アクアリウム ~水族館で恋と事件と友情と~
第6羽:深海に光を灯してはいけない
「ねえ、みんな……。最近思ってたんだけどさ」
休憩室のソファに腰掛け、冷たいお茶を飲みながら、璃々が少し神妙な顔つきで同期の顔を見回した。
「この水族館、ちょっと不気味じゃない……?」
「不気味?」
首をかしげた真帆に、璃々は人差し指を立てて声を潜める。
「だってさ、これまでに事件を起こした犯人って、みんな『昔からここで働いていた人』ばかりだよ。指輪を盗んだ高田さんも、イルカのシステムをいじった沢渡さんも、クラゲの配線を細工した林さんも……みんな、このアクアリウムの裏の事情をよく知る職員だったでしょ?」
その言葉に、瑠莉奈も腕を組み、冷ややかな視線を天井に向けた。
「そうよね。新人の私たちを嵌めようとしたり、隠蔽工作に加担したり……この水族館の歴史そのものが、ドス黒い秘密で塗り固められているみたいだわ」
「……たしかにな。何か大きな闇があるのは間違いないよな」
将太郎が腕を組んで難しそうな顔をすると、その隣で櫻羽華怜は静かにマグカップを見つめ、ぽつりと呟いた。
「……まだ、終わってない。次の誰かが、動いてる」
華怜のその静かな予言に、同期の5人はピリッと緊張感を走らせる。
その頃、誰もいないはずの最奥の深海生物エリアでは、32歳の女・長田が冷たい笑みを浮かべていた。
かつてこの場所で深海生物に襲われ、顔の右側に痛々しい傷を負った長田。
その傷のせいで、深く愛し合い、子どもまで授かったはずの男に怯えられ、捨てられた。
すべてを奪ったこの水族館と、美しさに満ちた世界への激しい憎悪が、彼女の心を完全に狂わせていた。
深海の闇に潜む女の復讐劇が、今、静かに幕を開けようとしていた――。
突如として不気味な気配が漂い始めた館内で、次の異変は「深海生物エリア」から幕を開けた。
翌朝、開館前の静まり返った深海生物エリアに足を踏み入れた華怜たちは、尋常ではない光景に思わず足を止めた。
「……なにこれ?」
将太郎が絶句して指さす先では、オウムガイやダイオウグソクムシ、そして深海魚たちが、水槽の中で狂ったように激しく暴れ回っていた。
いつもなら泥や岩の陰でじっと動かないはずの生物たちが、まるで何かに怯えるようにガラスに体を激突させている。
「どうしよう、深海の子たちがこんなにパニックを起こすなんて……!」
真帆が青ざめてオロオロとする中、瑠莉奈が水槽のまわりを素早く確認し、天井のライトに目を留めた。
「ちょっと待って、このエリアの青白い特殊なライト……光の波長が、昨日までと全然違うわ。強烈な閃光がチカチカ点滅してる……!」
その言葉を聞いた瞬間、華怜の透き通るような瞳が鋭く光った。
「……ライトの配線に、誰かが意図的に細工をしたんだ」
華怜は水槽の裏側に回ると、隠された小さなタイマー装置と、不自然にいじられた配線のコードを見つけ出した。
「深海生物は、光に対してものすごく敏感。急激で異常な強い光を浴びせ続ければ、激しいストレスでこうしてパニックを起こす。……犯人は、このエリアの深海生物たちを狂わせて、何かを引き起こそうとしている」
華怜が静かにそう告げた時、館内アナウンスのスピーカーから、一条冴子の緊迫した声が響きわたった。
『――大変! 深海生物エリアの近くで、不審な出火を確認! スプリンクラーが誤作動しているわ! すぐに避難して!』
「火事……っ!?」
将太郎が息を呑む。
深海エリアの配線細工は、ただ生物を苦しめるためだけでなく、電気ショートを起こして火災を引き起こすための罠だったのだ。
煙が立ち込める薄暗い通路の向こうから、黒い作業着のフードを目深にかぶった一人の人物が、冷酷な笑みを浮かべながらゆっくりと歩いてくるのが見えた。
その人物がフードを乱暴に脱ぎ捨てると、現れたのは顔の右側に痛々しい引きつった傷跡を持つ女――長田だった。
「……よくここまで気づいたわね、ガキども」
長田の声音には、聞く者の背筋を凍らせるような、底知れない憎悪と狂気が含まれていた。
「あんた……誰だ? どうしてこんなことを……!」
将太郎が華怜を庇うように一歩前に出ると、長田は歪んだ笑みを浮かべて自身の顔の傷を指でなぞった。
