アクアリウム ~水族館で恋と事件と友情と~

第9羽:大サメはナイトプールで狂う



前日の夜の女子トークがすっかり明けた翌朝のバックヤード。
オープン前の静かな空気の中、それぞれの担当エリアへ向かう準備をしていた真帆と璃々の前に、古町瑠莉奈がスッと立ちはだかった。
「ねえ、昨日みんなで『誰が一番最初に彼氏できるか勝負』みたいな話してたじゃない?」 クロスを片手に持ちながら、瑠莉奈は妙に落ち着いた、しかしどこか誇らしげな笑みを浮かべて言った。
「私、もう彼氏いるわよ」
「――彼氏できたなんてそんなわけ……って、ええーーっ!?!?」
璃々はひっくり返りそうなほど大きく飛び上がり、真帆は持っていたスポンジをポロリと床に落とした。
「ちょ、ちょっと待って瑠莉奈!? 彼氏って……えっ、いつの間に!? 結構前から『私には興味ない話だわ』とかクールに言ってたじゃん!」
「そうだよ! るーちゃん、恋愛に一番ドライだったのに、ずるい! どんなイケメンなの? 水族館のお客さん? それともどこかのエリート!?」
あまりの驚きに詰め寄る2人をよそに、瑠莉奈はふふっと余裕の笑みを崩さない。
「別に隠してたわけじゃないわよ。ただ、みんなが勝手に『彼氏いない』って思い込んでただけだもん!」
「で、でも! るーちゃんは、一体いつから付き合ってるの?」
「……小学校のころから。だから、もう20年になるかしらね」
「に、20年……っ!? 小学生からずっと同じ人と!?」
真帆と璃々はあまりのスケールの大きさに、言葉を失ってその場で固まった。
「ちょっと待って、じゃあその人って……」
「もしかして幼馴染?」
「ねぇ、瑠莉奈! 今どこにいるの? 会ったことある!? もう、一線を越えてる?笑」
「ちょっと大人なそれは、そのうち……ね。……さ、お喋りはここまで。今日も仕事が山積みなんだから、早く持ち場に行きましょ」
瑠莉奈はサバサバとした足取りで自分の担当エリアへと歩き出し、残された真帆と璃々は「ねぇ、璃々ちゃん。……真帆、驚きなんだけど」
「20年前って、私たちまだ鼻垂れ小僧だったころじゃん……!」
「しかもさ、『大人なそれは、そのうち……ね』だって! 真帆の予想だけど、それってさ……」
「そういうことだよね⁉」
「るーちゃんだけ、大人だよ~」
「近頃、瑠莉奈は結婚するかもね~」
「真帆たちを置いてかないで~」
「仕方ない! でも、私たちは仲間だ!」と、しばらくその場で呆然と立ち尽くすのだった。
――だが、そんな朝の衝撃的な恋バナの余韻も、このあと水族館を揺るがす「最大の事件」によって一気に吹き飛ばされることになる。
ナイトアクアリウムのスペシャルイベントに向け、華やかな光と音楽の準備が進む「パノラマ大水槽」。
その水面で、巨大なシロワニが突然、信じられないほどの狂乱を見せ始めたのは、夜の帳が下りたまさにその時だった――。

