アクアリウム ~水族館で恋と事件と友情と~

第8羽:カワウソのポケットと偽りの鍵



朝の柔らかい光が差し込む館内の「コツメカワウソ展示エリア」で、古町瑠莉奈は額の汗を拭いながら熱心にモップをかけていた。
「ふう……昨日までのバタバタが嘘みたいに静かになったわね。今日は完璧に綺麗にして、新しいアクアリウムのスタートを切らなきゃ」
瑠莉奈がそう呟きながら、展示プールのガラス面や周囲の床をテキパキと磨き上げていく。
このエリアのカワウソたちはとても人懐っこく、瑠莉奈が掃除をするたびに「なんだろう?」と首をかしげてガラスの近くへ寄ってくるのが毎日の密かな癒やしだった。
だが、その中の1匹――一番食いしん坊でちょこまか動き回る小柄なカワウソの「コテツ」だけは、今朝に限ってなぜかいつもと様子が違っていた。
プールサイドの岩陰にちょこんと座り込み、前足をゴソゴソと激しく動かしながら、何かを必死に隠すように抱え込んでいる。
「ん? コテツ、どうしたの? また変なものを拾ったの?」
瑠莉奈がクスリと笑いながら掃除の手を止め、コテツに近づいた。
カワウソには、自分の気に入った「固い石」や貝殻などを脇の下の皮膚のたるみ——いわゆる「ポケット」に大切にしまい込む習性がある。
コテツも普段は自分のお気に入りの丸い小石をそこに大事そうに隠しているはずだった。
しかし、コテツが前足をどけた瞬間、瑠莉奈の笑みがスッと消えた。
「……あれ?」
コテツがポケットから器用に取り出して大切そうに抱えていたのは、小石なんかではない。
それは、鮮やかな青色をした、プラスチック製の「偽物の鍵」だった。
館内のどこでも見かけない、いかにもおもちゃかレプリカのような、そのチープなプラスチックの鍵。
瑠莉奈は首をかしげ、それを手にとって確かめようとしたが、なぜかコテツは「取らないで!」と言わんばかりにキュッと小さな声を上げ、瑠莉奈の指をチョンと前足で押し返したのだ。
その瞬間、瑠莉奈の背筋に、冷たいものがスッと走った。
――このプラスチックの鍵、どこかで見たことがある。いや、それ以前に……。
瑠莉奈はハッと目を見開き、昨日の夜、館内で起きていた小さな違和感を思い出したのだった。



「……待って。これって、もしかして……」
瑠莉奈は手を止め、自分の担当エリアであるロッカー室の光景を脳裏に思い浮かべた。
最近、職員用のロッカールームで「何者かに私物を荒らされた気がする」「大事なものが動かされている」という小さなトラブルが立て続けに起きていたのだ。
瑠莉奈は掃除のプロとして毎日隅々まで目を光らせていたはずなのに、その小さな異変にすっかり気づけずに見落としていた。
「私が掃除を見落としてたっていうより……、そもそもロッカーの鍵自体が、すり替えられていたか、あるいは別の仕組みになっていたってこと……?」
瑠莉奈が一人で青ざめていると、背後からひょいと顔を出したのは、いつの間にか通りかかった将太郎だった。
「おっ、瑠莉奈じゃん。どうしたの、そんな難しい顔して。カワウソと睨めっこしてさ」
「あ、将太郎……! ちょっとこれを見てよ。このカワウソのコテツが持ってたの、プラスチックの偽物の鍵なのよ」
「ん? 偽物の鍵……? カワウソって、お気に入りの石とか隠す習性があるんだろ? もしかして、どこかから拾ってきたんじゃねえの?」
将太郎の気楽な言葉に、瑠莉奈は首を横に振る。
「ただのゴミ拾いじゃないわ。この鍵、職員ロッカーの合鍵……いや、それにしては軽すぎるし、プラスチックで出来ている。つまり、本物の鍵を開けるためのものじゃなくて、別の目的のために作られた偽物よ」
そこへ、ひらりと軽やかな足取りで近づいてきたのは櫻羽華怜だった。
「……るりちゃん、合ってるよ」
「華怜!」
華怜はコテツが大事そうに抱えているプラスチックの鍵をじっと見つめ、静かに目を細めた。
「カワウソはね、人間が思っている以上にすごく器用なの。ポケットから出し入れするだけじゃなくて、人間が何かを隠したり、鍵をガチャガチャと回したりする手つきを、じっと見て真似することがあるの。……このコテツは、誰かがこの鍵を使って何かを開け閉めしているところを、近くでずっと見ていたんだよ」
華怜のその一言に、瑠莉奈はハッと息を呑んだ。
「じゃあ……このプラスチックの鍵を持っていたってことは、このエリアの近くで、誰かが偽物の鍵を使ってロッカーを荒らしていた……!」
事件の臭いを嗅ぎつけた璃々と真帆も、噂を聞きつけて駆けつけてくる。
「えっ、ロッカー荒らし!? また何か悪いこと企んでるやつがいるってこと!?」
「大変だぁ……! 私たちのロッカーも調べたほうがいいのかな……?」
カワウソのコテツが隠し持っていた「偽物の鍵」という小さな証拠から、瑠莉奈の見落としていたロッカー荒らしの真相が、いま暴かれようとしていた――!



