僕が君の名前を呼ばなかった一年間
第05話 卒業式
卒業式の朝、いつもより早く目が覚めた。窓の外には三月の薄い空が広がっていて、カーテンの隙間から差し込む光も、普段の朝とは少し違って見えた。
それなのに、「今日」という日が来るまでは、どこか他人事のように考えていたのかもしれない。制服を着るのも今日が最後だと思った途端、胸の奥に今まで感じたことのない重さが残った。
学校へ向かう道を歩いていると、去年の春から今までのことが次々と頭に浮かんでくる。
初めて白石と話した日のこと。
授業中に教師に見つからないようメモを交換したこと。
昼休みに一緒に弁当を食べたこと。
放課後になると図書室へ向かい、くだらない話をしながら勉強したこと。
文化祭の準備で遅くまで教室に残ったこと。
雪の日、白石が俺の名前を呼びかけたこと。
そして、あの日から今日まで、一度も口にしなかった名前。
俺たちは好きだと分かっていながら、恋人にはならなかった。名前を呼びたいと思いながら、それも我慢してきた。そんな一年間が、今日で終わる。そう考えても、卒業式が終わったあとに白石とどうなるのかだけは、まだ想像できなかった。
「桐生くん、おはよう」
「おはよう、白石」
「早いね」
「今日は卒業式だからな」
「そうだね。なんか変な感じ」
「白石も?」
「うん。毎日来てた学校なのに、今日で終わりなんだって思うと、まだ信じられない」
「俺も同じだよ」
昇降口の前では、卒業生たちが友達と写真を撮ったり、先生に声をかけたりしている。いつもの朝なら眠そうに校舎へ入っていくだけなのに、今日は誰もが少し浮かれている。
そんな中で白石と並んで歩いていると、不思議と去年の朝と同じような気分になった。違うのは、今日が最後だということだけだ。
教室へ向かう途中、白石が俺の歩幅に合わせて歩いていることに気づいた。普段なら気にも留めないことなのに、今日はそれだけで胸が苦しくなる。この廊下を白石と並んで歩くことも、あと何回あるのだろう。そんな考えが浮かんだ瞬間、俺は慌てて別のことを考えようとして首を振る。
教室に入ると、机や椅子の配置はいつもと変わらない。それなのに、そこにいる全員が少しだけ違って見える。黒板には卒業を祝う言葉が書かれ、教卓には花が飾られている。担任が最後の連絡をしている間も、教室のあちこちから笑い声が聞こえていた。
三年生になってから白石の席は俺の席から離れていた。それでも休み時間になれば自然とこちらへ来てくれたし、放課後になれば一緒に図書室へ向かった。席が離れていても、俺たちの距離が変わることはなかった。
そんなことを考えていると、白石が卒業証書を入れる筒を何度も確認しているのが目に入った。俺はそれを見ながら、去年の春に初めて彼女と話した日のことを思い出した。
あのときは、こんな一年になるなんて思っていなかった。まして、好きになった相手と名前すら呼ばないまま卒業の日を迎えるなんて、あの日の俺には想像もできなかった。
「桐生くん」
「ん?」
「写真、撮らない?」
「写真?」
「うん。卒業式のあとだと、みんなに囲まれそうだから」
「今でいいのか?」
「今がいい」
白石はそう言ってスマートフォンを取り出した。俺たちは教室の窓際に並び、近くにいたクラスメイトへ撮影を頼んだ。
シャッター音が鳴る。画面の中には、少し緊張した顔で並んでいる俺と白石が写っていた。たった一枚の写真なのに、妙に胸へ引っかかる。今日のために撮った写真なのだから、これが高校生活最後の一枚になるのかもしれない。そう思うと、笑っている自分の顔まで少し寂しく見えた。
「見せて」
「どう?」
「桐生くん、顔固い」
「白石もだろ」
「私は緊張してるだけ」
「俺も同じだよ」
「じゃあ、もう一枚撮ろう」
「今度は笑えよ」
「桐生くんもね」
もう一度シャッターが鳴った。今度は二人とも少し笑っていた。
白石が画面を見ながら笑っている。その横顔を見ていると、この先もこの笑顔を見ていたいという気持ちが強くなった。でも、その『この先』に白石がいないことを思うと、胸の奥が締めつけられ、苦しくなる。
卒業式が終わり、教室へ戻ると、クラスメイトたちは最後の時間を惜しむように話している。先生へ花束を渡す生徒もいれば、友達同士で写真を撮る生徒もいる。俺も何人かの友人と話し、卒業後の予定を聞かれた。笑って答えているうちに時間はどんどん過ぎていく。
さっきまで騒がしかった教室も、一人、また一人と生徒が帰っていくにつれて静かになっていった。気づけば、残っているのはほんの数人になっている。
俺が荷物をまとめていると、白石が自分の机の横で立ち止まった。
「桐生くん」
「どうした?」
