
「あら、それは異なことを。私自身が何かを投稿した証拠でも?」
その問いに玲華は言葉を詰まらせた。窓の外から差し込む夕日が、二人の間に落ちる影を長く伸ばしていた。
美桜が調べ上げた情報でも、透子自身が直接命じたという確たる証拠までは見つかっていない。透子はそれを見越した上で余裕を崩さずにいるのだろう。
「玲華さんと笹岡さんの関係について、周囲に懸念を伝えたことは認めます。ですが、店への嫌がらせを命じた覚えはありません」
透子はそう言うと穏やかに続けた。
「玲華さん。私は、あなたのためを思って言っています」
「私のため、ですか」
「鷹司家の後継者であるあなたが、庶民の男子に入れ込んでいる。それが世間に知れれば、あなた自身だけでなく、一族全体が傷つきます」
透子の口調はあくまで穏やかだった。だがその言葉の一つ一つには確固たる価値観が滲んでいた。優しく諭すような声色でありながら、そこに込められた考え方は、決して玲華に譲る気のないものだった。
「笹岡さんを遠ざけることこそ、玲華さんのためになると、私は本気で思っています」
その言葉を聞いた瞬間、玲華の中で何かが動いた。表情には出さなかったが、指先がわずかに机の上で強張った。
それはかつて、自分自身が陽翔に対して使いかけた言葉と同じ響きを持っていた。
玲華はそっと息を吸い込んだ。夕日に照らされたその横顔には、迷いを振り切ろうとする確かな意志が浮かんでいた。
「透子先輩」
「何でしょう」
「私の幸せを、あなたが決めないでください」
その一言は、穏やかでありながら部屋の空気を確かに震わせた。
「私が誰と一緒にいるかは、私自身が決めることです。それが後継者としての自覚が足りないというなら、その評価は甘んじて受けます。ですが、私の人生の選択を、他人に委ねるつもりはありません」
透子の余裕のある表情に初めて小さな翳りが差した。整えられた微笑みの奥に、隠しきれない動揺が滲み出していた。
「……玲華さんが、そこまで頑ななお方だとは、思いませんでした」
「頑ななのではありません。ただ、これは私自身の問題です」
玲華はさらに続けた。
「今回の嫌がらせに関わった生徒たちについては、一方的に追放するつもりはありません。事実を公表し、正式な処分は学校に委ねます」
その判断には力で押し潰すのではなく、正しい手順で解決しようとする玲華の一貫した姿勢があった。
透子はしばらく沈黙したあと、ゆっくりと立ち上がった。椅子を引く音が、静まり返った生徒会室に小さく響いた。
「……今日のところは、失礼します」
それ以上多くを語ることなく透子は生徒会室を後にした。扉が静かに閉まる音を最後に、部屋には玲華一人が残された。
事件は少しずつ解決に向かい始めていた。
透子が身分差を理由に二人の関係への疑念を周囲へ広めていたこと、また、それを受けて一部の生徒が事実無根の噂や店への嫌がらせを行っていたことが、学校側にも確認され関わった生徒たちへの正式な指導も進められることになった。
だが玲華にとっての試練は、それだけでは終わらなかった。
透子自身については、店への虚偽投稿を直接指示した証拠はなく、その点について責任を問われることはなかった。ただし、生徒間の対立を煽るような言動については学校から厳重な注意を受けた。
その日の夜、玲華は父・鷹司政一郎に呼び出された。
五十代ほど。端正な顔立ちに、きっちり撫でつけた黒髪。玲華とよく似た目元だけが、父娘であることをはっきりと感じさせた。
自宅の書斎で対面した父の表情はいつになく厳しかった。重厚な木製の机の向こうに座る政一郎の眼差しは、これまで玲華が見てきたどの表情よりも冷たく、揺るぎないものだった。
「玲華。お前が、庶民の男子と親しくしていることは知っている」
「……はい」
「これ以上、その交流を続けるなら、お前を学園から転校させ、予定より早く海外へ送ることにする」
その言葉には有無を言わさぬ重みがあった。書斎の空気が、一段と重くなった気がした。
「お父様」
玲華はこれまでにない強さで父の目を見つめ返した。膝の上に置いた両手を、そっと握りしめていた。
「お父様は、私が不幸になると思っているのですか」
「私は、お前が後悔する道を選ばせたくないだけだ」
「私は、陽翔さんとの関係を、簡単に諦めるつもりはありません」
「玲華」
「彼は、私の財産や立場を求めていません。ただ、私自身を、一人の人間として見てくれています」
