“ハズレ枠”の私を愛してくれたのは、あなたでした ―“好き”を受け取る資格がありません―
第12話
「なんか、普通だねぇ」
「……うるさい。
新人教師の給料で、贅沢できるわけがない」
神奈川県内、横浜線沿いは家賃が高いので相模線が最寄りの2K。
ダイニングテーブルは諦めて、一部屋をローテーブルを置いたリビングに、もう一部屋を寝室に。
冷蔵庫も、そんなに大きなものは置けなかった。
玄関は、オートロックでもない、普通のアパート。
「なおの妹たちみたいな、ハイスぺ男捕まえられなくて残念だったな」
あきくんの軽口に、なおは笑った。
「確かに、陸さんも国家公務員だし……法学部卒だし……。
腰が低いからわかりにくいけど、何気にスペック悪くないよね」
「郁人さんは、高学歴だし……言わずもがな……だな」
「やばいね、あきくん。
義弟たち、レべチじゃん」
「……な」
はぁ、とため息を付く彼の肩を叩きながら慰める。
「……低スペックでも、あたしはあきくんがいい」
「低スペック言うなよ……。
教職は尊いだろ」
「うん、尊い。
給与は据え置きだけどね」
ころりとラグの上に寝転ぶと、隣にあきくんも寝転んだ。
「……狭いな」
「狭いね」
クスクス笑い合いながら、手を取った。
「長かったよな」
「長かったね」
ここにたどり着くまで。
思ったよりもずっと長かったと二人は思うのに、周りは最初からそう決まっていたかのように扱うのが不思議だ。
「……あきくん、彼女でもないあたし抱きまくってたしね」
ちょっとむっとした顔で、あきくんも言い返す。
「男泣かせまくってたお前に言われたくない」
「最初に泣かされた男の言葉は違うね」
きれいな言葉ではない。
言い合う空気は、どこか甘くて苦かった。
「……言い訳するなら。
彼女だと思っていたんだよ……お前のこと」
「……言われてない」
「……言ってないな」
少しだけ自嘲めいた笑みを浮かべる彼に、そっと抱き着いた。
「今は?」
「……片割れ?」
「妻とかじゃないんだ」
相変わらず、体温がちょっと高くて、温かくて、気持ちいい。
「そんな形骸的な役割より、もっと深い感じがするから」
「そっか」
あきくんの腕の中は、居心地がいい。
開けていた窓から、春風に混ざって薄紅色の花びらが一枚、舞い込んできた。
「……新しい職場の準備、できているのか?」
「うん……だいじょうぶ……」
うとうとと微睡みながら、安心して意識を手放した。
◇
四月。
千秋は校庭の桜を見ながら、改めて背筋を伸ばした。
ついに今年度から私立の正規職員として採用された。
三月後半に発表された職員内での担任発表では、持ち上がりで第三学年を担任することになっていた。
始業式のこの日、春休み明けの子どもたちに会えるのを楽しみにしながら。
少し早めに出勤して、職員室で配布物の確認をしようと思った時だった。
子どもたちの騒ぐ声が聞こえる。
小等部の生徒だけでなく、中等部の生徒も一緒に騒いでいるようで、なんだと思って廊下の窓の方を見た。
二気筒の、どこか聞き慣れた独特のエンジン音。
見慣れた黒とライムグリーンのバイクと、それに合わせたジャケット。
ヘルメットを外すと、セミロングのストレートヘアがさらりと零れ落ちた。
「新しい中等部の先生だって!」
「すごい、バイクだ!」
聞こえてきた声に、はぁ……と重たいため息をついた。
(聞いてない)
(なんで、夫に言わないんだよあいつは!)