「もう、みんな帰っちゃうね」
「そうだな」
「私たちも帰る?」
「……もう少し、ここにいてもいいんじゃないか」
「うん」
それから俺たちは、誰もいなくなりかけた教室に残った。やがて廊下から聞こえていた話し声も消え、窓の外から聞こえる運動部の声もない。いつもなら誰かの話し声が聞こえているはずの教室が、今日は妙に広く感じられた。
「終わっちゃったね」
「一年間、長かったような短かったような感じだな」
「うん。すごく長かった気もする」
「でも、あっという間だった」
「そうだね」
白石は窓の外を見たまま、しばらく黙っていた。俺も隣へ歩いていく。校庭にはもうほとんど人がいない。桜のつぼみが少しずつ膨らみ始めていて、春が近づいていることが分かる。
その景色を見ていると、去年の春が重なって見えた。
初めて話した日のこと。
名前を呼ばないでほしいと言われたこと。
理由を聞いても教えてもらえなかったこと。
そして、気づけば俺のほうが白石を好きになっていたこと。
たった一年間なのに、思い出せばいくらでも出てくる。
「桐生くん」
「何?」
「一年間、ありがとう」
「こっちこそ」
「楽しかった」
「俺も」
「本当に?」
「本当だよ」
「そっか……よかった」
いつものように白石は笑う。その笑顔を見た瞬間、俺は白石の目に涙が浮かんでいることに気づいた。いつものように笑っているのに、目だけが泣きそうになっている。
泣かないでほしいと思う。でも、そんなことを言える立場でもない。俺だって、今すぐ泣きそうだったから。
白石は何度か瞬きをするが、それでも堪えきれなかったのか、一粒だけ涙が頬を伝った。
「ごめん」
「何で謝るんだよ」
「泣くつもりなかったの」
「俺だって同じだよ」
「桐生くんは泣いてないじゃん」
「我慢してるだけ」
「じゃあ、私も我慢する」
「無理しなくていい」
「……優しいね」
「今さらだろ」
白石は涙を拭って笑った。
その顔を見ているうちに、俺の中でずっと押し込めていた言葉が次々と浮かんできた。
好きだった。
ずっと好きだった。
離れたくない。
名前を呼びたい。
卒業しても一緒にいたい。
恋人になりたい。
どれも、今日なら言ってしまっていい気がした。もう卒業なのだから、約束を守る理由なんてない。そう思う自分もいた。
でも、白石はこの一年間、ずっと約束を大切にしてきた。だからこそ、最後の最後で俺からそれを壊すことはできなかった。
「私、本当は……」
白石が口を開く。
「……」
俺は何も言わずに待った。
「ううん。何でもない」
「そっか」
「聞かないの?」
「聞かないほうがいいこともあるだろ」
「……うん」
何を言おうとしたのか、俺には分かっていた。たぶん、俺が言いたいことと同じだ。だからこそ、聞かないほうがいいと思った。
聞いてしまえば、二人とも言葉を止められなくなる。
好きだと言ってしまう。
名前を呼んでしまう。
そうなれば、去年の春から今日まで守ってきた約束は、その瞬間に終わる。だから俺たちは、最後まで何も言わなかった。
廊下には誰もいない。階段を下りれば、もう二度とこの学校へ同じ気持ちで戻ってくることはない。昇降口へ向かう途中、二人同時に足を止める。
「桐生くん」
「ん?」
「さようなら」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に押し込めていたものが一気に溢れそうになった。それでも俺は、何とか頷き返す。
「さようなら」
白石は笑っていた。泣きながら、それでも最後まで笑おうとしていた。そして俺に背を向け、ゆっくりと歩いていく。俺はその背中を見つめたまま、名前を呼ばなかった。
呼べなかった。
呼びたかった。
でも、あの一年間を最後まで一緒に守ったということだけは、白石に残してやりたかった。
やがて白石が校門の向こうへ消え、俺は一人でその場に立っていた。
本当に終わったのだ。高校生活も、この一年間も、白石と交わした約束も、全部終わった。そう思った途端、今まで我慢していたものが一気に込み上げてくる。
俺はその場から離れ、誰もいなくなった教室まで戻ると、さっきまで白石がいた場所を見つめる。ついさっきまで二人で話していたのに、もう俺しかいない。
俺はしばらく何もせずに立っていた。それから、誰にも聞かれないことを確かめるように、小さく息を吐いた。
「美咲……」
声にした名前は、驚くほど小さかった。返事はない。
それでも、もう一度呼びたかった。
「美咲」
今度は、さっきより少しだけはっきり声にした。一度くらい、ちゃんと呼びたかった。ずっと呼びたかった名前なのだから。
約束は守った。最後まで、白石の名前を呼ばなかった。
