“ハズレ枠”の私を愛してくれたのは、あなたでした ―“好き”を受け取る資格がありません―
第6章 隣にいる前提 ―試しているとは思っていませんでした―

第7話

教育実習が終わり、実習日誌を教授へ提出した。
廊下に出ると一気に肩の荷が下りたのを感じる。
あきくんも同じだったのか、大きく息を吐いていた。

「これで一段落ついたね」

「だな」

空き教室に行き、お互いに受けていない分のノートを写し合う。
ノートへと走らせるペンの音だけが静かに響いていた。

大部分のノートを写し終わったところで、なおは何気ない調子で口を開いた。


「あきくん……またやっちゃった……」

あきくんはノートから視線を外さないまま、小さくため息をついた。

「……あや、か」

小さく吐き出されたその声には、驚きや呆れは混ざっていなかった。
あきくんの言葉は、確認というよりはすでに答えを知っているようだと感じた。
そして、そこには責めるような響きも無かった。

「……何で、わかったの」

なおの方が気まずくなって、思わず聞いてしまった。

「……さあな」

……それ以上、あきくんは何も言わなかった。

たぶん、怒られないと思っていた。
予想通り、怒られはしなかった。

でも、それにどこか安心し、そして不安になる自分がいる。

目を合わせずにただノートを取っているこの人は、本当は何を思っているのだろう。

そして、綾の気持ちも、よくわからない。

なおも、残りのノートを完成させるために手を動かした。

沈黙が、怖いと思った。
その理由は、わからない。

わからないことだけが、積み重なっていく。


先に書き終わってしまい、あきくんが綴るノートの字をじっと見つめていた。

「……でも」

沈黙に耐えきれず、また口を開いてしまう。

「別に、軽く扱ったつもりは、ないんだ」

何に対する弁解がしたいのだろうと、自分で疑問に思いつつも、思いついたまま話す。

その矛先は、綾なのか、あきくんなのか、それとも自分自身なのか。

「うん」

無視は、されない。

でもその頷きは、肯定ではない。
否定でもなかった。

ただ、“聞いている”という事実を伝えるためのものだ。

「……綾くん、いい子だし……」

あきくんは無言で頷く。

「ちゃんと、考えてくれてた。
 なにより……優しかった……」

言いながら、彼のあの顔を思い出し、胸が痛んだ。

同じ言葉を、前にも使った様な気がする。


あきくんは、何も言わない。

ただ、いつもと同じ、男の子らしいけれど整った字を書き連ねているだけだった。


「よし、終わった」

パタン、とノートを閉じ、あきくんが荷物を纏めて立ち上がる。

「この後、ゼミに行くけど。
 なおも行くだろ?」

「……うん。
 卒研、進めないとね」

あきくんとは、ゼミまで一緒だった。

どこまでも、彼はなおの隣にいた。


◇


いつも通りの、あきくんの部屋。
次の幼稚園実習前に提出するように言われた、教育指導案を二人で考えていた。
幼稚園での指導案は、授業がない分方向性が違って、二人とも作成に苦労していた。

