経理課・木下紬の恋のバグ
第30話 瀬尾への宣戦布告
「――地下の冷え切った環境は、どうですか」
静まり返った部屋のグレーのドアが静かに開き、冷たく澄んだ声がコンクリートの壁に低く反響した。
驚いて紬が顔を上げると、そこにはネイビーのジャケットを端正に着こなした瀬尾蓮が、いつものように最新のタブレットを右手に持って立っていた。
手元の液晶画面から放たれる白い光が、彼の整った冷淡な横顔を静かに照らし出している。
「瀬尾主任……。わざわざこんな地下の物置のような部屋まで、何の御用ですか?」
紬は足元に掛けた藤沢先輩の温かいひざ掛けを少しだけ整え、液晶画面から瀬尾の黒縁メガネの奥にある冷たい瞳へと視線を移した。
「経営企画部からの定時進捗確認です。あなたがデータを滞りなくシステムにインプットしているか、管理側としてチェックしに来ました。それ以上の他意はありません」
瀬尾は相変わらずロボットのような硬い敬語を崩さず、淡々と無機質なトーンで言い放った。
しかし、その視線は一瞬だけ、紬のデスクの端に置かれた長谷川の空き缶へと向けられ、不快そうに微かに細められた。
けれど、紬はもう、昨日までの上層部の命令にただ怯えていた自分ではなかった。
「進捗確認でしたら、今ちょうど、アベニールが弾き出した来期の経営計画データを入力し終えたところです。……ですが瀬尾主任、この『海外仕入れルート完全自動化計画』の数値、一度ご自身の目で確認していただけませんか?」
「……確認、ですか? 入力されたデータに不備でもあったのですか」
瀬尾は眉を微かにひそめ、黒縁メガネの位置を綺麗な指先で小さく直しながら、冷淡な一重の瞳で紬の顔を見下ろした。
「データ自体の入力は完璧です。ですが、この計画の内容そのものが異常です。アベニールは目先の費用対効果の数字だけを計算して、国内の優秀な老舗部品メーカーとの契約をすべて打ち切ろうとしています」
紬は古い事務椅子から勢いよく立ち上がり、先ほど私物のノートにびっしりと書き留めた原価計算とリスク試算のページを、瀬尾の目の前に真っ直ぐに突きつけた。
「この計画には昨今の激しい為替の乱高下や、主要国による不当な関税障壁の引き上げといった、地政学的なリアルタイムのリスクが完全に抜け落ちています」
紬は私物のノートのページをさらに強く指し示し、一歩も引かずに瀬尾を見据えた。
コンクリートの四方を囲まれた地下室のなかで、彼女の言葉の一つ一つが、確かな重みを持って響き渡る。
「これでは製品づくりそのものがギャンブルになってしまう」
紬はそこで一度言葉を区切ると、手元に広げた原価計算書を瀬尾の目の前へと滑らせた。
ディスプレイの青白い光に照らされた彼女の瞳には、かつての弱気な経理課員の面影はどこにもない。
「ですから、今すぐ室井統括に報告し、この計画を一度見直していただく必要があります」
かつてない強い意志を秘めた、プロとしてのあまりにも的確な進言。
紬のシャープな経理のプロとしての指摘に対し、瀬尾は一瞬だけ白い喉仏を動かし、言葉を詰まらせたように見えたが、すぐに冷徹な表情に戻った。
「それらの変動リスクは、過去十年の世界経済統計データから算出された想定内の許容範囲です。アベニールの計算に間違いはありません」
瀬尾は手元のタブレットの画面に目を落としたまま、紬の意見を拒絶するように、淡々と無機質な正論を突き返してくる。
「また、過去のデータですか…… 今まさに世界中で保護主義的な関税の嵐が吹き荒れているんですよ!」
紬は一歩も引かず、瀬尾の真っ直ぐな瞳を正面から強く睨み据えて、狭い地下室に響き渡る声を張り上げた。
「もし明日、海外の仕入れルートが不当な関税や為替の暴落でストップしたら、我が社の物流と物づくりは一発で完全に崩壊します。このデータは最適解なんかじゃありません。会社を破滅に導く、完璧な『システムの暴走』です!」
経理のプロとして、数字の裏側にある現実の経営リスクの恐怖を突きつける紬の叫びが、冷たい部屋の中に激しく反響する。
静まり返る空間のなかで、瀬尾のタブレットを保持していた白い指先が、微かに、しかし確かに強張るのを紬は見逃さなかった。
完璧だと信じていた室井統括のAIシステムに、またしても自分では気づけなかった致命的な大バグを指摘され、彼のプロとしてのプライドが激しく揺れ動いているのが分かった。
「……あなたのその指摘は、ただの古い現場を守りたいという感情論の拡大解釈です。室井統括の下した決定が覆ることはありません」
瀬尾はそう冷たく言い放ったが、その声は日中のフロアで見せた圧倒的な冷酷さとは違い、どこか焦りを孕んで微かに震えていた。
「感情論じゃありません。私は日東ライフスタイル商事の経理として、この会社の信用と未来を守るために、あなたたちへ宣戦布告をしているんです」
紬は手の中のノートを指が白くなるほど強く握りしめ、驚きを隠せない顔のまま立ち尽くす瀬尾を、真っ直ぐに強い視線で見つめ返した。
「瀬尾主任。あなたたちのシステムが間違っていることを、私はこの地下室で、経理の数字を使って完璧に証明してみせます。機械の暴走は、人間が止めます」
退路を断った紬の毅然とした言葉が、冷たい監獄の空気を熱く、激しく変えていく。
その凜とした強い横顔から目を逸らすことができず、瀬尾はただ無言のまま、激しい葛藤を黒縁メガネの奥に滲ませて立ち尽くすことしかできなかった。