それなのに、どうしてこんなに苦しいのか。
その答えだけは、俺には分からなかった。
それなのに、「今日」という日が来るまでは、どこか他人事のように考えていたのかもしれない。制服を着るのも今日が最後だと思った途端、胸の奥に今まで感じたことのない重さが残った。
学校へ向かう道を歩いていると、去年の春から今までのことが次々と頭に浮かんでくる。
初めて白石と話した日のこと。
授業中に教師に見つからないようメモを交換したこと。
昼休みに一緒に弁当を食べたこと。
放課後になると図書室へ向かい、くだらない話をしながら勉強したこと。
文化祭の準備で遅くまで教室に残ったこと。
雪の日、白石が俺の名前を呼びかけたこと。
そして、あの日から今日まで、一度も口にしなかった名前。
俺たちは好きだと分かっていながら、恋人にはならなかった。名前を呼びたいと思いながら、それも我慢してきた。そんな一年間が、今日で終わる。そう考えても、卒業式が終わったあとに白石とどうなるのかだけは、まだ想像できなかった。
「桐生くん、おはよう」
「おはよう、白石」
「早いね」
「今日は卒業式だからな」
「そうだね。なんか変な感じ」
「白石も?」
「うん。毎日来てた学校なのに、今日で終わりなんだって思うと、まだ信じられない」
「俺も同じだよ」
昇降口の前では、卒業生たちが友達と写真を撮ったり、先生に声をかけたりしている。いつもの朝なら眠そうに校舎へ入っていくだけなのに、今日は誰もが少し浮かれている。
そんな中で白石と並んで歩いていると、不思議と去年の朝と同じような気分になった。違うのは、今日が最後だということだけだ。
教室へ向かう途中、白石が俺の歩幅に合わせて歩いていることに気づいた。普段なら気にも留めないことなのに、今日はそれだけで胸が苦しくなる。この廊下を白石と並んで歩くことも、あと何回あるのだろう。そんな考えが浮かんだ瞬間、俺は慌てて別のことを考えようとして首を振る。
教室に入ると、机や椅子の配置はいつもと変わらない。それなのに、そこにいる全員が少しだけ違って見える。黒板には卒業を祝う言葉が書かれ、教卓には花が飾られている。担任が最後の連絡をしている間も、教室のあちこちから笑い声が聞こえていた。
三年生になってから白石の席は俺の席から離れていた。それでも休み時間になれば自然とこちらへ来てくれたし、放課後になれば一緒に図書室へ向かった。席が離れていても、俺たちの距離が変わることはなかった。
そんなことを考えていると、白石が卒業証書を入れる筒を何度も確認しているのが目に入った。俺はそれを見ながら、去年の春に初めて彼女と話した日のことを思い出した。
あのときは、こんな一年になるなんて思っていなかった。まして、好きになった相手と名前すら呼ばないまま卒業の日を迎えるなんて、あの日の俺には想像もできなかった。
「桐生くん」
「ん?」
「写真、撮らない?」
「写真?」
「うん。卒業式のあとだと、みんなに囲まれそうだから」
「今でいいのか?」
「今がいい」
白石はそう言ってスマートフォンを取り出した。俺たちは教室の窓際に並び、近くにいたクラスメイトへ撮影を頼んだ。
シャッター音が鳴る。画面の中には、少し緊張した顔で並んでいる俺と白石が写っていた。たった一枚の写真なのに、妙に胸へ引っかかる。今日のために撮った写真なのだから、これが高校生活最後の一枚になるのかもしれない。そう思うと、笑っている自分の顔まで少し寂しく見えた。
「見せて」
「どう?」
「桐生くん、顔固い」
「白石もだろ」
「私は緊張してるだけ」
「俺も同じだよ」
「じゃあ、もう一枚撮ろう」
「今度は笑えよ」
「桐生くんもね」
もう一度シャッターが鳴った。今度は二人とも少し笑っていた。
白石が画面を見ながら笑っている。その横顔を見ていると、この先もこの笑顔を見ていたいという気持ちが強くなった。でも、その『この先』に白石がいないことを思うと、胸の奥が締めつけられ、苦しくなる。
卒業式が終わり、教室へ戻ると、クラスメイトたちは最後の時間を惜しむように話している。先生へ花束を渡す生徒もいれば、友達同士で写真を撮る生徒もいる。俺も何人かの友人と話し、卒業後の予定を聞かれた。笑って答えているうちに時間はどんどん過ぎていく。
さっきまで騒がしかった教室も、一人、また一人と生徒が帰っていくにつれて静かになっていった。気づけば、残っているのはほんの数人になっている。
俺が荷物をまとめていると、白石が自分の机の横で立ち止まった。
「桐生くん」
「どうした?」
「もう、みんな帰っちゃうね」
「そうだな」
「私たちも帰る?」
「……もう少し、ここにいてもいいんじゃないか」
