僕が君の名前を呼ばなかった一年間
第04話 卒業が近づく
高校三年生になった春、教室の窓から見える景色は去年とほとんど変わっていなかった。校庭では、新しいクラスになった生徒たちが、それぞれの友達と話しながら行き交っている。俺は窓際の席からそんな様子を眺めたあと、少し離れたところにいる白石へ目を向けた。
進級してクラス替えがあったのに、俺たちはまた同じクラスになった。ただ、今年は席が離れている。去年は隣だったから、朝教室へ入れば自然と白石の姿が目に入った。それが当たり前になっていたせいか、少し離れた席から見る白石は、妙に遠く感じた。
高校生活は残り一年しかない。そして白石にとっては、その一年が終われば、この街を離れることになる。去年の春に交わした約束も、まだ続いていた。俺たちは名前を呼ばない。恋人にもならない。それでも毎日のように一緒にいる。
席が離れたことで、俺はそのことを改めて意識するようになった。去年なら、授業が終われば自然と隣から声が飛んできた。今は、休み時間になって白石のほうから俺のところへ来てくれるのを待つことになる。たったそれだけの違いなのに、俺には妙に寂しく感じられた。
「また同じクラスだね、桐生くん」
いつの間にか、白石が俺の机の横に立っていた。
「そうだな」
「去年も一緒だったし、今年も一緒。すごくない?」
「確率的には別に珍しくないだろ」
「そういうところ、桐生くんらしい」
「何だよ、それ」
「嬉しいって言えばいいのに」
「……嬉しいよ」
「ふふっ。私も」
白石が笑う。その笑顔を見ていると、俺も自然に笑ってしまう。席が離れていても、こうして話しかけてくれる。それだけで少し安心した。
去年なら、同じクラスになれたことだけで素直に喜べたかもしれない。今は、その喜びのすぐ隣に寂しさがある。今年が最後になるかもしれない。来年の春には、この教室から白石がいなくなる。昼休みに一緒に過ごすことも、放課後に図書室へ行くことも、帰り道にくだらない話をすることもなくなる。
そんなことを考えていると、白石が俺の顔を覗き込んできた。
「桐生くん」
「ん?」
「今年も、いっぱい遊ぼうね」
「勉強もしろよ」
「もちろん。遊ぶほうを先に言っただけ」
「受験生なんだから、そこは逆だろ」
「じゃあ、勉強してから遊ぶ」
「それならいい」
「約束ね」
その言葉に、俺は小さく頷いた。「約束」という言葉を聞くと、去年の春に交わしたものが自然と頭に浮かぶ。。
名前を呼ばない。
恋人にならない。
卒業式まで、この関係を守る。
それが俺たちの決めたこと。
ただ、三年生になった今、その約束を守ることは去年より難しくなっている。俺はもう、自分の気持ちをごまかせない。
白石が好きなんだ。
隣にいるだけで嬉しいし、他の男子と楽しそうに話していると面白くない。名前を呼びたいと思うことも増えた。去年の冬、雪の日に彼女が俺の名前を口にしかけた瞬間から、その気持ちはさらに強くなっていた。
しかも今年は席が離れているせいで、俺から白石を探してしまうことが増えた。授業中、何気なく顔を上げると白石の姿を探している。休み時間になれば、友達と話している白石を目で追ってしまう。去年なら隣にいたから気づかなかったことだった。
五月、最後の体育祭が近づくと、クラスは準備で慌ただしくなった。放課後の教室では競技の順番や応援の練習について話し合い、白石はクラスの女子たちと楽しそうに笑っている。俺は男子側の準備をしながら、その姿を何度も目で追ってしまった。
白石と目が合うと、彼女はすぐに笑って手を振った。俺も手を上げて返す。席が離れているから、去年よりこういうやり取りが増えた気がする。そんな小さなことで嬉しくなる自分に、少し呆れてしまう。
ところが、休憩中に男子の一人が白石へ話しかけると、俺は無意識にそちらを見てしまう。二人は競技について話しているだけだ。それなのに、胸の中に小さな苛立ちが生まれる。
自分でも何を気にしているのか分からず、俺は持っていた飲み物を一口飲んだ。
すると、白石がこちらへ戻ってきた。
「桐生くん、どうしたの?」
「何が?」
「さっきからこっち見てたでしょ」
「見てない」
「見てたよ」
「……少しだけ」
「何か気になった?」
「別に」
「またそれ?」
「本当に何でもない」
「ふーん」
白石は納得していない顔をしながら俺の隣に座った。自分の席からわざわざ離れて俺のところへ来る。そのことが、さっきまでの苛立ちを少しだけ消してくれた。
「高校最後の体育祭だね」
