ベンチから始まる怪談譚
怪談 『兵隊』
俺は、ここまで順風満帆に歩んできた。
大学三年で今の企業から内定をもらい、満を持して社会人デビューを迎えた。
入社式には、某有名俳優がお祝いのコメント。
「みなさん、入社おめでとうございます」
テレビの中でしか見たことのない人物が、今、自分たちに向かって言葉を届けている。
その瞬間、俺は思った。
――俺の人生は、勝ち組なんだ。
そう信じて疑わなかった。
翌週から、三か月間の新人研修が始まった。
この研修を終えた後、どこの地方、どこの部署へ配属されるのかが決まるのだろう。
もちろん俺は、東京の中心で働くべき人間だと思っていた。
研修では業務内容はもちろん、社会人としての振る舞いや心構えについても教育を受けた。
その中で流された動画には、入社式でも壇上に立っていた社長が映っていた。
「この会社をより良くしていくために、一緒に働いてほしい」
社長もまた、有名人だ。
俺は、入社式で見た俳優と同じような気持ちで、画面の中の社長を見つめていた。
夜。
パーティーが開かれた。
と言っても、同期同士の顔合わせだ。これから互いに支え合ってほしい、という意味を込めたものだった。
俺はすでに仲良くなっていた同期たちと、俺たちがどれだけ有能なのかを声高に語った。
酒もまた、その言葉を後押ししていた。
(なんて、俺の未来は明るいんだろう)
楽しい時間は、あっという間に過ぎていった。
ホテルへ戻った俺は、そのままベッドへダイブした。
「う、う……ん……」
意識がゆっくりと浮かび上がってくる。
(あれ……俺……)
ぼんやりとした頭で、さっきまでのことを思い出す。
(そっか。ホテルに戻るなり、そのまま寝ちゃったのか……)
「う、うっ……」
起き上がろうとした。
けれど――。
(あれ? 身体が動かない)
手も、足も、動かそうと思っているのに、自分の意思とは関係なく身体が固まっている。
(金縛りってやつか?)
研修初日。
自分で思っている以上に、緊張していたのかもしれない。
(疲れると金縛りに遭うって聞いたことがあるしな。まあいい。このまま寝よう)
俺は再び、眠りの中へ誘われた。
カチャ……。
……どこかで、奇妙な音が鳴った。
次の日。
目覚めると、頭が重かった。
(昨日は飲み過ぎたかな……)
それでも、研修はまだ二日目だ。 こんなことで休むわけにはいかない。
俺は冷たい水を頭から浴び、無理やり身体を目覚めさせた。
「よし。今日も頑張ろう」
鏡に映る自分へそう声をかける。
そして、両手でパンッと頬を叩き、気合いを入れた。
昨日の親睦会のおかげで、緊張はだいぶほぐれていた。
同期たちは明るい表情で集まり、楽しそうに話をしている。
(これからずっと付き合っていく仲間なんだよな)
俺は笑顔で「おはよう」と声をかけると、友達の輪の中へ入っていった。
この時の俺は、まだ知らなかった。
心から笑うことのできた時間が、まもなく終わりを迎えることを。
そんなことになるなんて、夢にも思わなかった。
今日も一日、研修を終えてホテルへ帰る。
俺はシャワーを浴びると、ベッドへ潜り込んだ。
「ふぁ……」
大きなあくびが一つ漏れる。
重くなった瞼がゆっくりと閉じていく。
明日への英気を養うために、俺は眠りへ落ちていった。
カチャ……カチャ……カチャ……。
(……?)