「うん」
それから俺たちは、誰もいなくなりかけた教室に残った。やがて廊下から聞こえていた話し声も消え、窓の外から聞こえる運動部の声もない。いつもなら誰かの話し声が聞こえているはずの教室が、今日は妙に広く感じられた。
「終わっちゃったね」
「一年間、長かったような短かったような感じだな」
「うん。すごく長かった気もする」
「でも、あっという間だった」
「そうだね」
白石は窓の外を見たまま、しばらく黙っていた。俺も隣へ歩いていく。校庭にはもうほとんど人がいない。桜のつぼみが少しずつ膨らみ始めていて、春が近づいていることが分かる。
その景色を見ていると、去年の春が重なって見えた。
初めて話した日のこと。
名前を呼ばないでほしいと言われたこと。
理由を聞いても教えてもらえなかったこと。
そして、気づけば俺のほうが白石を好きになっていたこと。
たった一年間なのに、思い出せばいくらでも出てくる。
「桐生くん」
「何?」
「一年間、ありがとう」
「こっちこそ」
「楽しかった」
「俺も」
「本当に?」
「本当だよ」
「そっか……よかった」
いつものように白石は笑う。その笑顔を見た瞬間、俺は白石の目に涙が浮かんでいることに気づいた。いつものように笑っているのに、目だけが泣きそうになっている。
泣かないでほしいと思う。でも、そんなことを言える立場でもない。俺だって、今すぐ泣きそうだったから。
白石は何度か瞬きをするが、それでも堪えきれなかったのか、一粒だけ涙が頬を伝った。
「ごめん」
「何で謝るんだよ」
「泣くつもりなかったの」
「俺だって同じだよ」
「桐生くんは泣いてないじゃん」
「我慢してるだけ」
「じゃあ、私も我慢する」
「無理しなくていい」
「……優しいね」
「今さらだろ」
白石は涙を拭って笑った。
その顔を見ているうちに、俺の中でずっと押し込めていた言葉が次々と浮かんできた。
好きだった。
ずっと好きだった。
離れたくない。
名前を呼びたい。
卒業しても一緒にいたい。
恋人になりたい。
どれも、今日なら言ってしまっていい気がした。もう卒業なのだから、約束を守る理由なんてない。そう思う自分もいた。
でも、白石はこの一年間、ずっと約束を大切にしてきた。だからこそ、最後の最後で俺からそれを壊すことはできなかった。
「私、本当は……」
白石が口を開く。
「……」
俺は何も言わずに待った。
「ううん。何でもない」
「そっか」
「聞かないの?」
「聞かないほうがいいこともあるだろ」
「……うん」
何を言おうとしたのか、俺には分かっていた。たぶん、俺が言いたいことと同じだ。だからこそ、聞かないほうがいいと思った。
聞いてしまえば、二人とも言葉を止められなくなる。
好きだと言ってしまう。
名前を呼んでしまう。
そうなれば、去年の春から今日まで守ってきた約束は、その瞬間に終わる。だから俺たちは、最後まで何も言わなかった。
廊下には誰もいない。階段を下りれば、もう二度とこの学校へ同じ気持ちで戻ってくることはない。昇降口へ向かう途中、二人同時に足を止める。
「桐生くん」
「ん?」
「さようなら」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に押し込めていたものが一気に溢れそうになった。それでも俺は、何とか頷き返す。
「さようなら」
白石は笑っていた。泣きながら、それでも最後まで笑おうとしていた。そして俺に背を向け、ゆっくりと歩いていく。俺はその背中を見つめたまま、名前を呼ばなかった。
呼べなかった。
呼びたかった。
でも、あの一年間を最後まで一緒に守ったということだけは、白石に残してやりたかった。
やがて白石が校門の向こうへ消え、俺は一人でその場に立っていた。
本当に終わったのだ。高校生活も、この一年間も、白石と交わした約束も、全部終わった。そう思った途端、今まで我慢していたものが一気に込み上げてくる。
俺はその場から離れ、誰もいなくなった教室まで戻ると、さっきまで白石がいた場所を見つめる。ついさっきまで二人で話していたのに、もう俺しかいない。
俺はしばらく何もせずに立っていた。それから、誰にも聞かれないことを確かめるように、小さく息を吐いた。
「美咲……」
声にした名前は、驚くほど小さかった。返事はない。
それでも、もう一度呼びたかった。
「美咲」
今度は、さっきより少しだけはっきり声にした。一度くらい、ちゃんと呼びたかった。ずっと呼びたかった名前なのだから。
約束は守った。最後まで、白石の名前を呼ばなかった。
それなのに、どうしてこんなに苦しいのか。
その答えだけは、俺には分からなかった。