夜の帳が下り、幻想的なブルーのライトが館内を包み込む「ナイトアクアリウム」のスペシャルイベントが華やかに幕を開けた。
巨大なパノラマ大水槽の前には多くの来館者が詰めかけ、悠々と泳ぐシロワニ(サメ)やエイの姿に歓声を上げている。
だが、その華やかな表舞台の裏側――水槽の上のキャットウォーク(作業用通路)では、まったく別の緊迫した空気が漂っていた。
「……っ、嘘だろ……!?」
大内将太郎が青ざめた顔で、足元に転がっているダイビング機材を見下ろしていた。
今夜のナイトイベントのために予定されていた「大水槽内でのダイバーによる水中給餌(エサやり)パフォーマンス」。
その直前、将太郎が機材の最終点検に入ったところ、レギュレーター(呼吸器)のホースが鋭利な刃物のようなものでズタズタに切り裂かれていたのだ。
「誰だ……! こんな危険な真似をしたのは……!」
将太郎が慌ててインカムでバックヤードの仲間たちを呼ぼうとした、その瞬間。
バシャアッ!!
背後にある巨大水槽の水面が激しく逆巻いた。
主役であるはずの体長3メートルのシロワニが、普段とは明らかに違う狂乱した様子でアクリルガラスに激しく体当たりを繰り返したのだ。
水槽の中央、ちょうどサメが狂うように旋回している底付近に、何者かによって沈められた「重りのついた防水ケース」が沈んでいるのが、青い光の中にぼんやりと浮かび上がっていた。
「将くん、どうしたの……っ!?」
騒ぎを聞きつけて、一足先にバックヤードから駆けつけたのは華怜だった。
彼女は水槽の異変と、将太郎の足元にある切り裂かれたダイビング機材を見るなり、ハッと息を呑んだ。
「これ……レギュレーターが故意に壊されてる。もしこのまま将くんが潜ってたら……!」 「ああ。酸欠か、最悪の場合は水中で溺れさせられるところだった……っ!」
血の気が引く将太郎の背後に、足音が響いた。
振り返ると、飼育主任の宮本健と、獣医師の一条冴子、そしてさっきまで恋バナで大騒ぎしていた璃々、真帆、瑠莉奈の3人が険しい顔で走ってきた。
「将太郎くん! 何があったの……? 真帆、心配で……」
健が状況を把握しようと駆け寄るが、そのタイミングを見計らったかのように、水槽の脇に設置されていた非常用のアラームがけたたましく鳴り響いた。
ビーーーッ! ビーーーッ!
「なっ、なんだこれ!?」
璃々が耳を塞ぐと同時に、館内のメインモニターやインカムを通じて、冷酷なアナウンスが響き渡った。
『――緊急通報。大水槽エリアにて、ダイビング機材の不正破壊および、重要機密データの持ち出し未遂を確認。容疑者は……イルカ担当の、大内将太郎』
「……は……っ!?」
あまりの展開に、将太郎は自分の耳を疑った。
「ちょっ、ふざけんな! 俺がそんなことするわけないだろ!」
モニターには、先ほど将太郎が機材の点検のために足を踏み入れた瞬間を切り取った、まるで「彼自身が機材を壊して証拠を隠滅しようとしている」かのような、悪意あるアングルの監視カメラ映像が流されていた。
「大内くん、落ち着いて!」
冴子がすぐに駆け寄り、冷静に周囲を見渡す。
「これは明らかに、何者かが裏で仕組んだ罠よ。システムをハッキングして、自動で警報と偽りの証拠映像を流したのね」
「そうだよ! 将太郎くんがそんなことするわけないじゃん!」
真帆が必死に叫び、瑠莉奈もタブレットを猛スピードで叩きながら声を荒らげた。
「ふざけないでよ、セキュリティのログを書き換えた奴がいるのね……! 今すぐ突き止めてやるわ!」
しかし、不運にも、ナイトイベントの最中で警備員や他の上層部スタッフたちが一斉にこのエリアへと集まってきてしまった。
「おい、そこにいるのは大内だな! 機材を壊して何を企んでいる!」
「待ってください、これはハメられたんです……!」
健が巨体で前を塞ぎ、将太郎を庇おうとするが、上の人間たちは冷酷に言い放つ。
「証拠の映像が出ている以上、身柄を拘束せざるを得ない。連れて行け!」
「待って! 将くんは何もしてないよ!」
華怜がすっと将太郎の前に立ち塞がり、澄んだ瞳で詰め寄るスタッフたちをまっすぐに見据えた。
「彼が犯人じゃない証拠は、この水槽の中にある。あのサメが暴れている理由も、底に沈められた防水ケースの中身も……私たちが今から全部暴いてみせるから!」
華怜の凛とした声と、信じ抜く強い眼差し。
そして、璃々、真帆、瑠莉奈の同期女子3人が「私たちに任せて!」とそれぞれの担当エリアの知識とネットワークを駆使してハッキングの痕跡を追い始める。
宮本先輩と一条先生も、管理室の権限を使って周囲のスタッフを牽制した。
仲間たちが自分のために必死に動いてくれる――その背中を見つめながら、将太郎は拳を強く握りしめた。
「……みんな。ありがとう。俺を信じてくれよ、絶対にこの罠を暴いてみせるからな!」
巨大なシロワニが泳ぐ不気味な大水槽の前で、真犯人を暴くためのチーム全員の反撃が、今、静かに幕を開けたのだった――!



