改札も通れない完璧令嬢に、庶民高校生の俺が普通の放課後を教えます

第十三話 完璧な玲華が壊れる日

 父との対峙以来、玲華の様子は傍から見れば以前と変わらないように見えた。
 だが俺には分かった。玲華はこれまで以上に自分を追い込み始めていた。
 学業ではこれまで以上の完璧な成績を維持しようとしていた。生徒会の仕事も自ら進んで業務量を増やしているようだった。さらに後継者教育の一環である語学や経営学の課題にも深夜まで取り組んでいるらしいという話を美桜から聞いた。放課後の教室に残って一人黙々と参考書を開いている姿を、俺自身も何度か見かけていた。

「玲華、大丈夫かな」
 放課後、美桜が心配そうに俺に言った。夕暮れの廊下に、二人の足音だけが響いていた。
「最近、休憩時間もずっと勉強してる。前より、根詰めてる感じがする」
「……父親のことがあってからですよね」
「たぶんね。弱みを見せたら、笹岡くんとの関係を否定される。玲華、そう思い込んでるんだと思う」
 美桜の言葉を聞いて、俺は嫌な予感がした。

           ☆

 その予感は数日後、最悪の形で的中することになった。
 生徒会の定例会議の最中、書類を読み上げていた玲華が突然言葉を途切れさせた。
「……鷹司、会長?」
 役員の一人が声をかけた次の瞬間、玲華の体が力なく崩れ落ちた。
 会議室は騒然となった。すぐに保健室の先生が呼ばれ救急車の手配がなされる。
 俺がその知らせを聞いたのは、放課後、教室で帰り支度をしていた矢先だった。
「玲華が、倒れた……?」
 青ざめた顔で駆け込んできた颯太から話を聞いた瞬間、俺は鞄も置いたまま教室を飛び出していた。頭の中が真っ白になり、ただ足だけが勝手に病院へ向かっていた。
         ☆
 病院に着くと玲華はすでに個室に移されていた。過労と栄養不足による一時的な意識喪失と医師から説明を受ける。命に別状はないが、しばらくの安静が必要だという。その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた何かが一気に緩み、代わりに底知れない不安が胸に押し寄せてきた。
 俺は病室の前まで駆けつけたが、看護師に「今は面会謝絶です」と告げられた。
「どうしてですか、少しだけでも」
「ご本人が、誰にも会いたくないとおっしゃっていて」
 その言葉に俺は言葉を失った。廊下の白い壁が、やけに冷たく見えた。
 誰にも会いたくない。それはきっと俺も含まれているということだった。
 美桜からあとで聞いた話では、玲華は目を覚ました直後、自分が倒れたことをひどく恥じていたという。
「完璧でない姿を、誰にも見せたくないって、そればっかり言ってた」
 その言葉を聞いて俺はいてもたってもいられなくなった。
              ☆
 翌日、俺はもう一度病院へ足を運んだ。看護師に頼み込み、せめて病室の外からでもいいからと何とか許可をもらう。廊下の長椅子に座って何時間でも待つつもりだったが、思ったより早く許可が下りた。
 閉ざされた扉の向こうに玲華がいる。扉には冷たい光沢のある白いプレートがかかっていて、その向こうの静けさが余計に胸を締めつけた。
 俺はドア越しに穏やかな声で語りかけた。
「玲華」
 返事はなかった。それでも俺は続けた。
「俺、玲華の強いところに憧れたわけじゃない。もちろん、そういうところもすごいと思う。でも、それだけじゃない」
 俺は、これまでの記憶を一つずつ思い出しながら言葉を紡いだ。改札の前で立ち尽くしていた姿、たこ焼きに涙目になっていた姿、それらの記憶が次々と頭をよぎった。
「電車の改札が開けられなくて、周辺設備の確認とか言い張ってたところ。たこ焼きで涙目になってたところ。ドリンクバーで、真剣に味の違いを分析してたところ。そういう、完璧じゃない玲華を、俺は好きになったんだ」
 扉の向こうから、小さな嗚咽のような声が聞こえた。
「だから、今の玲華が、倒れるくらい無理してるところも、隠さなくていい。俺の前でくらい、完璧じゃなくていい」
 しばらくの沈黙のあと扉がゆっくりと開いた。
 目の前に立っていたのは目を赤く腫らした玲華だった。病衣姿のままいつもの凛とした佇まいは見る影もなかった。廊下の蛍光灯の下で、その姿はどこまでも儚く見えた。
「……陽翔」
「玲華」
 玲華は堪えきれなくなったように俺の前で初めて涙を溢れさせた。声を上げて泣くというよりも、堰き止めていたものが一気に決壊するような泣き方だった。
「怖かったんです」
 嗚咽混じりの声で玲華は続けた。
「父に反論して、初めて自分の意思を伝えて。それでも、認めてもらえるとは限らなくて。もし全部失ったら、私には何が残るのか、分からなくて」
「玲華」
「財閥を継ぎたくないわけじゃありません。ただ、そのために、陽翔との時間や、こんな風に泣ける場所まで、全部失うのは……嫌なんです」
 震える肩を見つめながら、俺は玲華の言葉を遮ることなく最後まで聞いた。
「玲華の答えを、俺が代わりに決めることはできない」
「……はい」
「でも、一緒に考えることはできる。玲華が、何を選んでも、俺はその隣にいる」
 玲華は涙を拭いながら小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
 その声は、これまで聞いた中で一番素直な響きをしていた。
 病室の外の廊下に夕暮れの光が差し込んでいた。窓の外に広がる茜色の空が、穏やかにその場を包み込んでいた。
 まだ父との問題は解決していない。転校と早期留学の話も白紙になったわけではない。
 それでも玲華の心には、少しずつ前を向く力が戻り始めていた。
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