何か金属がぶつかり合うような音がして、俺は目を覚ました。
音のした方へ顔を向けようとする。
「っ!」
動けない。
まただ。
身体は金縛りに遭ったように、ぴくりとも動かなかった。
カチャ……。
カチャ……。
誰かが歩いているような規則正しい音。
俺は何も確かめることができないまま、再び気絶するように眠りへ落ちていった。
そんな日が二日ほど続いた。
毎晩、金属音で目を覚まし、金縛りに遭う。
今日もそうなるのか――。
そう思うと、夜が来るのが少しずつ怖くなっいた。
そして、四日目の夜。
カチャ……カチャ……カチャ……。
音は、昨日までよりも近い。
まるで、こちらへ歩いてきているようだった。
(そんなはずはない……)
心臓が嫌な音を立てる。
カチャ……。
音は、ベッドのすぐ横まで来て止まった。
ピタリ。
静寂。
何も聞こえない。
(いる……)
見なくてもわかった。
何かが、いる。
息が苦しい。
喉が張りついたように声が出ない。
ゆっくりと目だけを動かす。
視界の端に、泥だらけの軍靴が映った。
震えながら、少しずつ視線を上げる。
汚れた軍服。
土と泥がこびりついた腕。
そして――。
歴史の教科書で見た兵隊が、無表情のまま俺の顔を覗き込んでいた。
兵隊は微動だにしない。
ただ――。
目だけが、異様なほど見開かれていた。
まるで瞬きというものを忘れてしまったかのように。
「わあああっ!!」
叫んだ。
叫んだはずだった。
けれど、喉は震えるだけで、声は一音も出なかった。
逃げたい。
今すぐ、この部屋から逃げ出したい。
そう思っても、身体は指一本動かすことができない。
兵隊は、ただ黙って俺を見下ろしていた。
朝になると、俺は真っ先にホテルのフロントへ向かった。
「ゆ、幽霊が……! 幽霊が出るんです! 俺の部屋に!」
「お、お客様。どうか落ち着いてください」
それでも俺はまくし立てた。
「何か噂はないのか? 兵隊の幽霊だよ! 毎晩、俺の部屋に現れるんだ!」
まだ朝早く、ロビーには他の宿泊客の姿はない。
それでもフロント係は、誰かに聞かれたら困ると言わんばかりに、忙しなく辺りを見回していた。
「申し訳ございません。そのようなお話は、一度も伺ったことがございません」
「そんな……。じゃあ、あの部屋には幽霊が出るんだ! 頼む、部屋を変えてくれ!」
俺は一秒でも早く、あの部屋から離れたかった。
「少々お待ちください」
そう言うと、フロント係はタブレットを操作し始めた。
「お部屋をご用意できそうです。現在のお部屋とは別の階をご希望でしょうか?」
「もちろんだ。同じ階は嫌だ。あの部屋の近くにも行きたくない」
「……かしこまりました」
フロント係は短く頷くと、新しいルームキーを俺の前へ差し出した。
(これで、ようやく眠れる……)
部屋が変わったことで、少しだけ落ち着きを取り戻した。
(仕事だ。仕事に集中しよう。切り替えなきゃ……)
ここ数日の寝不足は想像以上だった。
講師の話は子守歌のように耳を通り過ぎ、実習では教えられたことが頭に入ってこない。
同期から心配そうに声をかけられるほど、俺の顔色は悪かった。
(それでも……今日こそ眠れれば)
退勤時間になると、俺はまっすぐ新しい部屋へ戻った。
シャワーを浴び、ベッドへ倒れ込む。
疲れ切った身体は、あっという間に眠りへ落ちていった。
――カチャ……。
カチャ……。
カチャ……。
(……っ!?)
心臓が跳ね上がる。
(な、なんで……!?)
部屋を変えた。
階まで変えた。
なのに、あの音が聞こえる。
(違う……これは夢だ)
(疲れてるだけだ。幻聴なんだ)
必死に自分へ言い聞かせる。
目を開けなければ、何も見なくて済む。
そう信じて、強く目を閉じた。
カチャ……。
カチャ……。
音が止まる。
静寂が訪れた。
(帰った……?)
そう思った、その時。
すうっと、冷たい空気が顔にかかる。
(近い……)
目を閉じているのに分かる。
何かが、俺の目の前にいる。
鼻先に触れそうなほど近くで、じっと俺を見つめている。
息を殺す。
鼓動だけが耳の奥で鳴り響く。
やがて、その気配がゆっくりと離れていく。
(助かった……)
胸を撫で下ろしかけた、その瞬間だった。
何かが、右の瞼に触れた。
(……え?)
