S系策士に豹変した元恋人御曹司の独占愛が甘すぎる
課長クラスの増井ならば自身の社員IDで重役フロアに立ち入ることができる。だが平社員である紗夜のIDでは、重役フロアのエレベーターボタンを押せないし、階段エリアからフロアに出るためのドアを開くこともできない。
よって平社員が一人で七階や八階へ赴く際は、直属の上司から認証済みの特殊なIDカードを借りる必要があるのだ。
「もし僕が帰ってたら、ここに戻しておいてくれればいいから」
「……はい」
増井が「ここ、ここね」と微笑みながら自身のデスクの後ろ――窓の前の書類棚に設置された小さなボックスを指差す。
隙間から紙やカードを入れられるその箱は、鍵を持っている増井しか中身を取り出せない仕組みなので、増井の不在時に彼になにかを託す際に使われているのだ。
紗夜の顔を見つめた増井が、なぜかニコニコと微笑む。
しかし紗夜にはその表情の意味も、なぜ自分の帰宅より紗夜が常務室から戻ってくる方が遅いことを想定しているのかも、わからない。
だがわからないことを考えても仕方がない。もちろん雲の上の存在である常務取締役からの呼び出しを拒否することもできない。
悩む余地すら与えられていない紗夜は増井からIDカードを受け取ると、帰り支度を終えた峰木と庄野を尻目に、とぼとぼと経理課を出る。
スマートフォンはポケットに入れたが、通勤バッグはデスクの一番下の引き出しへ戻した。
もちろん持って行ってもいいのだが、どうせIDカードを戻すために経理課に戻ってくるのなら、移動時の荷物は少ない方がいい、との判断だ。