アクアリウム ~水族館で恋と事件と友情と~

第3羽:クラゲの漂う青い密室



青く妖しい光が揺らめく、館内の「クラゲ展示室」。
無数のミズクラゲが幻想的な水槽の中をゆらゆらと漂うその空間は、閉館後の静けさの中でひときわ異様な美しさを放っていた。
その展示室の一角で――パリン、とガラスが砕け散る乾いた音が響いた。
「きゃっ……!?」
悲鳴を上げたのは、夜間の巡回と清掃を兼ねてその場にいた瑠莉奈だった。
彼女が慌てて駆け寄った先では、目玉である大型のクラゲ展示用水槽が見事にひび割れ、中の海水が床へと流れ出していた。
プカプカと水と一緒に押し出されたミズクラゲたちが、冷たいタイルの上で弱々しく身を震わせている。
「うそ……どうして!? 私、何もしてないのに……っ!」
血の気が引いた瑠莉奈が頭を抱え、震える声を上げたその時だった。
背後の通路から、足音がパタパタと近づいてくる。
「るーちゃん、どうしたのって……きゃあ! なにこれ!?」
先に駆けつけたのは真帆だった。
続いて、連絡を受けた華怜と将太郎、そして冴子と健も続々と展示室へ飛び込んでくる。
「水槽が……割れてる……!」
将太郎が絶句する中、割れた水槽のすぐそばで立ち尽くし、手には掃除用のスクイジーを持ったまま震えている瑠莉奈の姿が、全員の目に飛び込んできた。
静まり返った青い部屋で、ざわめきが広がる。
――直前まで、そこにいたのは瑠莉奈だった。



