経理課・木下紬の恋のバグ
第27話 人事異動
鬼塚部長が役員会へ「抗議書」を正式に提出してから、わずか二日後のことだった。
三階のオフィスに、突き刺さるような冷たい緊張感が再び走った。
全社員のパソコンの画面の右下に、経営企画部からの臨時の「人事異動通知」が一斉にポップアップされたのだ。
その画面が明滅するたびに、あちこちのデスクから息を呑む音が聞こえ、フロア全体が騒然とした蜂の巣をつついたような騒ぎに包まれていく。
「……嘘でしょう……。こんなの、あからさまな見せしめじゃない……! 本気で現場を潰す気なの……!?」
隣の席の藤沢先輩が、液晶画面を見つめたまま、怒りと信じられないというショックで声を激しく震わせていた。
藤沢先輩は紬のデスクへと身を乗り出し、紬の少し震える手をそっと包み込むように握りしめてくれた。
紬が冷える指先で自分の画面を確認すると、そこには室井統括部長の冷酷な承認印とともに、現場をバラバラに引き裂くあまりにも残酷な辞令が並んでいた。
『営業部・ライフスタイル家電担当 長谷川律。本日付を以て、九州支所の物流管理倉庫への転属を命ずる』
『経理課 木下紬。本日付を以て、新設の「アベニールデータ入力管理室」への専任を命ずる』
「長谷川さんが、九州の倉庫に左遷……!? 私も、経理課から無理やり外される……?」
紬は目の前が真っ暗になり、あまりの理不尽さに呼吸をすることすら忘れて自席の前に立ち尽くした。心臓が嫌な音を立ててバクバクと脈打っている。
この五年間、みんなと必死に支え合ってきた大切な居場所が、画面の一命令だけで呆気なく奪われていく。
長谷川の異動先は、実質的な追い出し部屋と呼ばれる地方の古い閑職だった。配送センターを救ったはずのエース営業マンが、一番遠い場所へ飛ばされる。
そして紬の新しい部署は、本社の地下にある薄暗い物置のような部屋で、一人きりでアベニールの計算機にただ数字を打ち込み続けるだけの、完全に組織から孤立した監獄のような場所だった。
「室井統括は、いったい何を考えているんだ……! 会社の危機を救うために現場の意地を見せた部下を、こんな不当な扱いでバラバラにするなんて、どういうことだ!」
営業部フロアの奥で、自身のデスクの画面に映る辞令を凝視していた鬼塚部長が、怒りのあまりに拳を叩きつけて立ち上がった。
いつもは紳士的で冷静な鬼塚部長が、自身のデスクを強く叩き、悔しさに顔を真っ赤に染めている。その大きな背中が細かく震えていた。
「抗議書を出した私を処分するならまだしも、私の大切な手足を奪って、私をこの席に縛り付けたまま孤立させる気か……! なんて卑劣な真似を……っ!」
鬼塚部長は歯を食いしばり、役員フロアがある上の天井を睨みつけるようにして悔しさを滲ませた。
反逆した自分をクビにすれば現場の反発を招くからこそ、優秀な部下だけを奪って自分の無力さを思い知らせる。
それこそが、室井とアベニールの下した、最も冷酷で計算され尽くした「報復人事」の正体だった。
「大河内くん! 君は経理部の長だろう! 木下さんがこんな理不尽な目に遭っているのに、何も言えないのか!」
鬼塚部長がそのまま経理課のデスクへ向かって怒りをぶつけるが、大河内部長は自分のパソコンの陰に隠れるようにして、冷や汗を流しながら完全に黙り込んでいた。
「――感情を排してください。すべてはアベニールが算出した、組織最適化のための適正な配置です」
冷たく澄んだ声とともに、経理課のフロアの入り口に、スマートな佇まいで瀬尾蓮が静かに姿を現した。
その手には最新のタブレットがスマートに握られ、黒縁メガネの奥の一重の瞳は、いつも通りの冷徹な光を放っている。
フロア中の社員たちからの怒りと不信の視線が突き刺さるなかでも、彼は眉一つ動かさなかった。
「長谷川さんの営業力は地方の物流効率化に、木下さんの的確な経理知識はアベニールのデータ補正に。それぞれが最も『費用対効果』を発揮できる場所を、システムが論理的に選んだだけです」
丁寧なスマートな敬語のまま、私たちのこれまでの絆や努力をすべて「不要なノイズ」として切り捨てる冷酷なロジック。
紬は瀬尾の真っ直ぐな瞳をじっと見つめたが、そこには昨夜、隣の席で必死にデスクトップのキーボードを叩いてくれた、あの不器用な優しさの欠片も残っていなかった。
まるで最初から冷たいロボットに戻ってしまったかのような冷淡さだった。
「瀬尾主任……。あなたは、本当にこれでいいと思っているんですか……?」
紬が悔しさに声を震わせながら瀬尾の正面に立ちはだかると、瀬尾は一瞬だけ、黒縁メガネの奥の瞳を微かに揺らしたように見えた。
彼の白い喉仏が、何かを言いかけるように僅かに動いたが、彼はすぐにいつもの能面のような冷淡な表情に戻り、静かに目を伏せた。
「システム(アベニール)の決定は絶対です。感情に流されるのは時間の無駄です。速やかに、新しい部署への荷物の移動を開始してください」
そう冷たく言い残すと、瀬尾は一度も紬と目を合わせることなく、足早に別室へと去っていった。
フロアに残された紬は、引き裂かれる長谷川の席を見つめた。長谷川は何も言わず、ただ静かに自分の手帳を鞄へ仕舞い、デスクの片付けを始めていた。
冷たい機械の包囲網の前に、かつてない絶望と激しい理不尽な悔しさが押し寄せ、紬はただ涙がこぼれそうになるのを必死に堪えて、拳を強く握りしめることしかできなかった。