指?
冷たく硬いものが、俺の瞼をなぞる。
そして、無理やり目をこじ開けてようとしているのだ。
「た、助けてくれ!! 誰か!!」
叫ぶ。
叫んでいる。
それなのに、喉から漏れるのは、かすれた息だけだった。
朝になった。
俺はフラフラとホテルの廊下を歩いていた。
同じホテルに泊まっている同期が、俺の顔を見るなり足を止めた。
「おい、大丈夫か? お前、目の下の隈、やばいぞ」
そう言って顔を覗き込んでくる。
俺は返事をしようとしたが、うまく焦点が合わない。
「……なぁ、お前。幽霊みたいな顔してるぞ」
(幽霊……!?)
「わあああっ!!」
気づけば、俺は頭を抱えてその場にしゃがみ込んでいた。
「幽霊だ……。幽霊なんだ……! 幽霊が……幽霊が……!」
突然取り乱した俺を見て、同期は慌てて近くにいた仲間を呼んだ。
数人がかりで俺を支え、ロビーのソファへ座らせる。
一人がフロントへ駆け、水を持って戻ってきた。
差し出された冷たい水を、俺は一気に飲み干す。
震える唇を必死に動かした。
「出るんだ……。幽霊が……。兵隊の幽霊が……」
その言葉に、その場にいた四人が一斉に息をのんだ。
「このホテルに来た初日から……少しずつ近づいてきて……」
息が苦しい。
「昨日は……俺の目を……目をこじ開けようとしたんだ……」
思い出しただけで身体が震えた。
しばらく黙って話を聞いていた一人が、そっと俺の肩に手を置く。
「お前、新しい環境で疲れてるんだよ。今日は研修を休め。明日は休みだろ。一度家に帰って、ゆっくり寝たほうがいい」
その言葉に、胸が締めつけられた。
「……信じてくれないのか」
声が震える。
「俺がおかしいって言うのか……?」
涙が、頬を静かに伝った。
俺は立ち上がると、誰とも目を合わせず、その場を後にした。
研修会場へ向かっても、同期たちはどこか遠巻きに俺を見ている。
俺は一人、感情を失った人形のように、その場へ座り続けていた。
そして、夜はまたやってくる。
眠っているのか、起きているのか。
自分でも分からないまま、俺はベッドへ横たわっていた。
カチャ……。
カチャ……。
カチャ……。
(来た)
もう驚きはなかった。
俺は、その音を待っていたのかもしれない。
ゆっくりと身体を起こす。
今日は金縛りには遭っていなかった。
兵隊は昨日と同じ場所に立ち、じっと俺を見つめている。
やがて口が開いた。
「……お国のために、この命を捧げなければ」
ガサガサと擦れるような声。
耳で聞いているのか。
頭の中へ直接響いているのか。
もう、それすら分からなかった。
「お国のために、この命を捧げなければ」
壊れた機械のように、同じ言葉だけを繰り返す。
次の日も。
その次の日も。
一週間が過ぎても。
一か月が過ぎても。
兵隊は毎晩現れ、同じ言葉を口にした。
『お国のために、この命を捧げなければ』
その言葉を聞くたび、社長の言葉が頭に浮かぶ。
『この会社をより良くしていくために、一緒に働いてほしい』
会社のために。
会社のために……。
頭の中で、その二つの言葉が少しずつ混ざり合っていく。
『この会社のために、命を捧げなければ』
いつからだろう。
その言葉に、違和感を覚えなくなっていた。
研修が始まって、二か月ほどが過ぎていた。
(そうか……)
(この会社に命を捧げれば、もう終わるんだ)
その考えが浮かんだ瞬間、不思議なくらい心が軽くなった。
ようやく解放される。
そんな安堵さえ覚えた。
俺はシーツをドアノブへ掛け、静かに輪を作る。