政一郎は娘のその言葉をしばらく黙って聞いていた。書斎の壁掛け時計の秒針の音だけが、二人の間に流れる沈黙を刻んでいた。
「お前は、鷹司家を継ぐ立場だということを、忘れていないだろうな」
「忘れていません。ですが、私の人生のすべてを、お父様の判断だけで決められるのは、納得できません」
これまで父に真っ向から反論したことのなかった玲華にとって、それは大きな一歩だった。だが、その声は隠しきれないほど震えていた。それでも玲華は、視線を逸らすことなく父を見つめ続けていた。
政一郎はしばらく厳しい沈黙を保ったあと、穏やかに告げた。
「話は以上だ。お前の考えは分かった。だが、私の決定が変わるわけではない」
それだけ言うと政一郎は書斎を後にした。扉が閉まる重い音が、玲華の胸にそのまま響いた。
一人残された玲華は、震える手を握りしめたまましばらくその場から動けなかった。窓の外にはすっかり暗くなった庭が広がり、月明かりだけが静かに書斎を照らしていた。
これまでどんな困難にも動じず冷静に対処してきた玲華にとって、長年積み重ねてきた「良い娘」としての振る舞いを、初めて自分の意志で崩した瞬間だった。
☆
翌日、学園に現れた玲華はいつも通りの完璧な生徒会長の姿を保っていた。制服の乱れひとつなく、いつもと変わらぬ姿勢で廊下を歩いていた。だが、その表情の奥に隠しきれない疲労と不安が滲んでいることに俺は気づいていた。
「玲華、大丈夫ですか?」
「……大丈夫です」
その返事はいつもより、ほんの少しだけ力ないものに聞こえた。窓から差し込む朝の光の中でも、その声だけはどこか色褪せて見えた。
透子との対峙には勝った。だが玲華の前にはもっと大きな壁――父・政一郎という存在が依然として立ちはだかっていた。
艶やかな長い髪をなびかせ、上品な微笑みを浮かべながら現れた透子は、玲華の向かいの椅子に優雅な仕草で腰を下ろした。その所作の一つ一つには、誰かに見られることを前提とした洗練が滲んでいた。
「玲華さんが、私に話とは。珍しいこともあるものですね」
「単刀直入に申し上げます。学園内で広まった噂について、あなたがどこまで関わっていたのか。そして、その噂が定食屋への嫌がらせにまで発展した経緯について、お伺いしたいことがあります」
玲華の声には微塵の揺らぎもなかった。机の上に手を重ねたその姿勢は、生徒会の重要な議案を審議するときと変わらない、いつもの落ち着きを保っていた。
透子は柔らかな笑みを崩さないまま穏やかに首を傾げた。
「私が店への書き込みを命じたとでも?」
「そこまでは言っていません。現時点で、その証拠はありません。噂を広めた生徒のアカウントと、あなたの周辺にいる人物のアカウントに、共通点が見つかりました」
「あら、それは異なことを。私自身が何かを投稿した証拠でも?」
その問いに玲華は言葉を詰まらせた。窓の外から差し込む夕日が、二人の間に落ちる影を長く伸ばしていた。
美桜が調べ上げた情報でも、透子自身が直接命じたという確たる証拠までは見つかっていない。透子はそれを見越した上で余裕を崩さずにいるのだろう。
「玲華さんと笹岡さんの関係について、周囲に懸念を伝えたことは認めます。ですが、店への嫌がらせを命じた覚えはありません」
透子はそう言うと穏やかに続けた。
「玲華さん。私は、あなたのためを思って言っています」
「私のため、ですか」
「鷹司家の後継者であるあなたが、庶民の男子に入れ込んでいる。それが世間に知れれば、あなた自身だけでなく、一族全体が傷つきます」
透子の口調はあくまで穏やかだった。だがその言葉の一つ一つには確固たる価値観が滲んでいた。優しく諭すような声色でありながら、そこに込められた考え方は、決して玲華に譲る気のないものだった。
「笹岡さんを遠ざけることこそ、玲華さんのためになると、私は本気で思っています」
その言葉を聞いた瞬間、玲華の中で何かが動いた。表情には出さなかったが、指先がわずかに机の上で強張った。
それはかつて、自分自身が陽翔に対して使いかけた言葉と同じ響きを持っていた。
玲華はそっと息を吸い込んだ。夕日に照らされたその横顔には、迷いを振り切ろうとする確かな意志が浮かんでいた。
「透子先輩」
「何でしょう」
「私の幸せを、あなたが決めないでください」
その一言は、穏やかでありながら部屋の空気を確かに震わせた。
「私が誰と一緒にいるかは、私自身が決めることです。それが後継者としての自覚が足りないというなら、その評価は甘んじて受けます。ですが、私の人生の選択を、他人に委ねるつもりはありません」