「ロッカー荒らしの犯人が、このエリアのどこかにいるかもしれないってことね……!」
瑠莉奈は悔しそうに唇を噛み締め、自分の掃除チェック表を力強く握りしめた。
「私はいつも担当であそこのエリアを見てたのに、こんな不正を見落としていたなんて……! カワウソのコテツが教えてくれなかったら、ずっと気づけないままだったわ」
「自分を責めすぎないでよ、瑠莉奈。カワウソの習性をここまで見事に利用して、裏であんなコソコソ悪さを働く奴がいるのが許せないだけだ」
将太郎が優しい声で励ますと、瑠莉奈は少しだけ頬を緩ませて「……ありがとう、将太郎」と小さく頷いた。
その二人のやり取りを少し離れた場所から見つめながら、華怜はふっと微かに微笑んだ。 「ねえ、将くん。そのロッカー荒らしの犯人を特定するヒント、もう一つあるよ」
「え、本当か? どこに?」
「コテツがこの鍵を拾った場所……このプールのすぐ脇の植え込みの裏。あそこ、職員用の通用口に通じているメンテナンス用の小さな通用口があるの。犯人はロッカーを荒らしたあと、証拠の鍵を隠そうとして、あるいは落として、それに気づかなかったんだよ」
華怜が指さしたその場所には、うっすらと泥のついた足跡が残されていた。
「よし、それじゃあ全員で手分けして、このエリアの防犯カメラの映像と、ロッカー周辺の足跡を照らし合わせよう!」
璃々の掛け声を合図に、真帆も「任せて!」と気合を入れる。
――と、その時。 少し離れたバックヤードの休憩スペースのほうから、なにやら楽しげな、しかしどこか甘い雰囲気を漂わせる話し声が聞こえてきた。
「ちょっ、健くん! そこにソースがついてる……って、もう、大柄な割に子どもみたいな食べ方するんだから」
「ははっ、いいじゃねえか。冴子ちゃんが作ってくれた手作りサンドイッチが美味すぎるのが悪いんだよ」
ひょこっと顔を覗かせたのは、宮本健と、獣医師の一条冴子だった。
すっかり距離が縮まった二人は、朝から仲良く並んでサンドイッチを食べている。
冴子は相変わらず「まったく、手がかかるんだから」と呆れたような顔をしながらも、その目はとびきり甘く、健を見つめる頬はほんのりピンク色に染まっていた。
「おっと、邪魔しちまったか?」
将太郎がニヤニヤしながら声をかけると、冴子は「っ!」と慌てて姿勢を正し、真っ赤になりながら咳払いをした。
「な、何言ってるの! 私たちはただ、今後の水族館の運営方針について真面目にミーティングをしていただけよ!」
「そうそう! ほら、ロッカー荒らしの件だろ? 俺たちも協力するからさ!」
健も真っ赤になりながら必死に取り繕い、その不器用な初々しすぎるやり取りに、その場の全員がクスリと笑った。
「あれで、まだ付き合ってないっておかしいよね?」
呆れたような、しかしどこか面白がるような響きを孕んで、璃々はポツリとそう呟いた。
腕を組み、遠くで見つめ合う二人を観察しながら、納得がいかないとばかりに首を傾げる。
その隣で、真帆は激しく何度も縦に首を振った。
「ホントホント! 真帆は2組ともおかしいと思う!」
周囲の誰もが知る距離感でありながら、一線だけは絶対に越えようとしないもどかしい関係。
熱を帯びた真帆の同意のせいで、二人の背後には「早くくっつけばいいのに」というクラス全体の総意のような空気が、じんわりと漂っていた。
甘い雰囲気に包まれつつも、同期たちのチームワークと、華怜の抜群の洞察力、そしてカワウソのコテツの意外な大活躍により、ロッカー荒らしの犯人を追い詰める包囲網は着実に狭まっていったのだった——!