いつの間にか、隣に来ていた教頭が、ぽんっと慰めるように千秋の肩を叩いた。
◇
薄暗い部屋。
抱きしめている感触が、はっきりしない。
千秋は、それが現実なのか想像なのか、わからなくなっている自分に気づいた。
なおは嬉しそうに微笑んで、積極的に千秋を抱きしめる。
彼女が積極的であればあるほど、そこに彼女の意思がないのが苦しかった。
誤魔化すように、強く彼女を抱きしめた。
彼女の口から漏れる可愛らしい声が、自分の罪を浮き彫りにする。
拒まない理由を探すのは、簡単だった。
相手は嫌がっていない。
関係は壊れていない。
だから、問題はないのだと。
そうやって積み重ねたはずの言い訳が、いつの間にか、自分の心を削っていた。
(……どこまで、俺は堕ちるんだ)
自分への嫌悪感よりも、なおに触れる権利を選ぶ。
その汚さに、息が詰まった。
――こんな俺には、なりたくなかった。
はっとして目が覚めた。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
隣には、一人分の隙間を空けて、誰もいない。
千秋は、強く息を吐いた。
汗ばんだ身体が気持ち悪い。
起きなかった未来を、あれほどはっきり夢に見るほどには、あのときの選択がぎりぎりだったのだと思い知った。
「なお!」
慌てて部屋から飛び出すと、なおがきょとんとした顔でこちらを見た。
「おはよう、あきくん。
ごはん食べよ」
背中を向けてご飯をよそう彼女を、後ろから抱きしめる。
「……なお、好きだ」
彼女の反応を確認したくて、その言葉を敢えて口にする。
「……うん、あたしも」
少しだけ頬を染めて笑いながら言ってくれた彼女に、腕の力が抜けて行った。
酷い、悪夢だった。
「なお、やばい!」
時計を見ながら、慌てて服を着替えてネクタイを締める。
鞄を掴んで出ようとするが、ギリギリだった。
「……こうなったら、禁じ手だね」
なおが不敵に笑う。
250CCのバイクの後ろに乗せてもらい、学校の校門をくぐる。
生徒たちが、みんなこっちを見ているのがわかった。
「なお、学校の校門前で降ろせって!」
叫ぶが、なかなか伝わらない。
結局二人乗りのまま、職員駐車場まで行ってしまった。
ヘルメットを外すと、中等部の生徒たちが集まってきた。
なお先生だ!男の人乗せてる!という声が、広がっていく。
校舎の向こうから、中等部の教頭が走ってくるのが見えた。
高校時代、ピアスで怒られて生徒指導の先生に呼び出された日を思い出す。
(ゆっくりシャワー浴びてた、俺が悪い……諦めよう)
「日高先生、よろしいですか?
あまり、生徒たちに注目を集めるような行動は慎んでください」
「……はい、すみません」
千秋が頭を下げるが、なおはきょとんとしたままだった。
「免許取得後、一年経っていますが……」
「いえ、そうではなく……」
教頭も、どう伝えたものかと少し悩んだ風に言葉にしていく。
「その……、生徒の前ですし。
……もう少し私生活が話題にならない形で通勤をお願いできないでしょうか……」
「あ、彼は夫なので問題ないです」
通じない様子に涙目な教頭に、千秋はもう一度頭を下げた。
「すみません、今度から自分が車に乗せて通勤します」
教頭が、言葉が通じたことに嬉しそうに千秋を見た。
「日高先生のこと、よろしくお願いしますね」
なおは、よくわからないという表情をしたまま、またねと手を振ってきた。
朝から疲れたな、と思いながら千秋は小学校の校舎の方へと歩き出した。
きっとこれからも、幾度となくなおに振り回されるのだろう。
そう思い、口元を小さく綻ばせながら。
「……うるさい。
新人教師の給料で、贅沢できるわけがない」
神奈川県内、横浜線沿いは家賃が高いので相模線が最寄りの2K。
ダイニングテーブルは諦めて、一部屋をローテーブルを置いたリビングに、もう一部屋を寝室に。
冷蔵庫も、そんなに大きなものは置けなかった。
玄関は、オートロックでもない、普通のアパート。
「なおの妹たちみたいな、ハイスぺ男捕まえられなくて残念だったな」
あきくんの軽口に、なおは笑った。
「確かに、陸さんも国家公務員だし……法学部卒だし……。
腰が低いからわかりにくいけど、何気にスペック悪くないよね」
「郁人さんは、高学歴だし……言わずもがな……だな」
「やばいね、あきくん。
義弟たち、レべチじゃん」
「……な」
はぁ、とため息を付く彼の肩を叩きながら慰める。
「……低スペックでも、あたしはあきくんがいい」
「低スペック言うなよ……。
教職は尊いだろ」
「うん、尊い。
給与は据え置きだけどね」
ころりとラグの上に寝転ぶと、隣にあきくんも寝転んだ。
「……狭いな」
「狭いね」
クスクス笑い合いながら、手を取った。
「長かったよな」
「長かったね」
ここにたどり着くまで。
思ったよりもずっと長かったと二人は思うのに、周りは最初からそう決まっていたかのように扱うのが不思議だ。
「……あきくん、彼女でもないあたし抱きまくってたしね」
ちょっとむっとした顔で、あきくんも言い返す。
「男泣かせまくってたお前に言われたくない」
「最初に泣かされた男の言葉は違うね」
きれいな言葉ではない。
言い合う空気は、どこか甘くて苦かった。
「……言い訳するなら。
彼女だと思っていたんだよ……お前のこと」
「……言われてない」
「……言ってないな」
少しだけ自嘲めいた笑みを浮かべる彼に、そっと抱き着いた。
「今は?」
「……片割れ?」
「妻とかじゃないんだ」
相変わらず、体温がちょっと高くて、温かくて、気持ちいい。
「そんな形骸的な役割より、もっと深い感じがするから」
「そっか」
あきくんの腕の中は、居心地がいい。
開けていた窓から、春風に混ざって薄紅色の花びらが一枚、舞い込んできた。
「……新しい職場の準備、できているのか?」
「うん……だいじょうぶ……」
うとうとと微睡みながら、安心して意識を手放した。
◇
四月。
千秋は校庭の桜を見ながら、改めて背筋を伸ばした。
ついに今年度から私立の正規職員として採用された。
三月後半に発表された職員内での担任発表では、持ち上がりで第三学年を担任することになっていた。
始業式のこの日、春休み明けの子どもたちに会えるのを楽しみにしながら。
少し早めに出勤して、職員室で配布物の確認をしようと思った時だった。
子どもたちの騒ぐ声が聞こえる。
小等部の生徒だけでなく、中等部の生徒も一緒に騒いでいるようで、なんだと思って廊下の窓の方を見た。
二気筒の、どこか聞き慣れた独特のエンジン音。
見慣れた黒とライムグリーンのバイクと、それに合わせたジャケット。
ヘルメットを外すと、セミロングのストレートヘアがさらりと零れ落ちた。
「新しい中等部の先生だって!」
「すごい、バイクだ!」
聞こえてきた声に、はぁ……と重たいため息をついた。
(聞いてない)
(なんで、夫に言わないんだよあいつは!)
