アクアリウム ~水族館で恋と事件と友情と~
第5羽:セイウチが暴いた過去の匂い
ドサリと倒れ込んだ拍子に、華怜が上、将太郎が下になってしまったあのスレスレの体勢。
「なっ、ななな……っ!」
「わ、わわっ……!」
一瞬にして顔と顔が数センチまで近づき、将太郎は心臓が口から飛び出るほどの衝撃で目を見開き、華怜も耳の先まで真っ赤に染めてフリーズしていた。
「きゃーーっ! 見た!? 今の見た!? 完全にドラマのワンシーンじゃん!」
物陰から一部始終を目撃していた璃々が、興奮のあまりその場でパタパタと飛び跳ねる。
真帆も頬を両手で押さえて「あ、あんなの……! あれって、完全に両思いってことよね!?」と目をキラキラさせて大盛り上がり。
これまでクールだった瑠莉奈まで、「ふふっ、あそこまでいったらもう言い逃れできないわね」と意地悪くニヤリと笑っていた。
同期たちの盛大な冷やかしの視線と賑やかな声のおかげで、さっきまでのカチコチに凍りつくような気関の悪さは一気に吹き飛んだ。
「ちょ、璃々たち、うるさいっ! 違うから!」
将太郎が真っ赤な顔で飛び起き、華怜も「う、うん……ハプニングだから……」と、恥ずかしそうにスカートの裾をパタパタと払う。
からかわれつつも、おかげで二人の間の変な気まずさはすっきりと消え去っていた。
そのとき――。
「あ、いたいた。二人とも、ちょっといい?」
ひょいっと現れたのは、白衣を翻した冴子だった。
その顔には、いつもの余裕の笑顔の裏に、わずかな困惑の色が浮かんでいる。
「どうしたんですか、一条先生?」
将太郎がまだ少し赤みの残る顔で尋ねると、冴子は屋外プールの方をあごでしゃくってみせた。
「屋外にいるセイウチの『たろう』の様子がおかしくてね。……いや、体調不良ってわけじゃないんだけど、変な鳴き方を繰り返して困ってるの。華怜さん、ちょっと見てもらえない?」
「……セイウチの『たろう』が?」
華怜はパチパチとまばたきをすると、すっと真面目な顔つきになり、冴子に連れられて屋外プールの観覧エリアへと向かった。
プールの前に行くと、普段はのんびり屋で人懐っこいはずの巨大なセイウチが、特定の観覧席の方向をじっと睨みつけ、まるで威嚇するかのような、鋭く切迫した鳴き声を何度も上げて暴れていた。
「おいおい、どうしたんだよ。お腹でも空いてるのか?」
あとから駆けつけた宮本先輩が腕を組みながら首をかしげる。
「いや、さっきからずっとこうなんだ。エサをやってもダメでさ……」
近くにいた別の職員が頭を抱えている。
宮本先輩は「ははぁ、なるほどな」と大きなあごを撫でた。
「きっと、観覧席にいる客の誰かにかまってほしいだけだろ。人懐っこい奴だから、お気に入りの人間を見つけて甘えてるんだよ。心配いらねえよ」
だが、華怜はその場でピタリと足を止め、じっとセイウチの目と、その視線の先を鋭い観察眼で追っていた。
「……ううん。違う」
静かな呟きが、現場の空気をピリッと引き締める。
「甘えてなんかない。あの子は……怯えてる。それか、強い敵意を向けているの」
華怜のその言葉に、宮本先輩も「なんだと?」と眉をひそめた。
「どういうことだ、華怜さん。説明してくれ」
華怜はセイウチが叫ぶその観覧席の一角をじっと見据えた。
そこには、ただ静かに座っている一人の男性客の姿があった。
「あの人は……ただの観光客じゃない。セイウチはね、人間の姿や顔だけじゃなくて、『匂い』を嗅ぎ分けているの。あの人の服の奥から漂う、ごく微かな特定の匂い……それは、この水族館がずっと隠そうとしている、過去の『動物虐待事件』に関わっていた男の匂いと、全く同じだから……とか? まだ、あくまでも推測だけど。そういった匂いを区別できるのかもしれない……」
華怜の静かな、しかし恐ろしいほどの真実を突いた指摘に、その場にいた全員が息を呑んだのだった。
その衝撃的な一言に、周囲の空気が一瞬で凍りついた。
「動物虐待事件……っ!?」
将太郎が目を見開き、宮本先輩も険しい表情のままハッと息を呑む。
一条先生は青ざめた顔で華怜を見つめ、「まさか、かつてこの水族館で起きた……あの隠された事件に関わっている人間が、ここにいるっていうの?」と声を震わせた。
華怜はぶれることのない鋭い瞳で、観覧席にポツリと座るその男性客をじっと見据えたままだ。
「間違いない。セイウチは特に嗅覚と記憶力が優れている動物。過去にひどい扱いを受けたトラウマや、恐怖の対象となった人間の匂いを絶対に忘れない。あの男が身につけている香水と、古い機械油の混ざった独特な匂いは……あのとき、動物たちを傷つけていた業者の一人が纏っていたものと同じ」
逃げ場のない真実を突きつけられ、観覧席にいたその男の顔からサァッと血の気が引いていくのが遠目にも分かった。
男は気まずそうに顔を歪めると、周囲の視線が集まるのを察知して、慌てて立ち上がり、出口の方へと逃げ出そうと身を翻した。
「あっ、逃げる気だ……!」