「そうだな」
「去年も一緒だったよね」
「覚えてる」
「私、最後まで走るの嫌だったな」
「途中で諦めてたもんな」
「ひどい。あれは作戦だよ」
「作戦?」
「みんなに抜かれたら、目立たないでしょ」
「最初から負ける作戦なんて聞いたことない」
「でも、桐生くんが笑ったから成功」
「何だそれ」
「私が失敗しても、桐生くんが笑ってくれたからいいの」
その言葉に、俺は返事ができなかった。白石は冗談のつもりだったのかもしれない。でも、俺にとっては、その一言が妙に嬉しかった。
最後の体育祭。
最後の文化祭。
最後の定期試験。
最近、白石は何かにつけて「最後」という言葉を口にするようになった。そのたびに、俺は残り時間を意識してしまう。そして、数えれば数えるほど、今の関係を終わらせたくないという気持ちが強くなっていった。
夏が過ぎ、文化祭の準備が始まった頃には、俺たちの間にある空気も少し変わっていた。去年と同じように遅くまで教室に残り、飾りつけをしながら話をする。
席は離れているのに、放課後になるといつの間にか同じ場所にいる。去年とは違う形でも、俺たちの距離は変わらなかった
「今年が最後なんだね」
白石がふと窓の外を見て「今年で最後なんだね」と言うたび、俺は笑えなくなっていた。
「そうだな」
「去年は、来年もあるって思ってた」
「俺も」
「でも、来年はないんだよね」
「……そうだな」
「桐生くんは、寂しくない?」
「寂しいよ」
「そっか」
「白石は?」
「寂しい」
白石はそう言って笑う。その笑顔がいつもより少しだけ寂しそうで、俺は何も言えなくなった。
俺たちは同じことを考えているのだと思う。卒業したくない。このまま一緒にいたい。名前を呼びたい。好きだと言いたい。でも、その先には白石がこの町を離れる日が待っている。
「ねえ、桐生くん」
「何?」
「私たちって、変だよね」
「今さらだろ」
「そうだよね」
「名前も呼ばないし、付き合ってもいないのに、こんなに一緒にいる」
「うん」
「普通なら、どっちかが嫌になってる」
「私は嫌じゃないよ」
「俺も」
「……よかった」
白石が窓の外へ顔を向ける。その横顔を見ながら、俺は胸の奥にある言葉を必死に押し込めた。
好きだと言いたかった。
今すぐ名前を呼びたかった。
でも、それを口にすれば、去年から二人で守ってきた約束が終わってしまう気がした。俺は白石の気持ちを知っている。彼女も俺の気持ちを知っている。それでも二人とも、言葉にはしない。
名前を呼ばないことで、恋人にならないことで、俺たちは残された時間を少しでも長く感じていたかった。
「ねえ、桐生くん」
「ん?」
「卒業まで、ちゃんと一緒にいてね」
「……当たり前だろ」
「最後まで?」
「最後まで」
「約束してくれる?」
「約束する」
白石は満足そうに笑った。俺も笑って頷いた。そのときは、それでいいと思った。卒業まで一緒にいる。それだけは、何があっても守りたいと思った。
冬が近づくにつれ、時間の流れはさらに速くなった。最後の定期試験が終わり、教室では卒業後の進路について話す生徒が増えていく。白石も海外の大学へ進学する準備を進めていた。俺はその話を聞くたびに、遠い場所へ行ってしまう彼女を想像してしまう。それでも、本人の前では明るく振る舞った。ある日の放課後、図書室で勉強を終えた白石が参考書を閉じた。
「終わったね」
「何が?」
「高校二年のときから、こうして一緒に勉強してきたでしょ」
「まだ卒業してない」
「分かってる。でも、もう三学期だよ」
「そうだな」
「残り、少ないね」
俺は何も答えなかった。俺はその横顔を見ながら、もう一度、自分の気持ちを確かめていた。
卒業したくない。
白石と離れたくない。
名前を呼びたい。
好きだと言いたい。
恋人になりたい。
それでも、白石との約束を破ることはできなかった。
「桐生くん」
「何?」
「卒業式って、一番最後なんだよね」
「……そうだな」
「じゃあ、それまでは一緒にいようね」
「ああ」
「絶対だよ」
「約束する」
白石は笑った。その笑顔を見ながら、俺は自分の胸にある想いをもう一度押し込めた。高校生活の最後まで、俺たちは名前を呼ばない。そう決めていた。
だけど、卒業が近づけば近づくほど、その約束を守ることが苦しくなっている。
名前を呼ばないことが、俺たちを繋いでいるのか。それとも、白石がこの町を離れる日を、少しでも先へ延ばしているだけなのか。
俺には、もう分からない。それでも、白石の隣を歩く。
