経理課・木下紬の恋のバグ

第28話 旅立ちの前の夜

 長谷川が九州の物流倉庫へと出発する、前日の夜のことだった。

 不当な人事異動に伴う経理課の書類の片付けや、引き継ぎ作業に追われ、気がつけばオフィスの壁掛け時計の針は夜の九時を優に回っていた。

 この五年間、毎日のように座り慣れていた経理課の自分のデスクをすべて綺麗に片付け、身の回りの私物を小さな段ボールにまとめた紬は、重い足取りで本社ビルの勝手口から外へと出た。

 夜のオフィス街には、季節外れの冷たい夜風がビュービューと強く吹き抜けている。

 紬は段ボールを抱え直して首をすくめ、駅へと歩き出そうとしたその時、街灯の薄暗いオレンジ色の光のなかに、見覚えのある長身の影がぽつんと佇んでいるのが見えた。

「――あ、紬ちゃん。待ってたよ」

 冷たい街灯の柱に背を預けていた長谷川が、紬の姿を見つけると、いつものような人懐っこい笑顔を浮かべて真っ直ぐに歩み寄ってきた。

 その大きな手のひらには、あの日、二人きりでこっそりと隠れた非常階段の夜と同じ、自販機で買ったばかりの熱い微糖の缶コーヒーが二つしっかりと握られていた。

「長谷川さん……。どうして、こんなに遅い時間までここにいるんですか……」

「いや、明日からもう、こうやって紬ちゃんとゆっくり話すこともできなくなっちゃうからさ。最後に一目だけ、挨拶したくてね」

 長谷川はそう言って、手元の温かい缶を紬の冷え切った手のひらの上へと、そっと優しく握らせてくれた。

「少しだけ、並んで歩かない? 駅の改札までさ」

 彼のいつもより少しだけ寂しげな、でもどこまでも優しい眼差しに見つめられ、紬は言葉を詰まらせながら、黙って小さく頷くことしかできなかった。

 二人は並んで、人通りのすっかり少なくなった夜の静かな歩道をゆっくりと歩き始めた。

 缶コーヒーからじわじわと伝わってくる熱が、私物の入った段ボールを抱えて冷え切っていた紬の指先を、心地よく温めていく。

「九州の倉庫、明日の朝一番の飛行機で行くんだ。鬼塚部長や営業部の佐藤さんには『すぐに本社に返り咲いてみせますから!』なんて大見え切っちゃったけどね」

 長谷川は缶コーヒーを一口飲むと、遠くの暗い夜空を見上げながら、ふっと小さく自嘲気味な苦笑いを漏らした。

「でもさ、本当はちょっと、めちゃくちゃ悔しいな。あんな四角いパソコンの画面の数字だけで、俺たちのこれまでの努力を『無駄なバグ』なんて言われて、こうやって引き裂かれるなんてさ」

 いつも前向きで、どんな逆境のエラーでも笑い飛ばしていた営業部のエースが、初めて紬の前の帰り道で口にした、生々しい本音の弱音。

 その低く掠れた彼の声を聞いた瞬間、紬の胸の奥が、痛いほどにギチギチと強く締め付けられた。

「無駄なんかじゃありません……! 長谷川さんのしてきた仕事は、絶対に間違っていません!」

 紬は思わず歩みを止め、手の中のコーヒーがこぼれそうになるのも構わず、長谷川の少し驚いた顔を真っ直ぐに見つめて声を大にして叫んでいた。

「私がアベニールの冷酷な仕様に負けずに、ここまで折れずにこれたのは、長谷川さんがあの非常階段で、あの温かい言葉をご褒美にくれたからです。長谷川さんは、私の大切なヒーローなんです……っ!」

 気づけば、ずっと目元の奥で抑えていた涙が、紬の頬を伝ってポロポロと激しくこぼれ落ちていた。

 長谷川が明日から遠くへ行ってしまう。

 その残酷な現実を真っ正面から突きつけられて初めて、紬は自分の心の奥底に眠っていた、彼に対する引き返せないほど大きな感情(恋心)に、今、はっきりと気づかされていた。

 長谷川は驚いたように丸く目を見開いたが、すぐにその端正な顔を柔らかく、愛おしそうに緩めると、一歩、紬との距離をぐっと縮めてきた。

 彼の着こなしたワイシャツの袖口から、あの深夜のオフィスと同じ、焼き立てのミルクパンのような、甘くて香ばしい香りがふわりと鼻腔をくすぐる。

「……ありがとう、紬ちゃん。その言葉だけで、俺、九州のどれだけ暗い倉庫でもいくらでも一人で戦えるよ」

 長谷川はそっと大きくて長い両手を伸ばすと、紬の涙で濡れた両頬を、その温かい手のひらで優しく包み込んでくれた。彼の手のひらの熱さが、紬の涙をじんわりと溶かしていく。

「アベニールが『不採算で改善不可能』って切り捨てた九州の古い倉庫をさ、俺の手で、AIの予測を遥かに超える国内最高効率の物流拠点に生まれ変わらせてみせるよ」

 長谷川はそう言うと、いつもの負けず嫌いなエースらしい強い光を瞳の奥に蘇らせた。

「現場の人間の力で、アベニールの計算の鼻を明かしてやる。室井統括に『長谷川を今すぐ本社に戻さないと大損失だ』って力ずくで認めさせて、必ずここに戻ってくるから。その時は――」

 長谷川はそこでわざと一瞬言葉を切ると、紬の頭を愛おしそうに自分の胸元へポンと抱き寄せ、耳元で低く、確固たる大人の誓いを囁いた。

「その時は、俺の隣にいてほしい。……じゃあ、行ってくるね」

 長谷川はゆっくりと手を離すと、いつもの眩しい太陽のような笑顔を最後に残し、振り返って夜の駅の改札へと力強い足取りで歩き去っていった。

 遠ざかっていく、彼の広くて頼もしい背中。

 紬は手の中の温かい缶コーヒーをぎゅっと胸元に強く抱きしめた。

 涙をグッと拭って、彼が戻ってくるその日まで、地下の監獄(アベニール)で孤独なデータ入力作業の戦いに絶対に勝利してみせると、静かに、しかし激しく心に誓うのだった。
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