その輪へ、ゆっくりと頭を通した。
「……会社のために、命を捧げなければ」
カチャ……。
カチャ……。
カチャ……。
兵隊の腰に下げられた銃が、歩くたびに軍靴へ触れ、小さく音を立てながら遠ざかっていった。
大学三年で今の企業から内定をもらい、満を持して社会人デビューを迎えた。
入社式には、某有名俳優がお祝いのコメント。
「みなさん、入社おめでとうございます」
テレビの中でしか見たことのない人物が、今、自分たちに向かって言葉を届けている。
その瞬間、俺は思った。
――俺の人生は、勝ち組なんだ。
そう信じて疑わなかった。
翌週から、三か月間の新人研修が始まった。
この研修を終えた後、どこの地方、どこの部署へ配属されるのかが決まるのだろう。
もちろん俺は、東京の中心で働くべき人間だと思っていた。
研修では業務内容はもちろん、社会人としての振る舞いや心構えについても教育を受けた。
その中で流された動画には、入社式でも壇上に立っていた社長が映っていた。
「この会社をより良くしていくために、一緒に働いてほしい」
社長もまた、有名人だ。
俺は、入社式で見た俳優と同じような気持ちで、画面の中の社長を見つめていた。
夜。
パーティーが開かれた。
と言っても、同期同士の顔合わせだ。これから互いに支え合ってほしい、という意味を込めたものだった。
俺はすでに仲良くなっていた同期たちと、俺たちがどれだけ有能なのかを声高に語った。
酒もまた、その言葉を後押ししていた。
(なんて、俺の未来は明るいんだろう)
楽しい時間は、あっという間に過ぎていった。
ホテルへ戻った俺は、そのままベッドへダイブした。
「う、う……ん……」
意識がゆっくりと浮かび上がってくる。
(あれ……俺……)
ぼんやりとした頭で、さっきまでのことを思い出す。
(そっか。ホテルに戻るなり、そのまま寝ちゃったのか……)
「う、うっ……」
起き上がろうとした。
けれど――。
(あれ? 身体が動かない)
手も、足も、動かそうと思っているのに、自分の意思とは関係なく身体が固まっている。
(金縛りってやつか?)
研修初日。
自分で思っている以上に、緊張していたのかもしれない。
(疲れると金縛りに遭うって聞いたことがあるしな。まあいい。このまま寝よう)
俺は再び、眠りの中へ誘われた。
カチャ……。
……どこかで、奇妙な音が鳴った。
次の日。
目覚めると、頭が重かった。
(昨日は飲み過ぎたかな……)
それでも、研修はまだ二日目だ。 こんなことで休むわけにはいかない。
俺は冷たい水を頭から浴び、無理やり身体を目覚めさせた。
「よし。今日も頑張ろう」
鏡に映る自分へそう声をかける。
そして、両手でパンッと頬を叩き、気合いを入れた。
昨日の親睦会のおかげで、緊張はだいぶほぐれていた。
同期たちは明るい表情で集まり、楽しそうに話をしている。
(これからずっと付き合っていく仲間なんだよな)
俺は笑顔で「おはよう」と声をかけると、友達の輪の中へ入っていった。
この時の俺は、まだ知らなかった。
心から笑うことのできた時間が、まもなく終わりを迎えることを。
そんなことになるなんて、夢にも思わなかった。
今日も一日、研修を終えてホテルへ帰る。
俺はシャワーを浴びると、ベッドへ潜り込んだ。
「ふぁ……」
大きなあくびが一つ漏れる。
重くなった瞼がゆっくりと閉じていく。
明日への英気を養うために、俺は眠りへ落ちていった。
カチャ……カチャ……カチャ……。
(……?)