離れている席からでも、放課後になれば自然と同じ場所にいる。去年とは違う一年を過ごしながら、それでも俺たちは変わらない関係を続けていた。
卒業式まで、あと少しだった。
進級してクラス替えがあったのに、俺たちはまた同じクラスになった。ただ、今年は席が離れている。去年は隣だったから、朝教室へ入れば自然と白石の姿が目に入った。それが当たり前になっていたせいか、少し離れた席から見る白石は、妙に遠く感じた。
高校生活は残り一年しかない。そして白石にとっては、その一年が終われば、この街を離れることになる。去年の春に交わした約束も、まだ続いていた。俺たちは名前を呼ばない。恋人にもならない。それでも毎日のように一緒にいる。
席が離れたことで、俺はそのことを改めて意識するようになった。去年なら、授業が終われば自然と隣から声が飛んできた。今は、休み時間になって白石のほうから俺のところへ来てくれるのを待つことになる。たったそれだけの違いなのに、俺には妙に寂しく感じられた。
「また同じクラスだね、桐生くん」
いつの間にか、白石が俺の机の横に立っていた。
「そうだな」
「去年も一緒だったし、今年も一緒。すごくない?」
「確率的には別に珍しくないだろ」
「そういうところ、桐生くんらしい」
「何だよ、それ」
「嬉しいって言えばいいのに」
「……嬉しいよ」
「ふふっ。私も」
白石が笑う。その笑顔を見ていると、俺も自然に笑ってしまう。席が離れていても、こうして話しかけてくれる。それだけで少し安心した。
去年なら、同じクラスになれたことだけで素直に喜べたかもしれない。今は、その喜びのすぐ隣に寂しさがある。今年が最後になるかもしれない。来年の春には、この教室から白石がいなくなる。昼休みに一緒に過ごすことも、放課後に図書室へ行くことも、帰り道にくだらない話をすることもなくなる。
そんなことを考えていると、白石が俺の顔を覗き込んできた。
「桐生くん」
「ん?」
「今年も、いっぱい遊ぼうね」
「勉強もしろよ」
「もちろん。遊ぶほうを先に言っただけ」
「受験生なんだから、そこは逆だろ」
「じゃあ、勉強してから遊ぶ」
「それならいい」
「約束ね」
その言葉に、俺は小さく頷いた。「約束」という言葉を聞くと、去年の春に交わしたものが自然と頭に浮かぶ。。
名前を呼ばない。
恋人にならない。
卒業式まで、この関係を守る。
それが俺たちの決めたこと。
ただ、三年生になった今、その約束を守ることは去年より難しくなっている。俺はもう、自分の気持ちをごまかせない。
白石が好きなんだ。
隣にいるだけで嬉しいし、他の男子と楽しそうに話していると面白くない。名前を呼びたいと思うことも増えた。去年の冬、雪の日に彼女が俺の名前を口にしかけた瞬間から、その気持ちはさらに強くなっていた。
しかも今年は席が離れているせいで、俺から白石を探してしまうことが増えた。授業中、何気なく顔を上げると白石の姿を探している。休み時間になれば、友達と話している白石を目で追ってしまう。去年なら隣にいたから気づかなかったことだった。
五月、最後の体育祭が近づくと、クラスは準備で慌ただしくなった。放課後の教室では競技の順番や応援の練習について話し合い、白石はクラスの女子たちと楽しそうに笑っている。俺は男子側の準備をしながら、その姿を何度も目で追ってしまった。
白石と目が合うと、彼女はすぐに笑って手を振った。俺も手を上げて返す。席が離れているから、去年よりこういうやり取りが増えた気がする。そんな小さなことで嬉しくなる自分に、少し呆れてしまう。
ところが、休憩中に男子の一人が白石へ話しかけると、俺は無意識にそちらを見てしまう。二人は競技について話しているだけだ。それなのに、胸の中に小さな苛立ちが生まれる。
自分でも何を気にしているのか分からず、俺は持っていた飲み物を一口飲んだ。
すると、白石がこちらへ戻ってきた。
「桐生くん、どうしたの?」
「何が?」
「さっきからこっち見てたでしょ」
「見てない」
「見てたよ」
「……少しだけ」
「何か気になった?」
「別に」
「またそれ?」
「本当に何でもない」
「ふーん」
白石は納得していない顔をしながら俺の隣に座った。自分の席からわざわざ離れて俺のところへ来る。そのことが、さっきまでの苛立ちを少しだけ消してくれた。
「高校最後の体育祭だね」
「そうだな」
「去年も一緒だったよね」
「覚えてる」
「私、最後まで走るの嫌だったな」
「途中で諦めてたもんな」
「ひどい。あれは作戦だよ」
「作戦?」
