経理課・木下紬の恋のバグ

第29話 孤独な日々

 長谷川が九州の物流センターへと旅立ってから、早くも約一ヶ月の月日が流れていた。

 本社の最下層、普段は一般の社員が誰も立ち入ることのない地下の薄暗い奥まった場所に、その部屋はあった。

 「アベニールデータ入力管理室」と書かれたプラスチックの無機質なプレートが、まるで立ち入り禁止の看板のように、冷たくグレーの扉に掲げられている。

 部屋の中には外の光が入る窓が一つもなく、あるのは白く冷たく光る巨大な液晶ディスプレイと、紬の座る古い事務椅子だけだった。

 天井の古い蛍光灯がブーン、ブーンと低い嫌な音を立てて部屋を不気味に照らし、換気扇の無機質な回転音が容赦なく紬の肌を冷やしていく。

 引き出しを開ければ建付けが悪いのか、ガタガタと不快な軋み音が狭い部屋の中に虚しく響き渡った。

「……本当に、私一人きりなんだな。一ヶ月経っても、この静けさには慣れないや」

 ぽつりと小さく呟いた声が、冷たいコンクリートの壁に虚しく反響して消えていった。

 紬は異動する直前に、経理課の藤沢先輩が「地下の物置部屋はね、コンクリートに囲まれているから、地上の熱が届かなくて夜になると初夏でも体調を崩すくらい底冷えするのよ」と言っていた。

 聞いたときは半信半疑だったが、実際ここ来て納得した。

 そして、自分のことのように涙ぐみながら、私物の薄手の大判ブランケットを手渡してくれた。そのブランケットを、そっと足元に掛け直した。

 ここでは、これまでのように、隣の席で先輩と「お疲れ様」と笑い合ったり、営業部の佐藤さんたちからフランクに書類の相談を受けたりすることは、もう一切ない。

 人間らしい温かい繋がりを完全に遮断されたこの地下室で、紬はこの一ヶ月間、アベニールが社内の各部署から吸い上げた膨大な財務データを、ただひたすら手動でシステムにインプットしていた。

 静まり返った部屋の中に、キーボードを叩く「カタカタ、カタカタ」という乾いたタイピング音だけが、朝から夕方まで虚しく響き渡る。

 紬はデスクの手元に置いた、あの旅立ちの前の夜に長谷川さんからもらった、冷たい缶コーヒーの空き缶をそっと愛おしそうに見つめた。

『寂しいけれど……でも、私には長谷川さんのあの熱い逆転の誓いがある。職人のお父さんのエールもある。ここで折れるわけにはいかない』

 機械の出す圧倒的なスピードに、自分の心を殺されてたまるものか。私は私のプロとしての目を信じて、ここで仕事を全うする。

 そう強く自分に言い聞かせ、アベニールが吐き出す次期の経営計画データを冷徹にチェックしていた、その時だった。

 紬の目が、一ヶ月間入力し続けてきたからこそ気づいた、一円単位の奇妙な数字の歪みへと向けられた。

「……あれ? この仕入れルートの収支予測、何か絶対におかしくない……?」

 紬はマウスを握る人差し指の動きをピタリと止め、ディスプレイの数字の羅列を鋭く睨みつけた。

 画面に映し出されていたのは、アベニールが算出した「我が社の来期における、主要部品仕入れルートの完全自動化計画」の予測データだった。

 アベニールは、日東ライフスタイル商事が創業以来から長年強い信頼を寄せてきた国内の優秀な部品メーカーとの契約をすべて打ち切り、海外の無名な安価のサプライチェーンへと100%切り替えるという、あまりにも極端なコストカットの数値を提示していたのだ。

『確かに、この画面の数字の通りにすれば、目先の『費用対効果』は劇的に上がる。けど……』

 紬は経理のプロとしての血が、数々の財務リスクを見てきた経験が、脳裏で本能的な大アラートを鳴らしているのを感じていた。

 これを原価計算書や仕入れ予算のデータと突き合わせてみると、突き合わせるほどその歪さが浮き彫りになっていく。

 これほど極端に海外依存のルートに切り替えれば、もし昨今の激しい為替の乱高下や、主要国による不当な関税障壁の引き上げ、さらには突発的な地政学的リスクが起きた瞬間、我が社の物流と製品づくりは一発で完全に崩壊してしまう。

 いくらアベニールの計算スピードが超高速だとしても、この予測データはあまりにも「現実のリスク管理」の視点が完全に抜け落ちていた。

「これじゃ、効率化どころか、会社を破滅に導く、完璧な『システムの暴走』じゃない……!」

 紬は驚愕し、小脇に抱えていた私物のノートを急いで開き、その歪な数字の推移をペンで素早くメモしていった。

 室井統括や瀬尾主任が「100%正しい、完璧な最適解だ」と盲信しているアベニールは、今、自らの超高速の計算スピードゆえに、誰も気づかない致命的な大エラーを静かに始めようとしていたのだ。

 手の中のペンを白くなるほど強く握りしめながら、紬は地下の暗闇の中で、この最悪の暴走を止めるための反撃のチャンスを、静かに、しかし熱く狙い始めるのだった。
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