三階のオフィスに、突き刺さるような冷たい緊張感が再び走った。
全社員のパソコンの画面の右下に、経営企画部からの臨時の「人事異動通知」が一斉にポップアップされたのだ。
その画面が明滅するたびに、あちこちのデスクから息を呑む音が聞こえ、フロア全体が騒然とした蜂の巣をつついたような騒ぎに包まれていく。
「……嘘でしょう……。こんなの、あからさまな見せしめじゃない……! 本気で現場を潰す気なの……!?」
隣の席の藤沢先輩が、液晶画面を見つめたまま、怒りと信じられないというショックで声を激しく震わせていた。
藤沢先輩は紬のデスクへと身を乗り出し、紬の少し震える手をそっと包み込むように握りしめてくれた。
紬が冷える指先で自分の画面を確認すると、そこには室井統括部長の冷酷な承認印とともに、現場をバラバラに引き裂くあまりにも残酷な辞令が並んでいた。
『営業部・ライフスタイル家電担当 長谷川律。本日付を以て、九州支所の物流管理倉庫への転属を命ずる』
『経理課 木下紬。本日付を以て、新設の「アベニールデータ入力管理室」への専任を命ずる』
「長谷川さんが、九州の倉庫に左遷……!? 私も、経理課から無理やり外される……?」
紬は目の前が真っ暗になり、あまりの理不尽さに呼吸をすることすら忘れて自席の前に立ち尽くした。心臓が嫌な音を立ててバクバクと脈打っている。
この五年間、みんなと必死に支え合ってきた大切な居場所が、画面の一命令だけで呆気なく奪われていく。
長谷川の異動先は、実質的な追い出し部屋と呼ばれる地方の古い閑職だった。配送センターを救ったはずのエース営業マンが、一番遠い場所へ飛ばされる。
そして紬の新しい部署は、本社の地下にある薄暗い物置のような部屋で、一人きりでアベニールの計算機にただ数字を打ち込み続けるだけの、完全に組織から孤立した監獄のような場所だった。
「室井統括は、いったい何を考えているんだ……! 会社の危機を救うために現場の意地を見せた部下を、こんな不当な扱いでバラバラにするなんて、どういうことだ!」
営業部フロアの奥で、自身のデスクの画面に映る辞令を凝視していた鬼塚部長が、怒りのあまりに拳を叩きつけて立ち上がった。
いつもは紳士的で冷静な鬼塚部長が、自身のデスクを強く叩き、悔しさに顔を真っ赤に染めている。その大きな背中が細かく震えていた。
「抗議書を出した私を処分するならまだしも、私の大切な手足を奪って、私をこの席に縛り付けたまま孤立させる気か……! なんて卑劣な真似を……っ!」
鬼塚部長は歯を食いしばり、役員フロアがある上の天井を睨みつけるようにして悔しさを滲ませた。
反逆した自分をクビにすれば現場の反発を招くからこそ、優秀な部下だけを奪って自分の無力さを思い知らせる。
それこそが、室井とアベニールの下した、最も冷酷で計算され尽くした「報復人事」の正体だった。
「大河内くん! 君は経理部の長だろう! 木下さんがこんな理不尽な目に遭っているのに、何も言えないのか!」
鬼塚部長がそのまま経理課のデスクへ向かって怒りをぶつけるが、大河内部長は自分のパソコンの陰に隠れるようにして、冷や汗を流しながら完全に黙り込んでいた。
「――感情を排してください。すべてはアベニールが算出した、組織最適化のための適正な配置です」
冷たく澄んだ声とともに、経理課のフロアの入り口に、スマートな佇まいで瀬尾蓮が静かに姿を現した。
その手には最新のタブレットがスマートに握られ、黒縁メガネの奥の一重の瞳は、いつも通りの冷徹な光を放っている。
フロア中の社員たちからの怒りと不信の視線が突き刺さるなかでも、彼は眉一つ動かさなかった。
「長谷川さんの営業力は地方の物流効率化に、木下さんの的確な経理知識はアベニールのデータ補正に。それぞれが最も『費用対効果』を発揮できる場所を、システムが論理的に選んだだけです」
丁寧なスマートな敬語のまま、私たちのこれまでの絆や努力をすべて「不要なノイズ」として切り捨てる冷酷なロジック。
紬は瀬尾の真っ直ぐな瞳をじっと見つめたが、そこには昨夜、隣の席で必死にデスクトップのキーボードを叩いてくれた、あの不器用な優しさの欠片も残っていなかった。
まるで最初から冷たいロボットに戻ってしまったかのような冷淡さだった。
「瀬尾主任……。あなたは、本当にこれでいいと思っているんですか……?」
紬が悔しさに声を震わせながら瀬尾の正面に立ちはだかると、瀬尾は一瞬だけ、黒縁メガネの奥の瞳を微かに揺らしたように見えた。
彼の白い喉仏が、何かを言いかけるように僅かに動いたが、彼はすぐにいつもの能面のような冷淡な表情に戻り、静かに目を伏せた。
「システム(アベニール)の決定は絶対です。感情に流されるのは時間の無駄です。速やかに、新しい部署への荷物の移動を開始してください」
そう冷たく言い残すと、瀬尾は一度も紬と目を合わせることなく、足早に別室へと去っていった。
フロアに残された紬は、引き裂かれる長谷川の席を見つめた。長谷川は何も言わず、ただ静かに自分の手帳を鞄へ仕舞い、デスクの片付けを始めていた。
冷たい機械の包囲網の前に、かつてない絶望と激しい理不尽な悔しさが押し寄せ、紬はただ涙がこぼれそうになるのを必死に堪えて、拳を強く握りしめることしかできなかった。