何か金属がぶつかり合うような音がして、俺は目を覚ました。
音のした方へ顔を向けようとする。
「っ!」
動けない。
まただ。
身体は金縛りに遭ったように、ぴくりとも動かなかった。
カチャ……。
カチャ……。
誰かが歩いているような規則正しい音。
俺は何も確かめることができないまま、再び気絶するように眠りへ落ちていった。
そんな日が二日ほど続いた。
毎晩、金属音で目を覚まし、金縛りに遭う。
今日もそうなるのか――。
そう思うと、夜が来るのが少しずつ怖くなっいた。
そして、四日目の夜。
カチャ……カチャ……カチャ……。
音は、昨日までよりも近い。
まるで、こちらへ歩いてきているようだった。
(そんなはずはない……)
心臓が嫌な音を立てる。
カチャ……。
音は、ベッドのすぐ横まで来て止まった。
ピタリ。
静寂。
何も聞こえない。
(いる……)
見なくてもわかった。
何かが、いる。
息が苦しい。
喉が張りついたように声が出ない。
ゆっくりと目だけを動かす。
視界の端に、泥だらけの軍靴が映った。
震えながら、少しずつ視線を上げる。
汚れた軍服。
土と泥がこびりついた腕。
そして――。
歴史の教科書で見た兵隊が、無表情のまま俺の顔を覗き込んでいた。
兵隊は微動だにしない。
ただ――。
目だけが、異様なほど見開かれていた。
まるで瞬きというものを忘れてしまったかのように。
「わあああっ!!」
叫んだ。
叫んだはずだった。
けれど、喉は震えるだけで、声は一音も出なかった。
逃げたい。
今すぐ、この部屋から逃げ出したい。
そう思っても、身体は指一本動かすことができない。
兵隊は、ただ黙って俺を見下ろしていた。
朝になると、俺は真っ先にホテルのフロントへ向かった。
「ゆ、幽霊が……! 幽霊が出るんです! 俺の部屋に!」
「お、お客様。どうか落ち着いてください」
それでも俺はまくし立てた。
「何か噂はないのか? 兵隊の幽霊だよ! 毎晩、俺の部屋に現れるんだ!」
まだ朝早く、ロビーには他の宿泊客の姿はない。
それでもフロント係は、誰かに聞かれたら困ると言わんばかりに、忙しなく辺りを見回していた。
「申し訳ございません。そのようなお話は、一度も伺ったことがございません」
「そんな……。じゃあ、あの部屋には幽霊が出るんだ! 頼む、部屋を変えてくれ!」
俺は一秒でも早く、あの部屋から離れたかった。
「少々お待ちください」
そう言うと、フロント係はタブレットを操作し始めた。
「お部屋をご用意できそうです。現在のお部屋とは別の階をご希望でしょうか?」
「もちろんだ。同じ階は嫌だ。あの部屋の近くにも行きたくない」
「……かしこまりました」
フロント係は短く頷くと、新しいルームキーを俺の前へ差し出した。
(これで、ようやく眠れる……)
部屋が変わったことで、少しだけ落ち着きを取り戻した。
(仕事だ。仕事に集中しよう。切り替えなきゃ……)
ここ数日の寝不足は想像以上だった。
講師の話は子守歌のように耳を通り過ぎ、実習では教えられたことが頭に入ってこない。
同期から心配そうに声をかけられるほど、俺の顔色は悪かった。
(それでも……今日こそ眠れれば)
退勤時間になると、俺はまっすぐ新しい部屋へ戻った。
シャワーを浴び、ベッドへ倒れ込む。
疲れ切った身体は、あっという間に眠りへ落ちていった。
――カチャ……。
カチャ……。
カチャ……。
(……っ!?)
心臓が跳ね上がる。
(な、なんで……!?)
部屋を変えた。
階まで変えた。
なのに、あの音が聞こえる。
(違う……これは夢だ)
(疲れてるだけだ。幻聴なんだ)
必死に自分へ言い聞かせる。
目を開けなければ、何も見なくて済む。
そう信じて、強く目を閉じた。
カチャ……。
カチャ……。
音が止まる。
静寂が訪れた。
(帰った……?)
そう思った、その時。
すうっと、冷たい空気が顔にかかる。
(近い……)
目を閉じているのに分かる。
何かが、俺の目の前にいる。
鼻先に触れそうなほど近くで、じっと俺を見つめている。
息を殺す。
鼓動だけが耳の奥で鳴り響く。
やがて、その気配がゆっくりと離れていく。
(助かった……)
胸を撫で下ろしかけた、その瞬間だった。
何かが、右の瞼に触れた。
(……え?)
指?
