僕が君の名前を呼ばなかった一年間
第03話 名前を呼べないことが、恋を深くしていく
高校二年生の春に交わした約束は、思っていたよりも簡単に俺たちの日常へ馴染んでいった。
朝、教室に入れば白石が「おはよう、桐生くん」と声をかけてくる。俺も「おはよう、白石」と返す。昼休みになれば自然と同じ場所に集まり、放課後になれば図書室へ向かう。授業中には以前と変わらず小さなメモを交換し、教師に見つからないように笑いを堪えることもあった。
名前を呼ばないことだけを除けば、俺たちの毎日は約束を交わす前と何も変わらなかった。
周囲から見れば、俺たちはかなり仲のいい男女に見えたことだろう。それなのに、名前だけは絶対に呼ばない。親しいのに、名前だけが遠い。すぐ隣にいるのに、一番大切な言葉だけが口にできない。そんなことを考えていると、昼休みに向かいの席から白石がこちらを覗き込んできた。
「桐生くん、今日のお弁当それだけ?」
「そうだけど」
「少なくない?」
「普通だよ」
「私のほうが多いよ。少し食べる?」
「いいの?」
「うん。代わりに桐生くんのおかずも一つちょうだい」
「交換ってこと?」
「そう。嫌ならいいけど」
「嫌じゃない。何がいい?」
「卵焼き」
「じゃあ、これ」
「ありがとう。じゃあ、私からはこれ」
白石が差し出した卵焼きを受け取りながら、俺は何となく笑ってしまった。こういうやり取りが、いつの間にか特別なものではなくなっていることが不思議だった。友達同士なら珍しいことではないのかもしれない。それでも、白石が誰か別の男子と同じことをしているところを想像すると、俺はきっと嫌な気持ちになる。自分でも理由が分からず、そんな感情を見ないふりをして弁当を食べた。白石は俺の顔を見ながら、少し首を傾げた。
「桐生くん、何か考えてる?」
「別に」
「またそれ?」
「本当に何でもない」
「じゃあ、いいけど」
白石は笑って、それ以上は聞かなかった。そのまま何事もなかったように弁当を食べている。俺も何も言わずに箸を動かしたが、胸の中に残ったものは簡単には消えてくれなかった。
六月に入り、雨の日が増えると、俺たちは放課後に図書室で過ごす時間がさらに長くなった。窓ガラスを雨粒が流れ、外の景色がぼんやりと滲んでいる。白石は向かいの席で参考書を開いていたが、しばらくすると大きく息を吐いた。俺が顔を上げると、彼女は鉛筆を机に置いて、困ったように笑った。
「もう無理だぁ~」
「まだ三問しかやってないだろ」
「三問もやったよ」
「テスト前なのに?」
「桐生くんは平気なの?」
「平気じゃないけど、白石よりはできる」
「それ、嫌な言い方」
「じゃあ、教えるよ」
「本当に?」
「うん。ここ見て」
俺が参考書を自分のほうへ寄せると、白石も椅子を少し近づけた。肩が触れそうな距離になり、俺は妙に緊張してしまう。以前なら何とも思わなかった距離なのに、今は白石が近くにいるだけで意識してしまう。俺が問題の解き方を説明すると、白石は真剣な顔で頷きながらノートに書き込んでいった。
「分かった?」
「うん。桐生くんって教えるの上手だね」
「そう?」
「先生より分かりやすい」
「それは先生に失礼だろ」
「じゃあ、桐生くん先生になる?」
「嫌だよ」
「どうして?」
「白石の面倒を見るだけで十分大変だから」
「私、そんなに大変?」
「かなり」
「ひどい」
白石は頬を膨らませたあと、すぐに笑った。その表情を見ていると、俺まで楽しくなる。俺はもう、自分が白石を好きなのだと認めていた。名前を呼べないからといって、この気持ちまで消えるわけではない。それどころか、一緒にいる時間が増えるほど強くなっている。白石も同じなのではないかと思うことがある。
俺が別の女子と話していると、少しだけ口数が減る。