透子の余裕のある表情に初めて小さな翳りが差した。整えられた微笑みの奥に、隠しきれない動揺が滲み出していた。
「……玲華さんが、そこまで頑ななお方だとは、思いませんでした」
「頑ななのではありません。ただ、これは私自身の問題です」
玲華はさらに続けた。
「今回の嫌がらせに関わった生徒たちについては、一方的に追放するつもりはありません。事実を公表し、正式な処分は学校に委ねます」
その判断には力で押し潰すのではなく、正しい手順で解決しようとする玲華の一貫した姿勢があった。
透子はしばらく沈黙したあと、ゆっくりと立ち上がった。椅子を引く音が、静まり返った生徒会室に小さく響いた。
「……今日のところは、失礼します」
それ以上多くを語ることなく透子は生徒会室を後にした。扉が静かに閉まる音を最後に、部屋には玲華一人が残された。
事件は少しずつ解決に向かい始めていた。
透子が身分差を理由に二人の関係への疑念を周囲へ広めていたこと、また、それを受けて一部の生徒が事実無根の噂や店への嫌がらせを行っていたことが、学校側にも確認され関わった生徒たちへの正式な指導も進められることになった。
だが玲華にとっての試練は、それだけでは終わらなかった。
透子自身については、店への虚偽投稿を直接指示した証拠はなく、その点について責任を問われることはなかった。ただし、生徒間の対立を煽るような言動については学校から厳重な注意を受けた。
その日の夜、玲華は父・鷹司政一郎に呼び出された。
五十代ほど。端正な顔立ちに、きっちり撫でつけた黒髪。玲華とよく似た目元だけが、父娘であることをはっきりと感じさせた。
自宅の書斎で対面した父の表情はいつになく厳しかった。重厚な木製の机の向こうに座る政一郎の眼差しは、これまで玲華が見てきたどの表情よりも冷たく、揺るぎないものだった。
「玲華。お前が、庶民の男子と親しくしていることは知っている」
「……はい」
「これ以上、その交流を続けるなら、お前を学園から転校させ、予定より早く海外へ送ることにする」
その言葉には有無を言わさぬ重みがあった。書斎の空気が、一段と重くなった気がした。
「お父様」
玲華はこれまでにない強さで父の目を見つめ返した。膝の上に置いた両手を、そっと握りしめていた。
「お父様は、私が不幸になると思っているのですか」
「私は、お前が後悔する道を選ばせたくないだけだ」
「私は、陽翔さんとの関係を、簡単に諦めるつもりはありません」
「玲華」
「彼は、私の財産や立場を求めていません。ただ、私自身を、一人の人間として見てくれています」
政一郎は娘のその言葉をしばらく黙って聞いていた。書斎の壁掛け時計の秒針の音だけが、二人の間に流れる沈黙を刻んでいた。
「お前は、鷹司家を継ぐ立場だということを、忘れていないだろうな」
「忘れていません。ですが、私の人生のすべてを、お父様の判断だけで決められるのは、納得できません」
これまで父に真っ向から反論したことのなかった玲華にとって、それは大きな一歩だった。だが、その声は隠しきれないほど震えていた。それでも玲華は、視線を逸らすことなく父を見つめ続けていた。
政一郎はしばらく厳しい沈黙を保ったあと、穏やかに告げた。
「話は以上だ。お前の考えは分かった。だが、私の決定が変わるわけではない」
それだけ言うと政一郎は書斎を後にした。扉が閉まる重い音が、玲華の胸にそのまま響いた。
一人残された玲華は、震える手を握りしめたまましばらくその場から動けなかった。窓の外にはすっかり暗くなった庭が広がり、月明かりだけが静かに書斎を照らしていた。
これまでどんな困難にも動じず冷静に対処してきた玲華にとって、長年積み重ねてきた「良い娘」としての振る舞いを、初めて自分の意志で崩した瞬間だった。
☆
翌日、学園に現れた玲華はいつも通りの完璧な生徒会長の姿を保っていた。制服の乱れひとつなく、いつもと変わらぬ姿勢で廊下を歩いていた。だが、その表情の奥に隠しきれない疲労と不安が滲んでいることに俺は気づいていた。
「玲華、大丈夫ですか?」
「……大丈夫です」
その返事はいつもより、ほんの少しだけ力ないものに聞こえた。窓から差し込む朝の光の中でも、その声だけはどこか色褪せて見えた。
透子との対峙には勝った。だが玲華の前にはもっと大きな壁――父・政一郎という存在が依然として立ちはだかっていた。