「いいわね、その意気よ!」
冴子は鋭い視線を周囲の警備員たちに向けさせ、宮本健とともに「彼を連行するなら、まずは私たちの査問を通してもらおうか」と頑として道を譲らなかった。
その凛とした冴子の姿を、健は少し離れたところから「頼りになる……いや、かっこいいな」という熱を帯びた目でじっと見つめている。
そんな二人のお互いを強く意識し合う甘い緊張感が、ピリついた現場にわずかな温もりを与えていた。
「よし、感傷に浸ってる暇はないわよ! 私たちがやれることをやるわ!」
璃々の力強い掛け声を合図に、真帆と瑠莉奈、そして華怜の動きが一斉に始まった。
「ハッキングのログは私と真帆で追う! メインシステムのファイアウォールを逆探知して、偽の証拠映像をアップロードした犯人の端末を特定するわ!」
「うん! 外部からのアクセスじゃなく、館内の内線ネットワークからいじった痕跡があるはず……!」
真帆がキーボードを叩く手すりが激しい音を立て、璃々がタブレットの画面をスワイプしながら解析を進める。
一方で、瑠莉奈はバックヤードの配電盤と館内の防犯カメラの死角を洗い出し、誰がどのタイミングで大水槽のキャットウォークへ出入りできたのかを完璧にリストアップしていった。
「私の掃除チェックと監視カメラの死角データをつなぎ合わせれば、犯人が通ったルートは一つしかないわ……!」
そして、すべての中心に立つのが――華怜だった。
彼女は狂乱して暴れ回るシロワニが泳ぐ巨大水槽の前に立ち、水面をじっと見つめていた。サメの動き、水流の乱れ、そして水底の防水ケースの沈み方。
「サメがこんなに暴れているのは、病気なんかじゃない。……あのケースから発せられている『ある音』に、この子が激しく苛立たされているからだわ」
「音……? 防水ケースの中から?」
将太郎がハッと息を呑んで華怜の隣に歩み寄る。
「うん。ケースの中に入っているのは、ただの重要書類じゃない。……電子機器の発信する特定の高周波、あるいは位置発信機よ。それがサメの側線を刺激して、パニックを起こさせているの。つまり、あのケースを沈めた人間は、わざとサメを暴れさせて、このエリアの注意を引こうとしたんだわ」
華怜の的確すぎる推理に、管理室から様子を見守っていた上層部のスタッフたちも言葉を失う。
「馬鹿な……あの大水槽の底にそんなものを……!」
「――特定しました!」
その瞬間、真帆がパッと顔を輝かせ、叫んだ。
「偽の証拠映像をアップロードして、システムをハッキングした犯人の端末……! 発信源は、この水族館の『企画管理室』よ!」
「企画管理室……ってことは……!」
瑠莉奈が目を見開き、璃々がすかさずタブレットを掲げた。
「間違いないわ。かつて不正を働いていた旧経営陣の残党たちと裏で繋がっていた、現在の企画責任者……そいつが真犯人よ!」
すべてのピースが完璧に噛み合い、真犯人の正体と、将太郎にかけられた無実の罪を晴らすための証拠が、今まさに目の前に揃った。
仲間たちの絆と圧倒的なチームワークによって、形勢は一気に逆転したのだった――!