俺が誰かと帰ろうとすると、「今日は一緒じゃないの?」と聞いてくる。
そんな小さな変化を見るたび、俺は期待してしまう。それでも俺たちは、その先へ進まない。進めないというほうが正しいのかもしれなかった。
夏休みが終わり、二学期が始まる頃には、クラスの中でも俺たちが一緒にいることはすっかり当たり前になっていた。文化祭の準備で放課後に教室へ残っていると、クラスメイトの男子が俺たちを見て笑う。
「お前ら、また二人で残ってるの?」
「準備してるだけだよ」
「本当に?」
「本当」
「じゃあ、付き合ってないんだ?」
「付き合ってないよ」
俺が答えると、隣で飾りを作っていた白石も頷いた。
「そうだよ。付き合ってない」
「でも、毎日一緒にいるじゃん」
「友達だから」
「友達ねえ」
「何?」
「いや、別に」
男子は笑いながら教室を出ていった。扉が閉まると、白石が小さく息を吐いた。
「また言われたね」
「最近、多いな」
「桐生くん、嫌だった?」
「何が?」
「付き合ってるって言われるの」
「……別に」
「私は、ちょっとだけ嬉しいけど」
「え?」
「何でもない」
白石はすぐに作業へ戻った。俺は手元の作業に目を戻せなかった。
嬉しい。
さっき、白石はそう言った。どういう意味なのか聞きたかった。でも、聞いたら最後、今の関係を元に戻せなくなる気がした。だから何も言わなかった。
名前を呼ばないという約束は、いつの間にか俺たちが言葉にできないことまで増やしていく。
秋が深まり、文化祭が終わった頃には、俺たちは以前よりもさらに近い関係になっていた。
それでも、名前だけは呼ばない。
そんなある日の帰り道、空から白いものが落ちてきた。最初は雪だと気づかないほど小さな粒だったが、駅へ向かう頃には歩道を白く染め始めていた。俺たちは傘を並べて歩いていたが、横断歩道の手前で白石の足が滑った。
「危ない!」
反射的に手を伸ばすと、白石の身体が俺のほうへ傾いた。俺はその腕を掴み、何とか転ばずに支える。傘から落ちた雪が制服の肩に積もり、白石は驚いた顔で俺を見上げていた。
「大丈夫?」
「う、うん……」
「怪我してない?」
「大丈夫。ありがとう、桐生くん」
「よかった」
俺が手を離そうとした瞬間、白石の唇がわずかに動いた。
「なお……」
その声は雪の音に消えそうなくらい小さかった。それでも、俺には聞こえた。絶対に聞き間違えではなかった。
白石も自分が何を言いかけたのか分かったらしく、目を見開いたまま黙り込んでいる。
今、彼女は俺の名前を呼ぼうとした。約束を忘れたわけじゃない。 たぶん、ほんの一瞬、考えるより先に口から出てしまっただけだ。それなのに、俺はその一音を聞いただけで、頭の中がいっぱいになった。
白石がゆっくりと手を引き、傘を握り直す。
「……今の……忘れて」
「うん」
「絶対だよ」
「分かった」
「約束だから」
「分かってる」
再び歩き始めた俺たちの間には、さっきまでとは違う空気が流れていた。俺は隣を歩く白石を見ないようにしていた。見たら、何か聞いてしまいそうだったから。
さっきのは何だったのか。
どうして名前を呼びそうになったのか。
聞きたいことはいくつもあった。でも、聞けなかった。頭の中では、白石が口にしかけた「なお」という二文字だけが何度も繰り返されている。
自分の名前を呼んでほしい。それだけなのに、今の俺たちには、それができないのだ。
名前を呼ばない。それが俺たちの約束だった。でも、あの一瞬だけは、名前を呼ばれることがこんなにも嬉しいのだと分かってしまった。
そして同時に、俺自身も白石の名前を呼びたくなっていた。今まで我慢できていたはずなのに、一度聞いてしまっただけで、急に難しくなった。
名前を呼ばないという約束は、俺たちの距離を守ってくれている。