二人が書くペンが止まって何分経っただろうか。
階下から玄関が開く音がしたと思ったら、そのまま階段を上がる音が聞こえ、そしてノックもなしに部屋の扉が開いた。

「なお、来てるんだろ?」

部屋に入ってきた冬真が、いつもより少し低い声であきくんに言葉を投げる。
それを少し気まずく感じながら、なおは挨拶した。

「あ……、うん……。
 お邪魔しているね」

「……ノックくらいしろよ」

あきくんの言葉を冬真は無視して話し始める。

「まぁ、いるよな。
 兄貴が休みの日になおと過ごさないわけがない」

「…………」

あきくんは黙って弟を見つめる。
なおは、ただ二人を交互に見ながら、落ち着かない。

「悪いけどさ。
 今日はなおの前でも言わせて貰う」

「――え、」

自分の名前が出てきたことで、無関係じゃないと感じたなおが言葉を零す。
冬真に責められる理由なら、いくらでも見つけられそうだった。

「なおは黙って聞いていて。
 別になおを責めに来たわけじゃない」

その言葉にあきくんを見た。
あきくんの目が少しだけ、揺れた。


「兄貴、無責任だろ」

声は大きくない。
けれど、ぞっとするような冷たさを孕んでいた。

「兄貴の静観が、結果として人を傷つけた」

あきくんは、目を逸らさずに冬真を見つめる。

「綾は、何も言ってない。
 泣きついてきたりもしていない」

ぎゅっと、冬真の手に力が入る。
その拳は、白くなるほど握り込まれ、小さく震えていた。

「でも、何もわからないほど、オレは子どもでもない」

あきくんの顔色が、すっと消えていく。

あきくんのせいじゃないと叫びたかった。
彼は関係ないと言いたかった。
けど、あきくんはそれを求めていない。

……何も言えない。


「……いい加減気付こうぜ。
 守っているつもりなんだろうけど、中途半端で逃げ道にしかなってねぇよ」

あきくんの手にも、力が込められた。
握っているペン先が、小刻みに震える。

「なおも、綾も。
 兄貴がいることで、止まれないんだよ」

「……っ!」

なおが息を飲む。

あきくんは、あの時のような顔をしていた。
それ以上見たくなくて、なおはそっと目を伏せた。


「……何も弁解はなしかよ。
 それが一番きついって、わかっているよな?」

二人とも、何も言えなかった。

「……兄貴がちゃんと手綱握っていないからこうなるんだよ。
 線を引いたなら、最後まで責任取れ。
 できないなら、最初から曖昧なことをするな」


言いたいことだけ言って、冬真は部屋から出て行った。

見ていられなかったなおが、そっと彼の方に手を伸ばす。

彼の肩に触れようとした手は、あきくん本人によってそっと払い落とされた。
今までは、そんなふうに触れられても、何も思わないふりができていたはずだった。

なおは、優しく拒まれたその指先をじっと見つめる。


二人が何とか指導案を書き終えるまで、沈黙は続いた。


◇

あきくんを連れて家に帰ると、当然のようにまなの隣に海がいた。
まなが結婚した後も、二人の距離はあまり変わらない。

「お、なおちゃんおっかえりー!
 そして相変わらず千秋一緒なのな!」

「まぁ、学校も一緒だし家も近い」

あきくんがいつも通りの口調で返す。

「おまけにお互い相性いいもんね、そりゃ一緒にいるか」

にっこりと人好きのする笑顔で言われた言葉。
さっきの言葉と優しい拒絶が残っているからか、いつもだったらそうだよと軽く返せるのに返せない。

その微妙な戸惑いを理解したのかしてないのか、ぽんっとあきくんの肩を叩く。

「今からまなと飲もうと思っていたんだけど、二人も行く?」


◇

土曜日の夜と言うこともあって、お店は混雑していた。
二人は事前にアプリから予約をしていたようで、スムーズに席へと通された。

「ここの海鮮居酒屋、美味しいから楽しみにしていて!」

にこにことまなが笑う。
海が、その笑うまなの顔を、やさしい表情で見つめていた。

「……普通に考えたら、お前らこそカップルか夫婦みたいだよな」

あきくんの呟きに、二人が同時に笑いながら「色んな人にそれ言われる」と答える。
まなの表情と海の言い方で、なおは二人がその外の評価に興味がないんだなと気付いた。

「陸くんに写真送ろうかな」

浜焼きセットがテーブルに届くと、さっそくそれを写真に撮り始めるまな。
まなの写真フォルダは、だいたい食べ物であることをなおは知っている。

「いいね、兄ちゃんが食べたくなるようなやつ送ってやろ!」

海がノリノリでスマートフォンを取り出す。
でも、彼は嬉しそうに笑って貝を頬張るまなの方にレンズの先を向けている。
兄に送るのは、美味しそうに食べているまなの姿、そのもの。

「お前、まなさんにカメラ向けながら食べたくなるとか言うなよ」

その言葉に、まながきょとんとした顔を向け、海が少し顔を赤くしながら笑う。

「千秋、相変わらずすぎるだろ!
 そんな意味じゃないし」

「そ、そうだよ日高くん!
 よく陸くんがね、私が海鮮食べている姿見ると、より美味しそうに見えるって言うから……」

二人が慌てて訂正する姿に、なおは笑った。


ふと、グラスが空きかける。
いつも最初はビールで、次はカクテルに行く。

なんのお酒があったかなと考える間もなく、なおの前にメニュー表が差し出された。

「決まったら言って。
 入力するから」

「ありがとう」

少ししてテーブルにカンパリオレンジとホットウーロンが届けられた。
何も言わずに、温かい飲み物を一緒に頼んでくれるあきくんになおの心の奥で固まっていたものが、ゆっくりと溶けていく。

今までもそうしてくれていたのに、特になにも思わずに受け取っていた。


見ようとしていなかっただけで。

あきくんはずっと、支えてくれていた。



帰り道。
まなとなおの家に、二人は何も言わなくても送ってくれた。

前を歩くまなと海を見ながら、なおはふと隣を歩くあきくんの方を見る。
あきくんとの距離は、いつもより半歩遠かった。

彼の耳には、自分と同じ黒いピアスが街灯の灯りを受けて光っている。

引き寄せられるように、なおはピアスへと手を伸ばした。

その瞬間、あきくんの肩がびくりと跳ねた。


二人の間に沈黙が落ちる。

(……これは、嫌われてしまったのかもしれない)