「ちょっと待って……。割れたの、今の音よね?」
真っ先に動いたのは、他の従業員の一人だった。その男はギョッとした顔で瑠莉奈を指さす。
「閉館間際、このクラゲ展示室の担当エリアに入っていったのは古町、お前だろ! ちょうど今、中でガシャーンって音がしたんだ。他に誰もここには入っていない……ってことは、お前がこの水槽を割ったのか!? この前もそうだったよな? 館長の指輪のときも疑われてたよな???」
その言葉を皮切りに、周囲の空気が一気に凍りついた。
「ま、待ってよ! 私、本当に何もしてない! 指輪の件は結局、私は関係なかったじゃないですか!! 違ったじゃないですか!!」
瑠莉奈は半泣きになりながらブンブンと首を横に振る。
「さっきまでガラスの拭き掃除をしてただけで、水槽なんて叩いてないし、割れるようなこともしてない!」
「じゃあ、誰が割ったっていうんだよ!」
職員たちの間に不穏なざわめきが広がる。
「この部屋に鍵がかかっていたわけじゃないけど、他の人間がいた形跡はないぞ」
「そもそも、このクラゲの水槽は特殊な強化ガラスだよ」
「普通の掃除でこんな綺麗に割れるわけがない」
「じゃあ……、わざと硬いもので叩き割ったと……?」
「そんな……。あなたたちは、わざと私が割ったって言うの? 私が犯人だって言うの?」
瑠莉奈はその場に崩れそうになりながら、縋るような目で同期たちを見回した。
真帆が「るーちゃんがそんなことするわけないよ!」とかばおうとするが、客観的な状況証拠はあまりにも瑠莉奈に不利だった。
誰もが言葉を詰まらせ、重苦しい沈黙が周囲を支配する。
――だが。 その中で、華怜だけは静かに一歩前へ出た。
青く揺らめく水槽の破片と、床にこぼれた海水。
そして、弱々しく漂うミズクラゲたちを、華怜の透き通るような瞳がじっと見つめている。
「……ううん。違う」
静まり返った部屋に、華怜のボソッとした呟きが響いた。
「瑠莉奈じゃない。……この事件、何か変だよ」
華怜のその一言に、全員の視線が一斉に集まった。
瑠莉奈がハッと顔を上げる。
「華怜……?」
「だって、これを見て」
華怜は割れた水槽の足元を指さした。
「ガラスの破片が飛び散った方向と、水槽の中にいるクラゲたちの動き。それに……この部屋の『照明』の配置。これらを合わせると、ここにいた『本当の犯人』のトリックが分かるよ」
青い光が反射する薄暗い展示室の中で、華怜の静かな推理が、隠されたアリバイの罠を暴こうとしていた――。
華怜の言葉に、宮本先輩が険しい顔つきで一歩踏み出した。
「華怜さん、どういうことだ。詳しく説明しろ」
華怜はこくりと頷き、割れたガラスの破片が散らばる床と、天井の照明を交互に見上げながら淀みなく語り始めた。
「まず、ガラスの破片の飛び散り方が不自然です。通常、内側から強い衝撃で割れたなら、破片は手前の通路に向かって大きく広がるはず。でも、この破片は水槽の枠の内側に多く落ちている。つまり、これは『外側から内側へ向かって』意図的に叩き割られたものじゃない。あらかじめ細工されたガラスに、ほんの少しの力が加わるだけで内側から崩壊するように仕組まれていたんです」
「……じゃあ、るーちゃんが掃除中にうっかりぶつかって割ったわけじゃないってこと?」
真帆が目を見開いて尋ねると、華怜は静かに頷いた。
「うん。でも、それだけじゃない。もう一つの証拠は、この水槽の中にいるミズクラゲたちの動きです」
華怜は水槽の底の方で弱々しく漂うクラゲたちを指さした。
「ミズクラゲには、強い『走光性』がある。つまり、光に向かって集まる性質です。犯人はそれを知っていた。展示室のメイン照明を消し、特定の方向にある小さな非常灯やスポットライトの光だけを強くするようにあらかじめタイマーや配線で操作していたんです」
璃々がハッとしたように息を呑む。
「それじゃあ……!」
「そう。クラゲたちは一斉にその光の方向へ集まろうと移動した。もし、そのタイミングで人間が水槽の前に立っていれば、クラゲの群れの影が壁やガラスに映し出される。犯人は、その『クラゲの影』を利用したんです」
華怜はさらに推理を重ねる。
「犯人は、自分がそこにいない時間、つまり『別の場所にいたというアリバイ』を作るために、自動で動く機械や、遠隔で照明を操作する仕組みを使って、あたかも人がずっと水槽の前に立っているかのような『影のトリック』を作り出した。そのアリバイ工作のせいで、ちょうどその時間帯に近くにいた瑠莉奈が、まるで自分がずっとそこにいて水槽を壊したかのように見せかけられたの」
華怜の鮮やかな推理を聞いた職員たちからは、「そんなトリックが……」「じゃあ、本当に瑠莉奈さんは無実なのか……」と、どよめきが起こった。
半泣きになっていた瑠莉奈は、自分の無実が証明されたことと、華怜が真っ先にそれを信じて調べてくれたことに胸を打たれ、思わず涙ぐみながら華怜の手をぎゅっと握りしめた。
「華怜……、ありがとう……! 私、本当に怖かった……!」
「ううん、よかったよ」
華怜は少し照れくさそうに頭を掻く。
しかし、宮本先輩の表情は引き締まったままだった。
「トリックのからくりは分かった。だが、そんな手の込んだアリバイ工作をしてまで、このクラゲの水槽を壊し、瑠莉奈を犯人に仕立て上げようとした『本当の犯人』はいったい誰だ……?」
展示室の冷たい空気が再びピリッと張り詰める。
華怜は青く揺らめく水槽の破片を見つめ、静かに目を細めた。
「……犯人は、このトリックを完璧に成立させるために、この展示室の照明の配線やタイマーの仕組みを誰よりもよく知っている人。そして、昨夜からずっと、私たちの近くで様子を伺っていた人です」
その言葉を聞いた瞬間、職員の群れの中にいた一人の男が、わずかに、しかしはっきりと肩をピクリと震わせたのだった。