そのはずだった。なのに、その約束を守っているせいで、俺は白石との距離を今まで以上に意識するようになっていた。
朝、教室に入れば白石が「おはよう、桐生くん」と声をかけてくる。俺も「おはよう、白石」と返す。昼休みになれば自然と同じ場所に集まり、放課後になれば図書室へ向かう。授業中には以前と変わらず小さなメモを交換し、教師に見つからないように笑いを堪えることもあった。
名前を呼ばないことだけを除けば、俺たちの毎日は約束を交わす前と何も変わらなかった。
周囲から見れば、俺たちはかなり仲のいい男女に見えたことだろう。それなのに、名前だけは絶対に呼ばない。親しいのに、名前だけが遠い。すぐ隣にいるのに、一番大切な言葉だけが口にできない。そんなことを考えていると、昼休みに向かいの席から白石がこちらを覗き込んできた。
「桐生くん、今日のお弁当それだけ?」
「そうだけど」
「少なくない?」
「普通だよ」
「私のほうが多いよ。少し食べる?」
「いいの?」
「うん。代わりに桐生くんのおかずも一つちょうだい」
「交換ってこと?」
「そう。嫌ならいいけど」
「嫌じゃない。何がいい?」
「卵焼き」
「じゃあ、これ」
「ありがとう。じゃあ、私からはこれ」
白石が差し出した卵焼きを受け取りながら、俺は何となく笑ってしまった。こういうやり取りが、いつの間にか特別なものではなくなっていることが不思議だった。友達同士なら珍しいことではないのかもしれない。それでも、白石が誰か別の男子と同じことをしているところを想像すると、俺はきっと嫌な気持ちになる。自分でも理由が分からず、そんな感情を見ないふりをして弁当を食べた。白石は俺の顔を見ながら、少し首を傾げた。
「桐生くん、何か考えてる?」
「別に」
「またそれ?」
「本当に何でもない」
「じゃあ、いいけど」
白石は笑って、それ以上は聞かなかった。そのまま何事もなかったように弁当を食べている。俺も何も言わずに箸を動かしたが、胸の中に残ったものは簡単には消えてくれなかった。
六月に入り、雨の日が増えると、俺たちは放課後に図書室で過ごす時間がさらに長くなった。窓ガラスを雨粒が流れ、外の景色がぼんやりと滲んでいる。白石は向かいの席で参考書を開いていたが、しばらくすると大きく息を吐いた。俺が顔を上げると、彼女は鉛筆を机に置いて、困ったように笑った。
「もう無理だぁ~」
「まだ三問しかやってないだろ」
「三問もやったよ」
「テスト前なのに?」
「桐生くんは平気なの?」
「平気じゃないけど、白石よりはできる」
「それ、嫌な言い方」
「じゃあ、教えるよ」
「本当に?」
「うん。ここ見て」
俺が参考書を自分のほうへ寄せると、白石も椅子を少し近づけた。肩が触れそうな距離になり、俺は妙に緊張してしまう。以前なら何とも思わなかった距離なのに、今は白石が近くにいるだけで意識してしまう。俺が問題の解き方を説明すると、白石は真剣な顔で頷きながらノートに書き込んでいった。
「分かった?」
「うん。桐生くんって教えるの上手だね」
「そう?」
「先生より分かりやすい」
「それは先生に失礼だろ」
「じゃあ、桐生くん先生になる?」
「嫌だよ」
「どうして?」
「白石の面倒を見るだけで十分大変だから」
「私、そんなに大変?」
「かなり」
「ひどい」
白石は頬を膨らませたあと、すぐに笑った。その表情を見ていると、俺まで楽しくなる。俺はもう、自分が白石を好きなのだと認めていた。名前を呼べないからといって、この気持ちまで消えるわけではない。それどころか、一緒にいる時間が増えるほど強くなっている。白石も同じなのではないかと思うことがある。
俺が別の女子と話していると、少しだけ口数が減る。
俺が誰かと帰ろうとすると、「今日は一緒じゃないの?」と聞いてくる。