宮本先輩と一条先生の微笑ましい(そして本人たちは必死に隠しているつもりらしい)ラブラブっぷりに一同が和んだのも束の間、事件の解決へ向けて空気がスッと引き締まった。
「さて、イチャイチャはこれくらいにして……」
「私たち、イチャイチャなんてしてないけど……」
瑠莉奈はキュッと気合を入れ直すと、コテツが大切そうに抱えているプラスチックの偽物の鍵に再び視線を落とした。
「この鍵と、メンテナンス用通用口の足跡。そしてロッカーが荒らされた時間帯……。これらを照らし合わせれば、犯人が誰だかすぐに絞り込めるわ」
華怜がココッと小さく頷く。
「うん。この偽物の鍵は、本物のロッカーの鍵を型取ってプラスチックで作ったもの。つまり、この水族館の備品室にある『3Dプリンター』か、あるいは簡単な樹脂成型ツールを使える人間にしか作れない」
「なっ……! 樹脂成型なんてできる職員なんて限られてるだろ!」
将太郎が驚きの声を上げると、瑠莉奈はすかさず手元のタブレットで職員名簿と設備の使用履歴をスワイプした。
「ビンゴよ。今週、メンテナンス室の3Dプリンターや樹脂素材を勝手に持ち出して使用していたログが残っているわ。……犯人は、資材管理を担当している西村だわ!」
名前が出た瞬間、周囲の空気がピリッと凍りついた。
西村といえば、普段は物静かで地味な裏方スタッフの一人だ。
彼がなぜ、職員のロッカーを荒らして回るような真似をしたのか。
「行こう……! 西村を捕まえて、動かぬ証拠をつきつけるんだ」
璃々の力強い合図に、真帆も「うん!」と頷き、最強の同期5人と宮本先輩・一条先生の強力なサポート体制のもと、私たちは西村がいる資材管理室へと一斉に向かった。
――扉を開けると、そこには冷や汗を流しながら慌ててロッカーの合い鍵や盗んだ私物をバッグに詰め込んでいる西村の姿があった。
「そこまでだ、西村!」
将太郎が力強く一喝すると、西村はその場でガタガタと震え出し、持っていたバッグを床に落とした。
「なっ……どうして……!」
「あなたの隠し場所、カワウソのコテツが全部教えてくれたわよ」
瑠莉奈が冷ややかに言い放つと、華怜が一歩前に出て、西村が落としたバッグから転がり出た本物のロッカーの鍵と、プラスチックの型枠を見据えた。
「職員ロッカーから盗んでいたのは、古い過去の書類や、かつて不正に関わっていた人間たちのメモ……。あなた、過去に水族館で行われていた裏金の隠蔽工作に加担していて、その証拠が職員の誰かの私物に紛れ込んでいるのを知ったから、ロッカーを荒らして回収していたんでしょ?」
図星を突かれた西村は、顔面蒼白になりながらその場に崩れ落ちた。
「……そうだ……。あのときの間違いを隠すために、必死だったんだ……。でも、まさか動物のカワウソに邪魔されるなんて……!」
西村の自供により、ロッカー荒らしの真相と、水族館の歴史に巣食う小さな悪の断片は完全に暴かれたのだった。
カワウソのコテツの思わぬ大活躍と、瑠莉奈の鋭いリサーチ、そして華怜の的確な推理が、また一つ水族館に平和を取り戻した。