「誰だって? 私だよ……! かつてこの水族館の深海エリアで働いていた、長田だ。……お前ら、この傷が見えないのか? 私の人生をめちゃくちゃにしたこの水族館と、すべてを奪っていった人間どもへの復讐のために、私はここにいるんだよ!」
長田の狂気に満ちた叫び声が、煙の立ち込める深海エリアにこだまする。
最強の同期5人は、かつてこの場所で深い絶望を味わった女の、あまりにも重く歪んだ復讐劇の真ん中に立たされていた――。
「ふざけないでよ……! あなたの個人的な恨みで、こんな多くの人や生き物を巻き込んでいいわけないでしょう!」
真帆が恐怖を押し殺しながら、震える声で強く叫ぶ。
しかし、長田は冷笑を浮かべ、手にした発火装置のスイッチをカチリと鳴らした。
「巻き添えだって? 上等よ。かつてこの水族館の事故で、私がどれだけすべてを奪われたか、お前らに何が分かるっていうの! 深海生物の光にパニックを起こさせ、このエリアごと焼き払ってやる……それが私の復讐だ!」
長田の指が、起爆スイッチを押し込もうと力んだその瞬間――。
「……そこまでだよ、長田さん!」
冷徹で、けれど圧倒的な説得力を持つ声が、煙の立ち込める通路に響いた。
動いたのは櫻羽華怜だった。
彼女は長田の怯えるような、しかし狂気を孕んだ目を真っ直ぐに見据え、一歩ずつ詰め寄っていく。
「あなたがここで火災を起こし、水族館を潰そうとしても、過去に負ったあなたの傷や、逃げられた家族が戻ってくるわけじゃない。……それに、あなたが本当に許せないのは、この水族館そのものというより、あのときあなたを捨てて逃げた『あの男』のほうなんじゃないの?」
華怜のその言葉を聞いた瞬間、長田の険しい表情が激しく揺らいだ。
「なっ……なんだって……!?」
「顔の傷を理由に愛する人に裏切られ、すべてを失った絶望は想像するしかない。でも、だからって罪のない生き物や、無関係な人たちを巻き込んでいい理由にはならないよ。あなたのその憎しみは、本当に向けるべき相手を間違えている」
華怜の鋭くもどこか温かさを帯びた言葉に、長田の手から力が抜け、持っていた起爆装置がカランと冷たい床に落ちた。
「私だって……本当は……」
長田はその場に崩れ落ち、顔を両手で覆って、堰を切ったように激しく泣き崩れた。
すかさず、将太郎が素早く駆け寄り、長田の手をしっかりと抑えてこれ以上の逃走を防ぐ。
「確保したぞ……!」
璃々と瑠莉奈もすぐに駆けつけ、安全を確保しながら消火の準備に取り掛かる。
間一髪のところで、一条先生と宮本先輩も駆けつけ、事態は無事に収束へと向かった。
こうして、かつての悲劇が生んだ長田の歪んだ復讐劇は、華怜の的確な洞察と同期たちの見事な連携によって、静かに幕を閉じたのだった。
――それから数日後。 水族館の裏に隠されていた数々の不正や隠蔽工作、そして今回の事件の全貌が公になり、清流清澄アクアリウムは古い悪習を断ち切り、新たな一歩を踏み出すことになった。
すっかり日常を取り戻した館内の休憩スペースで、華怜と将太郎は並んで缶ジュースを飲んでいた。
「ふう……長かったけど、これでやっとこの水族館も本当の意味で綺麗になるんだな」
将太郎が空を見上げるように伸びをすると、隣の華怜もコクリと頷いた。
「うん。……でも、事件が解決して平和になったのは嬉しいけど、これからはもう、あんな風にハプニングでくっついたりする心配も……な、ないよね?」
不意に華怜が小首をかしげてそう言ったものだから、将太郎は飲んでいたジュースを盛大に吹き出しそうになり、顔を真っ赤にして慌てふためいた。
「なっ……! なに言ってんだよ急に! ……ていうか、そういうこと意識してのかよ!」
「え? だって、みんなにからかわれたから……」
きょとんとする華怜の可愛さに、将太郎は頭を抱え、耳まで真っ赤に染め上げる。
そんな二人のやり取りを、またしても少し離れた場所から覗き見している3人組。
「ねえ、見て見て! 事件は解決したのに、あの二人の関係は全然進展してないどころか、余計に甘酸っぱくなってない!?」
「もー、見てるこっちが照れちゃうよ~!」
「まったく、本当にじれったい奴らね。でも、まあ――悪くない結末じゃない?」
青い光に包まれた水族館の未来は、事件の闇を抜け、どこまでも明るく、そして甘い恋の予感に満ちていたのだった。