そんな小さな変化を見るたび、俺は期待してしまう。それでも俺たちは、その先へ進まない。進めないというほうが正しいのかもしれなかった。
夏休みが終わり、二学期が始まる頃には、クラスの中でも俺たちが一緒にいることはすっかり当たり前になっていた。文化祭の準備で放課後に教室へ残っていると、クラスメイトの男子が俺たちを見て笑う。
「お前ら、また二人で残ってるの?」
「準備してるだけだよ」
「本当に?」
「本当」
「じゃあ、付き合ってないんだ?」
「付き合ってないよ」
俺が答えると、隣で飾りを作っていた白石も頷いた。
「そうだよ。付き合ってない」
「でも、毎日一緒にいるじゃん」
「友達だから」
「友達ねえ」
「何?」
「いや、別に」
男子は笑いながら教室を出ていった。扉が閉まると、白石が小さく息を吐いた。
「また言われたね」
「最近、多いな」
「桐生くん、嫌だった?」
「何が?」
「付き合ってるって言われるの」
「……別に」
「私は、ちょっとだけ嬉しいけど」
「え?」
「何でもない」
白石はすぐに作業へ戻った。俺は手元の作業に目を戻せなかった。
嬉しい。
さっき、白石はそう言った。どういう意味なのか聞きたかった。でも、聞いたら最後、今の関係を元に戻せなくなる気がした。だから何も言わなかった。
名前を呼ばないという約束は、いつの間にか俺たちが言葉にできないことまで増やしていく。
秋が深まり、文化祭が終わった頃には、俺たちは以前よりもさらに近い関係になっていた。
それでも、名前だけは呼ばない。
そんなある日の帰り道、空から白いものが落ちてきた。最初は雪だと気づかないほど小さな粒だったが、駅へ向かう頃には歩道を白く染め始めていた。俺たちは傘を並べて歩いていたが、横断歩道の手前で白石の足が滑った。
「危ない!」
反射的に手を伸ばすと、白石の身体が俺のほうへ傾いた。俺はその腕を掴み、何とか転ばずに支える。傘から落ちた雪が制服の肩に積もり、白石は驚いた顔で俺を見上げていた。
「大丈夫?」
「う、うん……」
「怪我してない?」
「大丈夫。ありがとう、桐生くん」
「よかった」
俺が手を離そうとした瞬間、白石の唇がわずかに動いた。
「なお……」
その声は雪の音に消えそうなくらい小さかった。それでも、俺には聞こえた。絶対に聞き間違えではなかった。
白石も自分が何を言いかけたのか分かったらしく、目を見開いたまま黙り込んでいる。
今、彼女は俺の名前を呼ぼうとした。約束を忘れたわけじゃない。 たぶん、ほんの一瞬、考えるより先に口から出てしまっただけだ。それなのに、俺はその一音を聞いただけで、頭の中がいっぱいになった。
白石がゆっくりと手を引き、傘を握り直す。
「……今の……忘れて」
「うん」
「絶対だよ」
「分かった」
「約束だから」
「分かってる」
再び歩き始めた俺たちの間には、さっきまでとは違う空気が流れていた。俺は隣を歩く白石を見ないようにしていた。見たら、何か聞いてしまいそうだったから。
さっきのは何だったのか。
どうして名前を呼びそうになったのか。
聞きたいことはいくつもあった。でも、聞けなかった。頭の中では、白石が口にしかけた「なお」という二文字だけが何度も繰り返されている。
自分の名前を呼んでほしい。それだけなのに、今の俺たちには、それができないのだ。
名前を呼ばない。それが俺たちの約束だった。でも、あの一瞬だけは、名前を呼ばれることがこんなにも嬉しいのだと分かってしまった。
そして同時に、俺自身も白石の名前を呼びたくなっていた。今まで我慢できていたはずなのに、一度聞いてしまっただけで、急に難しくなった。
名前を呼ばないという約束は、俺たちの距離を守ってくれている。
そのはずだった。なのに、その約束を守っているせいで、俺は白石との距離を今まで以上に意識するようになっていた。