嫌われる理由はいくらでもあった。

一歩、後ろへと無意識に足を引いたとき、足下が絡まってバランスを崩しかけた。
そこを、あきくんの腕が支えてくれる。

「珍しいな……酔ってる?」

「……そう、かも」

すっと、指が絡んで手を繋がれた。

手を引いて貰いながら、また答えがわからなくなって混乱する。


――あきくんの、気持ちがわからない。


アルコールも入って、眠たいはずなのに。
その日、なおは中々寝付けなかった。


◇

日曜日の午前。
千秋はいつも通り、クローゼットから服を取り出す。
外出の準備が整うと、スマートフォンを手に取り、時間の確認のついでにメッセージアプリを開く。
そこの一番上に並ぶ名前を、じっと見つめた。

メッセージの中身は、開かなくても頭に残っている。

正直、重たい。

だが、応じないという選択肢は、最初からなかった。

断ってしまったら、そこで終わる気がして。


家を予定通りの時間に出ると、駅へ向かって歩き出した。

改札を抜けて、ホームに降りる。
電車を待ちながら考えるのは、これからのこと。

――いったい、何を言われるのだろうか。

責められるのだろうか。
怒られるのだろうか。
それとも、別のことだろうか。

どれもありえそうで、どれも違いそうだった。


電車が到着し、扉が開いた。
車内に人は、それほど多くない。

扉近くの座席に座ると、なおの顔が浮かんできた。

昨夜、彼女が自分の方に伸ばしてきた手。

一瞬の、身体の反応。


自分自身でさえ、説明する言葉を見つけられないでいた。


やがて、電車は目的の駅へとたどり着いた。

待ち合わせたカフェへと向かう。

入り口から店内を見渡すと、彼はもう来ていた。

「こんにちは、千秋先輩」

丁寧に頭を下げた、礼儀正しい挨拶。
きっちりとしたシャツと、スラックス。
姿勢も良く、清潔感があった。

その隙のなさは、なおが言うようなかわいい後輩とか、子犬のような存在には思えなかった。

彼は、最初からそうだった。

――気が、抜けない。

そう思った自分に、千秋は自嘲するような笑みを浮かべた。


「すみません、先輩のお時間を頂くような真似をして。
 ですが、一度千秋先輩とは、ちゃんと話をする必要があると思っていました」

彼の顔に浮かぶ薄い微笑みに、千秋は背中がすっと伸びるような気持ちを覚えた。


「単刀直入に言いますね」

切り出された言葉に、小さく息を飲む。
その動揺を悟られたくなくて、頷きだけで返した。

「僕は、なおさんが好きです」

綾の目は、まっすぐだった。

「千秋先輩が、彼女をどう大切にしてきたのか。
 そしてそれを壊したくなかったということも、僕なりにわかっているつもりです」

綾の気持ちが痛いほど伝わってきた。
この気持ちを口にする、彼の覚悟も。

「それでも――僕は、彼女に触れました」

その言葉は、マウントでも何でも無く、ただ事実を置くようだった。

「……それは、なおさんには一番してはいけない愛し方でした。
 だからといって、僕は逃げるつもりはありません」

「……そっか」

千秋に言えたのは、それだけだった。

自分が時間を掛けてたどり着いた答えと同じような答えにたどり着いてしまったことに、千秋は目を伏せる。

できたら、この気持ちだけは綾に知られたくなかった。

同じ場所で傷ついた人間に、これ以上の痛みを抱いて欲しくはなかったから。


◇

土曜日、その日は久しぶりに集まってバスケをした。

幼稚園実習が金曜日に終わった。
昨日までの実習日誌もすべて書き終え、幼稚園に預けてきたあとで、開放感も手伝って身体を動かしたい気分だった。

開放感そのままに、目一杯コートで暴れ回る。

綾からボールを受け取って、離れた場所から思いきりゴールへ向かって送り出した。
きれいな曲線を描き、阻止しようとした冬真の横を通り抜けてリングを揺らす。

「いっえーい!!」

「さすが、なおさん!」


綾とぱちんと手を合わせる。

そのままの流れで、あきくんとも手を合わせようとするが、彼に近付くより前にすっと距離を取られてしまった。

無視をされているわけではない。
事実、やるじゃんとは言われた。

ただ、その手を合わせることはなかった。

どこかやり場のない気持ちを感じながらも、再びみんなの元へと走る。

次はあきくんから、絶妙なタイミングでパスが回される。
欲しいと思ったタイミングで渡してくれるのは、さすがあきくんと思いながら、ゴールへとボールを放る。

再び、手を合わせようとしたが、あきくんは一瞬上げかけた手を握りしめた後、「さすが、なお」とだけ言い残して、その場を離れて行く。

気のせいだと思おうとした。
たまたまだと、思いたかった。


(……あきくんは、ずっと傍にいてくれるって思ってた)

でも、それは“甘え”だった。

空っぽの手のひらが、冷えていく。
その様子を、冬真がなにか言いたそうな表情で、じっと見ていた。


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