事件が綺麗に解決したその日の夕暮れ。
すっかり日常を取り戻した館内のベンチで、夕日を浴びながら、将太郎と華怜は並んで座っていた。
「いやあ、まさかカワウソのポケットから事件が解決するなんてな。動物の力ってすげえや」 将太郎が伸びをしながら笑うと、隣の華怜はコクリと頷いた。
「うん。コテツのおかげだね。……でも、将くんがいつもそばで一緒に走ってくれたから、解決できたんだよ」
またしても不意打ちのまっすぐな言葉に、将太郎は心臓を跳ねさせ、耳まで真っ赤に染め上げた。
「なっ……! またそんな直球で……!」
照れくさそうに顔をそむける将太郎の肩に、華怜はふわりと柔らかくもたれかかる。



その様子を、少し離れた柱の陰から「きゃーっ、またやってる!」「青春だねぇ~!」「真帆もあんな恋、したいよ~」と大興奮で覗き見する璃々、真帆、瑠莉奈の3人。
波乱を乗り越えた清流清澄アクアリウムは、あたたかな光と、どこまでも甘い恋の予感に包まれていたのだった――。



夕暮れ時のバックヤード。
西村の一件が無事に解決し、ようやく一息ついた館内の一角で、璃々、真帆、瑠莉奈の同期女子3人がジュースを片手にテーブルを囲んでいた。
「ふぁぁ~、今日も色々あったけど、無事に解決してよかったぁ!」
ストローでメロンソーダをぐびっと飲み干しながら、真帆がパッと明るい声を上げる。
「ほんとよね。まさかカワウソのコテツがあんな大ファインプレーをするなんて、誰が予想したかしら」
瑠莉奈がクスリと笑いながらアイスコーヒーを揺らすと、璃々は急にニヤニヤとした怪しい笑みを浮かべ、二人の顔を交互に覗き込んだ。
「ねえ、事件の解決も大事だけどさ……それより気になりすぎることがあるんだけど!」
「なになに、急に」
「あれよ、あれ! さっきの休憩スペースでの、一条先生と宮本先輩のやり取り!」
璃々がそう口にした瞬間、真帆も「待ってました!」とばかりに両手をパチンと合わせた。
「そうそう! 健さんがサンドイッチ食べながら『冴子ちゃんの味がする……いや、なんでもねぇ!』って真っ赤になってたの、絶対アウトでしょ!」
「一条先生も『な、何を勘違いしてるのよ! 業務連絡業務連絡!』って言いながら、耳まで真っ赤にしてスタスタ逃げていったし……!」
瑠莉奈も思わずフッと吹き出し、呆れたような、でも温かい目を向けた。
「あそこまで分かりやすいと、見ているこっちが恥ずかしかったよね。あの二人は一体いつになったらくっつくのかしら。見ていてハラハラしちゃうわ」
「ね! あんなに不器用なのに、お互い絶対気になってるのミエミエじゃん。いつか盛大なドラマが起きて、最終的には……キャーッ、想像しただけで萌える!」
女子3人の恋バナトークは、ここからさらにヒートアップしていく。
「それにさ、一条先生たちもそうだけどさ……私たちも負けてられないよね?」
璃々が意味深な笑みを浮かべ、じっと真帆と瑠莉奈を見つめた。
「えっ、急になによ璃々」
「だってみてよ、あの二人を」
璃々がこっそりとあごでしゃくったその先には、少し離れた通路で、相変わらず絶妙な距離感でキャッキャとやっている将太郎と華怜の姿があった。
「……なんか、事件のたびに距離が縮まってさ、もう完全にカップル寸前って感じじゃない?」
「たしかに……。華怜ちゃんは天然であんなだから無自覚っぽいですけど、将太郎くんのほうはもうめちゃくちゃ意識してますよね、あれは」
「ねえ! 私たちの中で、誰が一番最初に彼氏できるのか勝負しない?」
璃々のその一言に、真帆の対抗心に火がついた。
「ちょっと、それ面白そう! 私だっていつか素敵な恋を見つけてみせるんだから!」
「ふふ、青春ねぇ。……まあ、私たちは私たちのペースで、この水族館を盛り上げていきましょうよ」
瑠莉奈が大人っぽく微笑み、3人はグラスを軽くコツンと合わせる。
カワウソのコテツが繋いだ小さな奇跡と、動き出した先輩たちの恋、そして自分たちの未来へのワクワク感。
波乱を乗り越えた清流清澄アクアリウムの夜は、女の子たちの弾む笑い声とともに、心地よい温かさに包まれてふけていくのだった——。
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