“ハズレ枠”の私を愛してくれたのは、あなたでした ―“好き”を受け取る資格がありません―

第6話

雨は予想よりも早く降り出し、そして冷たかった。

駅の改札に向かおうとしていた足は、やがて止まる。

二人とも、濡れていないものはないほどびしょ濡れだった。
歩くたびに、綾の靴からは水が飛び出す。
なおは、ストラップ付きのサンダルだから多少足は滑るがまだマシだった。
服は肌に張り付き下着を透かせ、ズボンは足に纏わり付いて歩きにくい。

「……この状態では、電車に乗るのは難しいですね……」

綾の声は、事実を述べただけのもので、そこには責めるような色合いはなかった。

「うん……。
 服、どうにかしないとかな」

なおの呟きに、綾はそっと視線を逸らした。
なおの言葉は、誘いでも提案でもない。

それでも……。
綾は静かに息を整え、そして言った。

「……うち、歩いて行ける距離です。
 服、乾かしましょう」


◇


彼の部屋の玄関で、濡れた服を摘まんだ。
ボタボタと雫と表現するには多い量の水が落ちた。

綾はその様子をできるだけ見ないように、背中を向けてくれている。

気を遣わせてしまって申し訳ないな、と思った。

「……このまま、シャワー使って下さい。
 僕は後でいいので」

「いや、悪いよ。
 あたしはタオルだけでいいから。
 綾くんは入ってきて」

彼の肩を掴んで振り向かせる。
綾は、気まずそうに視線を泳がせた。

「それは……。
 ……僕だけなんて……ちょっと無理です」

玄関扉の外からは、変わらずに激しい雨の音が聞こえる。


「でも……こんなに冷えているよ?」

なおの手が、綾の頬に触れる。
びくりと、大げさなほど綾が震えたことに、なおの方が驚いた。

「……っ」

綾の目が揺れる。
それを気まずさだと受け取って、なおはますます和ませようと彼に触れた。

「ほら、脱いで。
 ……風邪、引くよ」

上着のボタンに手を掛けようとしたところで、降参したように綾が自分でしますから……と手を止めさせた。

「そう?」

なおはあっさり引き下がると、今度は自分の服を脱ぎ始める。

上着をすべて脱いだところで、バスタオルを掛けられ、そして抱きしめられた。


「……今ならまだ、見なかったことにできます。
 ……ここでこれ以上……脱いでしまって……いいんですか?」

「大丈夫」

なおの言葉に、ためらいを捨てるように綾がなおを正面から抱きしめ直した。

さっきの言葉はそういう意味だったんだ、と思ったときには顔が寄せられた。

それを、なおは拒まなかった。

彼の部屋のベッドの上で、体温を分け合った。
なおは、綾が寒くないように、必死でその冷えた身体を抱きしめる。

触れる指先は、とても冷たかった。


◇

――これ以上踏み込んだら、戻れない。
そんなことは、綾自身が一番よくわかっていた。

彼女は、経験があるように見えて少ないのか、反応が希薄だった。
色のある意味合いの触れ方をしない彼女が、少し寂しい。

それでも。
なおが拒まなかったという事実だけが、彼の中でどうしても重く残る。

彼女が線を引かなかったことを、自分への許可だと解釈してしまっていた。

◇


「なおさんのこと、大切にします」

気だるい、特有の疲れの中。
やさしく髪を撫でられながら言われた言葉に、すっと心が冷えていく。
先ほどまで感じていた熱も、驚くほどきれいさっぱりと無くなった。

「……大切にされるほどの人間じゃないよ、あたし」

苦笑交じりに伝えると、力強く否定された。

「そんなことないです!
 なおさんは、もう僕の大切な彼女ですから!」

綾の微笑みはやさしく安心させるようなものだった。
え、どうしてそうなるの、と今更ながらに慌てた。

「……いや、別に付き合ってはいない……よね?」

髪を撫でていた手が止まる。

見上げた彼の目は、泣く寸前のように揺れていた。
ぎゅうっと、胸が押しつぶされそうだった。

男性の、こんな表情を見るのは初めてではない。
でも、させたいわけでもないのに。

触れる前に、せめて好きとか言ってくれたら、断れるのに、なんて無責任にも考えた。
そういう意味で抱きしめたのではないと、言わなかったのはお互い様なのに。
ただ身体を求められるだけならと、拒まなかったのは自分だった。

「……でも、僕はなおさんを……」

「……大丈夫。
 初めてでもないし慣れてるから、気にしないで」

初めての触れ合いを思い出す。
彼とは、記憶にないくらい繰り返した。

「――……」

静かに、息を詰めるような音が聞こえた。
触れる肌から伝わってくるのは、彼の震え。


「僕は……なおさんに。
 ……一番してはいけない愛し方を、してしまったんだって。
 ……今わかりました」

一雫、頬を伝う涙をただ見つめていた。
どうしてまた繰り返してしまったのだろう。

失敗したなと思った次には、相手はだいたい余所余所しくなって、そして会わなくなっていく。

せっかく仲良くなれたのに、友だちをまた失ってしまうのか。

大事な友だちの一人だし、優しくて穏やかな彼は、決して嫌いな人ではなかった。
嫌いではないのに、断るだけの明確な理由がうまく見つけられなかった。

女性としての価値が、そこにあるのならそれで良かった。

それが、人を傷つけるということを、この時はまだよくわかっていなかった。


◇

乾いた服に袖を通しながら、背中を向けて黙りこくっている綾を見る。

苦いものが心に積もるのに、それをどうにかする方法をなおは知らない。


「雨、止みませんね。
 傘貸しますよ」

布擦れの音がしなくなった後、しばらくしてから。
カーテンの隙間から暗くなった窓の外を見た後、綾がこちらを振り向いた。

その表情は、やさしい笑みを湛えていた。
それなのに、どこか違和感があるように見えたのは、自分の罪悪感のせいだろうか。

「え……でも……」

「返すのは、また今度で。
 次に一緒に遊ぶ時にでも、持ってきて下さい」

それは、いなくならないという約束のようで、少しだけ安心した。

綾はアパートの下まで見送りに来てくれる。
なおは雨の街へと、傘を差しながら歩き出した。

雨音の中歩いていると、さっきまでのことがどこか遠い出来事のように思えてくる。

でも、見上げた先にある男物の傘が夢ではないことを伝えてくる。

そして、あきくんと同じ顔をさせてしまった……綾のあの表情。

あきくんなら、今回のこともきっと最後まで聞いてくれる。
自分の罪悪感を軽くするために、優しい彼を利用している自覚はあった。

……だけど、相手はあきくんが守れと言っていた綾だ。

……あきくんが、このことを知ったら。
そんな考えが一瞬頭をよぎり、慌ててなおは首を振る。


今はまだ、答えを出すには早かった。
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