将太郎が叫ぶと同時に、宮本先輩が「逃がすか!」と巨体を躍らせて走り出す。
さらに、遠くからその様子を見ていた璃々、真帆、瑠莉奈の3人も「こっちへは行かせないわよ!」「通しません!」と、通路の角をサッと塞いで見事に退路を断った。
最強の同期たちの見事な連携と、華怜の驚異的な洞察力によって、水族館の過去の闇に繋がる男はあっという間に追い詰められ、観覧席の隅でガタガタと震えながら崩れ落ちたのだった。
男は宮本先輩に両腕をガッチリと掴まれ、逃げ場を完全に失った状態で冷たいタイルの上に引きずり出された。
「離せよ……! 俺はただ、客として遊びに来ただけだろ!」
顔を真っ青にしながらも必死に言い訳を叫ぶ男の前に、華怜はスッと静かに歩み寄る。
その瞳には、一切の迷いや恐れがない。
「ただの客じゃない。あなたは、五年前にこの水族館で起きた事件の直前まで、裏の管理部門に出入りしていた業者ですよね。あのとき、動物たちの飼育エリアに勝手に立ち入り、言うことを聞かない動物たちに暴力を振るっていた……。あの動物虐待の現場にいた、まさにその人だ」
華怜の静かで淀みのない声が、逃げようのない現実を突きつける。
男はぐっと言葉を詰まらせ、観念したように肩をガックリと落とした。
震える声で、ぽつりぽつりと真実を語り始める。
「……そうだ。俺がやったよ……。あの動物たちが言うことを聞かなくてイラついたから、ちょっと荒い真似をした。それを当時の職員に見つかって、金で口止めしようとしたんだ……。そしたら、その職員が『上の人間に報告する』って言い出して……」
男の口から語られた言葉に、一条先生がハッと息を呑んだ。
「まさか……一ヶ月前に命を落とした職員の事故って、本当は……」
「事故じゃねえよ……!」
男は自暴自棄になったように、頭を抱えて叫んだ。
「俺たちの不正や虐待の証拠を握られた上の連中が、口封じのためにあいつを……! 俺はただ、それに加担して脅されていただけだ! だけど、怖くなって逃げ出したんだよ……!」
男の口から吐き出された生々しい犯罪の告白と、水族館のトップに君臨する者たちの黒い陰謀。
その恐ろしい真実に、将太郎や璃々、真帆、瑠莉奈たち同期の面々も顔面蒼白になり、言葉を失って立ち尽くした。
水族館の闇は、想像以上に深く、そして暗かった。
しかし、最強の同期5人と華怜の鋭い観察眼が、その巨大な悪の核心へと着実に近づいていた――。
事件の緊迫した空気が嘘のように去り、ようやく日常の穏やかさが戻ってきた夕暮れの「清流清澄アクアリウム」。
閉館間際の薄暗い館内、柔らかいブルーの照明が差し込むカフェテラスのテラス席で、華怜と将太郎は並んで腰掛けていた。
「ふう……今日は色々あったけど、無事に終わってよかったな」
将太郎がドリンクのストローをくわえながら、ふっと柔らかい笑みを浮かべる。
華怜もこくりと頷き、同じようにストローに口をつけた。
「うん……。でも、将くんがそばにいてくれたから、怖くなかったよ」
「っ……!」
不意打ちのまっすぐな言葉に、将太郎は噎せそうになりながら慌てて顔を背け、真っ赤になった耳を隠すように頭を掻いた。
「な、なんだよ急に……そんなこと言われたら、心臓に悪いだろ……!」
照れくさそうにジタバタする将太郎を見て、華怜はきょとんとした顔のあと、ふわりと愛らしく微笑む。
その無防備な笑顔に、将太郎はますます胸をときめかせるのだった。
――そんな二人の甘酸っぱいやり取りを、ほんの少し離れた柱の陰から、目を輝かせて覗き見している3人組がいた。
「ねえねえ、見て見てあの二人! またいい感じの空気になってるよ!」
璃々が小声で真帆の腕をパタパタと叩き、大興奮で身悶えする。
真帆も両手で頬を押さえ、「もー! 見ているこっちが恥ずかしくなっちゃうくらい甘々だね……! あれって、もう付き合ってるも同然なんじゃないかな!?」と目をキラキラさせる。
これまでクールに構えていた瑠莉奈も、今回は腕を組みながらふっと小さく笑った。
「まったく、あの鈍感な男と天然な女の子のコンビは見ていて飽きないわね。まあ、青春って感じで悪くはないけれど」
「るーちゃんだって、絶対心の中ではニヤニヤしてるくせに~!」
3人は顔を見合わせ、クスクスと楽しそうに忍び笑いを交わすのだった。
――だが、その和やかで甘い気配から遠く離れた、館内の最奥に位置する「深海生物エリア」。
誰もいなくなった真っ暗な展示室で、青白い深海ライトが不気味に明滅していた。
その水槽の裏側に忍び込んだ一人の人影が、音もなく這いつくばっている。
髪の長い女は冷酷な笑みを浮かべ、ポケットから小さな工具を取り出し、深海生物たちの生態を照らす特殊な発光ダイオードの配線に、手際よく怪しげな細工を施し始めた。
「……へっ、お前らみたいな物静かな深海魚が、パニックを起こして暴れだしたとき、館内がどうなるか楽しみだな……」
誰も気づかぬ深い闇の中。新たな悪意の歯車が静かに、そして確実に動き出そうとしていた――。