「逃がさないよ、企画責任者さん!」
璃々の鋭い声が響くのと同時に、真帆が館内の全セキュリティロックを作動させ、企画管理室へと通じるすべての扉とエレベーターをガチャンと遠隔ロックした。
「これで、犯人は完全に袋の鼠よ!」
「よし……! あとはあいつのところへ乗り込んで、あいつの無実を完全に証明してやる!」 宮本健が力強く拳を鳴らし、一条冴子も「行きましょう、今度こそあいつらの悪事を根絶やしにするのよ」と凛とした美しさをまとって頷いた。
その言葉に背中を押されるように、将太郎はぐっと拳を握りしめた。
「みんな……ありがとう。よし、行くぞ!」
最強の同期5人に、頼もしい先輩たち。
そして誰よりも深く自分を信じてくれている華怜を引き連れ、俺たちは一気に企画管理室へと駆け出した。
ガチャリ、と荒々しく扉を開けたその場所には、パソコン画面にしがみつきながら冷や汗をダラダラと流している企画責任者の男がぽつんと座っていた。
「なっ……どうしてここが……!?」
「あんたがどれだけシステムをいじって隠蔽工作をしようと、私たちのチームワークと華怜ちゃんの推理の前には全部お見通しよ!」
真帆がズイッと一歩前に出て詰め寄る。
瑠莉奈も冷ややかにタブレットのデータを男の目の前に突きつけた。
「偽の証拠映像のアップロードログ、そして大水槽のサメをパニックにさせた高周波発信機の購入履歴。すべてこちらのメインサーバーに保存させてもらったわ。もう言い逃れはできないわよ」
男はガタガタと震え出し、その場で崩れ落ちた。
「まさか……お前たちのこんなチームワークに足元をすくわれるとは……」
すべての事件の真相が暴かれ、大水槽に沈められていた重要書類と壊されたダイビング機材の件、そして将太郎にかけられた無実の罪は見事に晴らされたのだった。
やがて、警察が到着し、男は連行されていった。



ナイトアクアリウムのイベントも無事に再開され、巨大パノラマ大水槽の前では、再びたくさんの来館者たちの楽しげな歓声が響き渡っている。
「やったな、将太郎! 完全勝訴って感じじゃん!」
璃々と真帆がパッと明るい笑顔でハイタッチを交わし、瑠莉奈も満足そうに微笑む。
少し離れた場所では、宮本先輩が「冴子ちゃん、今日のところは本当に……助かったよ」と照れくさそうに頭をかき、冴子が「もー、次から無茶しないでよね」と優しく微笑み返す、相変わらずじれったくも甘い空気が漂っていた。
そんな賑やかな光景の少し隅で、将太郎と華怜は並んで夜の水面を見つめていた。
「……ありがとな、華怜。お前が信じてくれて、一緒に証拠を探してくれたから、俺は助かったよ」
将太郎が照れくさそうに頭を掻くと、華怜はふわりと柔らかく微笑んだ。
「ううん。私は、将くんが絶対にそんなことしないって信じてたから。……それにね」
華怜はふいに顔を近づけ、将太郎のまっすぐな瞳を覗き込んだ。
「これからも、ずっと一緒にいろんな困難を乗り越えていきたいって……思ってるから」
その予想外の直球すぎる言葉に、将太郎は心臓が跳ね上がるのを止められず、耳まで真っ赤に染めてモジモジと視線を泳がせた。
「なっ……! またそんなサラッと破壊力抜群なこと言うなよ……!」



その様子を見て、少し離れた場所から「あー、またやってるよ~!」「あれこそが、青春~!」「アオハル~~!」と大興奮でスマホのカメラを向けようとする璃々と真帆、瑠莉奈の姿。
数々の闇と事件を乗り越え、最強の絆と甘酸っぱい恋心が交差する清流清澄アクアリウムの夜は、最高潮の盛り上がりの中で静かに、そして温かく更けていくのだった――!
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