冷たく硬いものが、俺の瞼をなぞる。
そして、無理やり目をこじ開けてようとしているのだ。
「た、助けてくれ!! 誰か!!」
叫ぶ。
叫んでいる。
それなのに、喉から漏れるのは、かすれた息だけだった。
朝になった。
俺はフラフラとホテルの廊下を歩いていた。
同じホテルに泊まっている同期が、俺の顔を見るなり足を止めた。
「おい、大丈夫か? お前、目の下の隈、やばいぞ」
そう言って顔を覗き込んでくる。
俺は返事をしようとしたが、うまく焦点が合わない。
「……なぁ、お前。幽霊みたいな顔してるぞ」
(幽霊……!?)
「わあああっ!!」
気づけば、俺は頭を抱えてその場にしゃがみ込んでいた。
「幽霊だ……。幽霊なんだ……! 幽霊が……幽霊が……!」
突然取り乱した俺を見て、同期は慌てて近くにいた仲間を呼んだ。
数人がかりで俺を支え、ロビーのソファへ座らせる。
一人がフロントへ駆け、水を持って戻ってきた。
差し出された冷たい水を、俺は一気に飲み干す。
震える唇を必死に動かした。
「出るんだ……。幽霊が……。兵隊の幽霊が……」
その言葉に、その場にいた四人が一斉に息をのんだ。
「このホテルに来た初日から……少しずつ近づいてきて……」
息が苦しい。
「昨日は……俺の目を……目をこじ開けようとしたんだ……」
思い出しただけで身体が震えた。
しばらく黙って話を聞いていた一人が、そっと俺の肩に手を置く。
「お前、新しい環境で疲れてるんだよ。今日は研修を休め。明日は休みだろ。一度家に帰って、ゆっくり寝たほうがいい」
その言葉に、胸が締めつけられた。
「……信じてくれないのか」
声が震える。
「俺がおかしいって言うのか……?」
涙が、頬を静かに伝った。
俺は立ち上がると、誰とも目を合わせず、その場を後にした。
研修会場へ向かっても、同期たちはどこか遠巻きに俺を見ている。
俺は一人、感情を失った人形のように、その場へ座り続けていた。
そして、夜はまたやってくる。
眠っているのか、起きているのか。
自分でも分からないまま、俺はベッドへ横たわっていた。
カチャ……。
カチャ……。
カチャ……。
(来た)
もう驚きはなかった。
俺は、その音を待っていたのかもしれない。
ゆっくりと身体を起こす。
今日は金縛りには遭っていなかった。
兵隊は昨日と同じ場所に立ち、じっと俺を見つめている。
やがて口が開いた。
「……お国のために、この命を捧げなければ」
ガサガサと擦れるような声。
耳で聞いているのか。
頭の中へ直接響いているのか。
もう、それすら分からなかった。
「お国のために、この命を捧げなければ」
壊れた機械のように、同じ言葉だけを繰り返す。
次の日も。
その次の日も。
一週間が過ぎても。
一か月が過ぎても。
兵隊は毎晩現れ、同じ言葉を口にした。
『お国のために、この命を捧げなければ』
その言葉を聞くたび、社長の言葉が頭に浮かぶ。
『この会社をより良くしていくために、一緒に働いてほしい』
会社のために。
会社のために……。
頭の中で、その二つの言葉が少しずつ混ざり合っていく。
『この会社のために、命を捧げなければ』
いつからだろう。
その言葉に、違和感を覚えなくなっていた。
研修が始まって、二か月ほどが過ぎていた。
(そうか……)
(この会社に命を捧げれば、もう終わるんだ)
その考えが浮かんだ瞬間、不思議なくらい心が軽くなった。
ようやく解放される。
そんな安堵さえ覚えた。
俺はシーツをドアノブへ掛け、静かに輪を作る。
その輪へ、ゆっくりと頭を通した。
「……会社のために、命を捧げなければ」
カチャ……。
カチャ……。
カチャ……。
兵隊の腰に下げられた銃が、歩くたびに軍靴へ触れ、小さく音を立てながら遠ざかっていった。