「みんなに抜かれたら、目立たないでしょ」
「最初から負ける作戦なんて聞いたことない」
「でも、桐生くんが笑ったから成功」
「何だそれ」
「私が失敗しても、桐生くんが笑ってくれたからいいの」
その言葉に、俺は返事ができなかった。白石は冗談のつもりだったのかもしれない。でも、俺にとっては、その一言が妙に嬉しかった。
最後の体育祭。
最後の文化祭。
最後の定期試験。
最近、白石は何かにつけて「最後」という言葉を口にするようになった。そのたびに、俺は残り時間を意識してしまう。そして、数えれば数えるほど、今の関係を終わらせたくないという気持ちが強くなっていった。
夏が過ぎ、文化祭の準備が始まった頃には、俺たちの間にある空気も少し変わっていた。去年と同じように遅くまで教室に残り、飾りつけをしながら話をする。
席は離れているのに、放課後になるといつの間にか同じ場所にいる。去年とは違う形でも、俺たちの距離は変わらなかった
「今年が最後なんだね」
白石がふと窓の外を見て「今年で最後なんだね」と言うたび、俺は笑えなくなっていた。
「そうだな」
「去年は、来年もあるって思ってた」
「俺も」
「でも、来年はないんだよね」
「……そうだな」
「桐生くんは、寂しくない?」
「寂しいよ」
「そっか」
「白石は?」
「寂しい」
白石はそう言って笑う。その笑顔がいつもより少しだけ寂しそうで、俺は何も言えなくなった。
俺たちは同じことを考えているのだと思う。卒業したくない。このまま一緒にいたい。名前を呼びたい。好きだと言いたい。でも、その先には白石がこの町を離れる日が待っている。
「ねえ、桐生くん」
「何?」
「私たちって、変だよね」
「今さらだろ」
「そうだよね」
「名前も呼ばないし、付き合ってもいないのに、こんなに一緒にいる」
「うん」
「普通なら、どっちかが嫌になってる」
「私は嫌じゃないよ」
「俺も」
「……よかった」
白石が窓の外へ顔を向ける。その横顔を見ながら、俺は胸の奥にある言葉を必死に押し込めた。
好きだと言いたかった。
今すぐ名前を呼びたかった。
でも、それを口にすれば、去年から二人で守ってきた約束が終わってしまう気がした。俺は白石の気持ちを知っている。彼女も俺の気持ちを知っている。それでも二人とも、言葉にはしない。
名前を呼ばないことで、恋人にならないことで、俺たちは残された時間を少しでも長く感じていたかった。
「ねえ、桐生くん」
「ん?」
「卒業まで、ちゃんと一緒にいてね」
「……当たり前だろ」
「最後まで?」
「最後まで」
「約束してくれる?」
「約束する」
白石は満足そうに笑った。俺も笑って頷いた。そのときは、それでいいと思った。卒業まで一緒にいる。それだけは、何があっても守りたいと思った。
冬が近づくにつれ、時間の流れはさらに速くなった。最後の定期試験が終わり、教室では卒業後の進路について話す生徒が増えていく。白石も海外の大学へ進学する準備を進めていた。俺はその話を聞くたびに、遠い場所へ行ってしまう彼女を想像してしまう。それでも、本人の前では明るく振る舞った。ある日の放課後、図書室で勉強を終えた白石が参考書を閉じた。
「終わったね」
「何が?」
「高校二年のときから、こうして一緒に勉強してきたでしょ」
「まだ卒業してない」
「分かってる。でも、もう三学期だよ」
「そうだな」
「残り、少ないね」
俺は何も答えなかった。俺はその横顔を見ながら、もう一度、自分の気持ちを確かめていた。
卒業したくない。
白石と離れたくない。
名前を呼びたい。
好きだと言いたい。
恋人になりたい。
それでも、白石との約束を破ることはできなかった。
「桐生くん」
「何?」
「卒業式って、一番最後なんだよね」
「……そうだな」
「じゃあ、それまでは一緒にいようね」
「ああ」
「絶対だよ」
「約束する」
白石は笑った。その笑顔を見ながら、俺は自分の胸にある想いをもう一度押し込めた。高校生活の最後まで、俺たちは名前を呼ばない。そう決めていた。
だけど、卒業が近づけば近づくほど、その約束を守ることが苦しくなっている。
名前を呼ばないことが、俺たちを繋いでいるのか。それとも、白石がこの町を離れる日を、少しでも先へ延ばしているだけなのか。
俺には、もう分からない。それでも、白石の隣を歩く。
離れている席からでも、放課後になれば自然と同じ場所にいる。去年とは違う一年を過ごしながら、それでも俺たちは変わらない関係を続けていた。
卒業式まで、あと少しだった。