その男の名は、林。
クラゲ展示室の管理や設備の調整を任されているベテランの職員だった。
「林さん……あなたが、これをやったの?」
一条先生が信じられないといった目で林を見据える。
追い詰められた林は、歪んだ笑みを浮かべると、観念したようにポツリと口を開き始めた。
「……そうだ、俺がやった。何が悪い。あんな高い水槽、割れたってしょうがないだろ……!」
「どうしてそんなことをしたの! 私を嵌めようとなんて……!」
瑠莉奈が怒りと恐怖に震えながら詰め寄ると、林は吐き捨てるように怒りを露わにした。
「お前らみたいなバイトのガキどもが、この水族館でいい気になってるのが許せなかったんだよ! 実はな、前の職員たちが辞めたのは、あの殺人事件のせいだけじゃない。この水族館の予算を管理している部署で、裏金の不正経理が行われていて、それを知った古株の職員たちが口封じされそうになって次々にてめえから消されていったんだ……! 俺はそれに加担していた。なのに、館長はこの水族館を乗っ取ろうとする新しい連中を入れやがって、俺の立場が危うくなった。だから、新人であるお前らをここで大きな不祥事の犯人に仕立て上げて、即座にクビに追い込もうとしたのさ! そうすれば、この館の裏の不正のことも、全部お前らのせいにできると思ったからな!」
林の口から語られた、水族館の恐ろしい裏の顔と身勝手な動機に、その場にいた職員たちも顔面蒼白になる。
「えっ、そんな裏金なんてあるのか!?」
「クラゲ担当の俺たちも知らなかったぞ……!」
「私だって、知らなかったわよ……」
職員たちの間に、激しい動揺と戸惑いのざわめきが波のように広がっていく。
新人を陥えるための林の身勝手な策略だったはずが、皮肉にも、水族館の底に巣食うもっと深い闇の存在が図らずも暴露されてしまったのだ。
「そんな……自分の保身のために、罪のない新人を……!」
宮本先輩が怒りで拳をわななかせる。
「もうおしまいだ。言い逃れはできないな、林」
一条先生が冷たく言い放つと、林はガックリと肩を落とし、その場に崩れ落ちた。
こうして、クラゲ展示室を舞台にした巧妙なアリバイ工作と、水族館の闇に繋がる恐ろしい陰謀は、華怜の鋭い観察眼によって完全に暴かれたのだった。



事件が解決し、静けさを取り戻したクラゲ展示室。
照明が落とされた青い部屋の中で、華怜はぽつんと立ち尽くし、傷ついた水槽の代わりにまだ無事に漂う別の水槽のクラゲを静かに見つめていた。
その横に、ふっと足音が近づいてくる。
目を向けると、将太郎が少し気まずそうに、けれどいつもの明るい笑顔を浮かべて立っていた。
「相変わらずすごいな、華怜は。何でそんなにすごいの?」
「なんでだろう……。分かんない」
「自分でも分からないもんなの?」
「分かんないよ。将くんだって、分からないでしょ? 『あなたは何で凄いの?』って聞かれたら」
「言われてみれば……、そうかも……しれない」
将太郎が苦笑いしながら頭を掻くと、華怜はふと視線を水槽に戻し、トロンとした目で呟いた。
「ねぇ、将くん」
「何?」
「……なんか、たま~~~~にな~~~~~んにも考えたくないときある?」
「ある!」
「だから、私はたま~にな~んにも考えなくてもいいクラゲになりたいんだ。冗談じゃないよ? 本気で思ってる。昔から、ずっと」
「へぇ~。そうなんだ。ちょっと意外かも」
「意外? 何で?」
「なんかさ、いっつもいろんなこと考えてるからさ」
「周りからはそう見えるんだ。私って」
「うん。そう見えてる」
会話がひとしきり途切れたあと、華怜は急に思い出したようにパッと表情を明るくさせた。
「あ、そうそう。さっきの話の続きね! だから、私、結婚する人は『倉下(クラゲ→倉下 ということです!)』っていう人って決めてるんだ!」
「え……⁉」
突然の爆弾発言に、将太郎は盛大に声を裏返らせた。
そんな彼の様子を、華怜はきょとんとした顔で覗き込む。
「なに驚いてんの? じょーだんに決まってるでしょ!」
「じょ、冗談なのかよ!!」
心臓が飛び出るかと思ったという顔で焦る将太郎をよそに、華怜はけろっとした顔でふふっと微笑むのだった。



少し離れた物陰から、そのやり取りを一部始終覗き見していた璃々、真帆、瑠莉奈の3人は、それぞれ面白そうに顔を見合わせる。
「あれは、恋の新しい駆け引きなのかな? 真帆にはちょっと高度すぎて分からないけど……」
真帆が小首をかしげると、璃々はフフンと鼻を鳴らした。
「新・恋の駆け引き、なんちゃって~!」
「きっと、ふたりにとってはあま~~~~~~いじかんなんでしょうね」
瑠莉奈がしみじみと言った瞬間、真帆が目を見開く。
「え? るーちゃんがあの2人の恋愛事情に興味を持った? 今まではそういうの興味ないって言ってたのに……! 真帆、驚きなんだけど!」
「うるさいな~。別にいいでしょ? 私の勝手にさせて!」
顔を真っ赤にして照れる瑠莉奈を囲み、3人はクスクスと楽しそうに笑い合う。
その笑い声が届く少し近くで、将太郎と華怜は再び視線を合わせ、照れくそうに微笑み合っていた。



――だが、その和やかな気配から少し離れた別の水槽エリア。
誰にも気づかれない暗がりの中で、今度はチンアナゴたちの様子が、なんだかおかしなことになっていた。
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