静まり返った部屋のグレーのドアが静かに開き、冷たく澄んだ声がコンクリートの壁に低く反響した。
驚いて紬が顔を上げると、そこにはネイビーのジャケットを端正に着こなした瀬尾蓮が、いつものように最新のタブレットを右手に持って立っていた。
手元の液晶画面から放たれる白い光が、彼の整った冷淡な横顔を静かに照らし出している。
「瀬尾主任……。わざわざこんな地下の物置のような部屋まで、何の御用ですか?」
紬は足元に掛けた藤沢先輩の温かいひざ掛けを少しだけ整え、液晶画面から瀬尾の黒縁メガネの奥にある冷たい瞳へと視線を移した。
「経営企画部からの定時進捗確認です。あなたがデータを滞りなくシステムにインプットしているか、管理側としてチェックしに来ました。それ以上の他意はありません」
瀬尾は相変わらずロボットのような硬い敬語を崩さず、淡々と無機質なトーンで言い放った。
しかし、その視線は一瞬だけ、紬のデスクの端に置かれた長谷川の空き缶へと向けられ、不快そうに微かに細められた。
けれど、紬はもう、昨日までの上層部の命令にただ怯えていた自分ではなかった。
「進捗確認でしたら、今ちょうど、アベニールが弾き出した来期の経営計画データを入力し終えたところです。……ですが瀬尾主任、この『海外仕入れルート完全自動化計画』の数値、一度ご自身の目で確認していただけませんか?」
「……確認、ですか? 入力されたデータに不備でもあったのですか」
瀬尾は眉を微かにひそめ、黒縁メガネの位置を綺麗な指先で小さく直しながら、冷淡な一重の瞳で紬の顔を見下ろした。
「データ自体の入力は完璧です。ですが、この計画の内容そのものが異常です。アベニールは目先の費用対効果の数字だけを計算して、国内の優秀な老舗部品メーカーとの契約をすべて打ち切ろうとしています」
紬は古い事務椅子から勢いよく立ち上がり、先ほど私物のノートにびっしりと書き留めた原価計算とリスク試算のページを、瀬尾の目の前に真っ直ぐに突きつけた。
「この計画には昨今の激しい為替の乱高下や、主要国による不当な関税障壁の引き上げといった、地政学的なリアルタイムのリスクが完全に抜け落ちています」
紬は私物のノートのページをさらに強く指し示し、一歩も引かずに瀬尾を見据えた。
コンクリートの四方を囲まれた地下室のなかで、彼女の言葉の一つ一つが、確かな重みを持って響き渡る。
「これでは製品づくりそのものがギャンブルになってしまう」
紬はそこで一度言葉を区切ると、手元に広げた原価計算書を瀬尾の目の前へと滑らせた。
ディスプレイの青白い光に照らされた彼女の瞳には、かつての弱気な経理課員の面影はどこにもない。
「ですから、今すぐ室井統括に報告し、この計画を一度見直していただく必要があります」
かつてない強い意志を秘めた、プロとしてのあまりにも的確な進言。
紬のシャープな経理のプロとしての指摘に対し、瀬尾は一瞬だけ白い喉仏を動かし、言葉を詰まらせたように見えたが、すぐに冷徹な表情に戻った。
「それらの変動リスクは、過去十年の世界経済統計データから算出された想定内の許容範囲です。アベニールの計算に間違いはありません」
瀬尾は手元のタブレットの画面に目を落としたまま、紬の意見を拒絶するように、淡々と無機質な正論を突き返してくる。
「また、過去のデータですか…… 今まさに世界中で保護主義的な関税の嵐が吹き荒れているんですよ!」
紬は一歩も引かず、瀬尾の真っ直ぐな瞳を正面から強く睨み据えて、狭い地下室に響き渡る声を張り上げた。
「もし明日、海外の仕入れルートが不当な関税や為替の暴落でストップしたら、我が社の物流と物づくりは一発で完全に崩壊します。このデータは最適解なんかじゃありません。会社を破滅に導く、完璧な『システムの暴走』です!」
経理のプロとして、数字の裏側にある現実の経営リスクの恐怖を突きつける紬の叫びが、冷たい部屋の中に激しく反響する。
静まり返る空間のなかで、瀬尾のタブレットを保持していた白い指先が、微かに、しかし確かに強張るのを紬は見逃さなかった。
完璧だと信じていた室井統括のAIシステムに、またしても自分では気づけなかった致命的な大バグを指摘され、彼のプロとしてのプライドが激しく揺れ動いているのが分かった。
「……あなたのその指摘は、ただの古い現場を守りたいという感情論の拡大解釈です。室井統括の下した決定が覆ることはありません」
瀬尾はそう冷たく言い放ったが、その声は日中のフロアで見せた圧倒的な冷酷さとは違い、どこか焦りを孕んで微かに震えていた。
「感情論じゃありません。私は日東ライフスタイル商事の経理として、この会社の信用と未来を守るために、あなたたちへ宣戦布告をしているんです」
紬は手の中のノートを指が白くなるほど強く握りしめ、驚きを隠せない顔のまま立ち尽くす瀬尾を、真っ直ぐに強い視線で見つめ返した。
「瀬尾主任。あなたたちのシステムが間違っていることを、私はこの地下室で、経理の数字を使って完璧に証明してみせます。機械の暴走は、人間が止めます」
退路を断った紬の毅然とした言葉が、冷たい監獄の空気を熱く、激しく変えていく。
その凜とした強い横顔から目を逸らすことができず、瀬尾はただ無言のまま、激しい葛藤を黒縁メガネの奥に滲ませて立ち尽くすことしかできなかった。