経理課・木下紬の恋のバグ

第31話 動き出したロジック

 地下室から五階のDX改革推進本部へと戻った瀬尾は、自席のデスクの前でただじっと立ち尽くしていた。

 彼の右手には、先ほどまで地下の物置のような部屋で、紬の目の前で固く握りしめていたタブレットが、液晶画面の白い光を静かに放っている。

 部屋の窓の外には、東京のオフィス街の夕暮れの美しい街並みが広がっていたが、瀬尾の頭の中は、先ほど地下室で木下紬が放ったあの毅然とした強い言葉で完全にジャックされていた。

『これでは製品づくりそのものがギャンブルになってしまう。機械の暴走は、人間が止めます』

「……不合理だ。あんなものは、ただの古い現場を盲信する経理課員の感情論に過ぎない」

 瀬尾はそう低く冷たい声で吐き捨てると、乱暴に椅子を引き、デスクトップパソコンの電源を即座に立ち上げた。

 しかし、彼の白く綺麗な指先は、キーボードの上に置かれたまま、一瞬だけピタリと凍りついたように動かなかった。

 感情論だと頭の中で切り捨てながらも、彼の脳裏には、紬が真っ直ぐに突きつけてきたあの私物のノートにびっしりと書かれた、完璧な原価計算と世界経済のリスク試算の正確な数字が焼き付いてどうしても離れないのだ。

「検証すればいい。僕の計算に、アベニールの導き出した最適解に、バグなど一ミリも存在しないことを証明すればいいだけだ」

 瀬尾は黒縁メガネの位置を鋭い指先で直すと、プロ用の開発画面を立ち上げ、アベニールの最深部の深層プログラムへと直接管理者としてログインした。

 カタカタカタ! カタカタカタ!

 静まり返った役員フロアの片隅で、瀬尾の猛烈なタイピング音が、まるで激しい銃撃戦のように激しく鳴り響き始める。

 彼はアベニールが算出した「我が社の来期における、海外仕入れルート完全自動化計画」のソースコードをハッキングするように逆探知し、その計算の根拠となったマクロ経済データを次々と画面に引き出していった。

 ディスプレイの光が彼の黒縁メガネの奥の一重の瞳を青白く照らし、難解な英語と数字の羅列が、おそろしい速度で上へ上へとスクロールされていく。

「為替の変動値、適正。主要国の関税率、適正。……いや、待て。これはどういうことだ」

 次のエンターキーを強く叩こうとした瀬尾の指先が、ディスプレイの光のなかで、冷水を浴びせられたようにピタリと静止した。

 アベニールの原価計算プログラムの最深部。

 そこに、室井統括部長が自身の「全権限」を使って、外部からのいかなるアクセスや修正をも受け付けないように強制的にロックをかけて非公開化している、奇妙なデータブロックが存在していたのだ。

「……何だ、この暗号化された変数は。アベニールの公式なアルゴリズムには、こんな仕様は存在しないはずだ」

 瀬尾は眉を深くひそめ、黒縁メガネの奥の一重の目を鋭く細めた。彼の心臓が、不穏な予感に嫌な音を立ててバクバクと鳴り響く。

 彼は室井の監視の目を盗むように、自らのハッカーとしての世界最高峰の技術を総動員し、そのロックされたデータの中身を強引に解読(デコード)していった。

 画面が激しく明滅し、解析のプログレスバーがパーセンテージを上げていく。やがて、画面に浮かび上がってきたのは、世界経済の予測データなどではなかった。

 それは、特定の海外サプライチェーンからDX改革推進本部、すなわち室井統括の個人名義の海外口座へと、巨額の隠し資金が流れるように巧妙にプログラムされた、あまりにも歪な「裏のインセンティブ(キックバック)」の計算数式だったのだ。

「アベニール(AI)が暴走しているんじゃない……。室井統括が、最初から自分の私利私欲のために、アベニールの予測データを裏で『改ざん』していたのか……」

 瀬尾はディスプレイを見つめたまま、生まれて初めて、自分の信じていた「完璧なロジック」が足元から音を立てて崩れ去っていくのを、おそろしいほどの戦慄と吐き気とともに実感していた。

 完璧な計算機の裏に隠されていた、人間の醜い不合理な犯罪のバグ。

 そのあまりの衝撃の前に、瀬尾はただ息を呑み、キーボードを握る両手をわななきながら、夜のオフィスの暗闇のなかで激しく立ち尽くすことしかできなかった
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