いつの間にか、隣に来ていた教頭が、ぽんっと慰めるように千秋の肩を叩いた。
◇
薄暗い部屋。
抱きしめている感触が、はっきりしない。
千秋は、それが現実なのか想像なのか、わからなくなっている自分に気づいた。
なおは嬉しそうに微笑んで、積極的に千秋を抱きしめる。
彼女が積極的であればあるほど、そこに彼女の意思がないのが苦しかった。
誤魔化すように、強く彼女を抱きしめた。
彼女の口から漏れる可愛らしい声が、自分の罪を浮き彫りにする。
拒まない理由を探すのは、簡単だった。
相手は嫌がっていない。
関係は壊れていない。
だから、問題はないのだと。
そうやって積み重ねたはずの言い訳が、いつの間にか、自分の心を削っていた。
(……どこまで、俺は堕ちるんだ)
自分への嫌悪感よりも、なおに触れる権利を選ぶ。
その汚さに、息が詰まった。
――こんな俺には、なりたくなかった。
はっとして目が覚めた。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
隣には、一人分の隙間を空けて、誰もいない。
千秋は、強く息を吐いた。
汗ばんだ身体が気持ち悪い。
起きなかった未来を、あれほどはっきり夢に見るほどには、あのときの選択がぎりぎりだったのだと思い知った。
「なお!」
慌てて部屋から飛び出すと、なおがきょとんとした顔でこちらを見た。
「おはよう、あきくん。
ごはん食べよ」
背中を向けてご飯をよそう彼女を、後ろから抱きしめる。
「……なお、好きだ」
彼女の反応を確認したくて、その言葉を敢えて口にする。
「……うん、あたしも」
少しだけ頬を染めて笑いながら言ってくれた彼女に、腕の力が抜けて行った。
酷い、悪夢だった。
「なお、やばい!」
時計を見ながら、慌てて服を着替えてネクタイを締める。
鞄を掴んで出ようとするが、ギリギリだった。
「……こうなったら、禁じ手だね」
なおが不敵に笑う。
250CCのバイクの後ろに乗せてもらい、学校の校門をくぐる。
生徒たちが、みんなこっちを見ているのがわかった。
「なお、学校の校門前で降ろせって!」
叫ぶが、なかなか伝わらない。
結局二人乗りのまま、職員駐車場まで行ってしまった。
ヘルメットを外すと、中等部の生徒たちが集まってきた。
なお先生だ!男の人乗せてる!という声が、広がっていく。
校舎の向こうから、中等部の教頭が走ってくるのが見えた。
高校時代、ピアスで怒られて生徒指導の先生に呼び出された日を思い出す。
(ゆっくりシャワー浴びてた、俺が悪い……諦めよう)
「日高先生、よろしいですか?
あまり、生徒たちに注目を集めるような行動は慎んでください」
「……はい、すみません」
千秋が頭を下げるが、なおはきょとんとしたままだった。
「免許取得後、一年経っていますが……」
「いえ、そうではなく……」
教頭も、どう伝えたものかと少し悩んだ風に言葉にしていく。
「その……、生徒の前ですし。
……もう少し私生活が話題にならない形で通勤をお願いできないでしょうか……」
「あ、彼は夫なので問題ないです」
通じない様子に涙目な教頭に、千秋はもう一度頭を下げた。
「すみません、今度から自分が車に乗せて通勤します」
教頭が、言葉が通じたことに嬉しそうに千秋を見た。
「日高先生のこと、よろしくお願いしますね」
なおは、よくわからないという表情をしたまま、またねと手を振ってきた。
朝から疲れたな、と思いながら千秋は小学校の校舎の方へと歩き出した。
きっとこれからも、幾度となくなおに振り回されるのだろう。
そう思い、口元を小さく綻ばせながら。


