経理課・木下紬の恋のバグ
第32話 秘密の同盟
時計の針は、すでに夜の十時を回っていた。
本社の最下層、静まり返った地下のデータ入力管理室で、紬はまだ一人、狂ったようにパソコンのキーボードを叩き続けていた。
アベニールが弾き出した、あのリスクだらけの「海外仕入れルート完全自動化計画」の異常な数字。
経理のプロとしてどうしても見過ごすことができず、昨今の激しい為替の乱高下や不当な関税が起きた場合の損失シミュレーションを、夢中になって過去の財務データと突き合わせながら計算していたのだ。
一つのバグも見落とさない。完璧な裏付けを取って、あの冷酷なシステムを絶対に止めてみせる。
その強い執念だけで、目の前の数字の山に没頭しているうちに、時間の感覚は完全に吹き飛び、気がつけば夜の十時を過ぎていた。
地上の昼間の熱気が一切届かない地下室は、夜が更けるにつれて、コンクリートの壁から湿った冷気がじわじわと這い出してくる独特な底冷えに包まれていた。
紬は再び、藤沢先輩が貸してくれた薄手の大判ブランケットを肩からしっかりと羽織り直し、かじかむ指先を温めるように小さく息を吹きかけた。
気づけば時計の針は深夜1時を指していた。
その時、重いグレーの防音ドアが、ガチャリと大きな音を立てて勢いよく開いた。
「……瀬尾、主任?」
驚いて紬が振り返ると、そこには息を激しく切らせた瀬尾蓮が立っていた。
いつも端正に着こなしていたネイビーのジャケットは少し着崩れ、黒縁メガネの奥の瞳は、これまでに見たことがないほど激しく揺れ動いている。
彼もまた、地下室で紬から「システムの暴走」を指摘されて以来、自席で夢中になってアベニールの深層プログラムを逆探知し続け、室井の不正という恐ろしい真実に辿り着いた衝撃のまま、この時間まで気づかずに地下室へと走ってきたのだ。
瀬尾は紬のデスクの前まで大股で歩み寄ると、手元に持っていたタブレットの画面を、紬のキーボードの真横へと強く突きつけた。
「……木下さん。僕の、負けです。あなたの言った通り、アベニールの導き出したデータは完璧な最適解などではありませんでした」
瀬尾の低く掠れた声が、狭い地下室の静寂に重く響き渡る。
「え……? 瀬尾主任、いったいどういうことですか?」
紬が怪訝そうに突き出された液晶画面を覗き込むと、そこには難解なプログラムのソースコードの隙間に、赤くハイライトされた不気味な計算数式が浮かび上がっていた。
「アベニールが海外のサプライチェーンを執拗に推奨していたのは、アルゴリズムの暴走ではありません」
瀬尾はそこまで言うと、悔しさに奥歯をガタガタと震わせ、自身の細く綺麗な指先を血がにじむほど強く握りしめた。
「室井統括が、最初から特定の海外サプライチェーンから自身の海外口座へ、巨額のキックバックが流れるようにシステムを裏で『改ざん』していたんです。完璧なシステムを自分の私利私欲のために汚していたのは、室井統括本人でした」
「室井統括が、システムを不正に利用していた……!?」
紬はあまりの衝撃の事実に、椅子から半分立ち上がり、ディスプレイの数字を二度見した。
「ええ。室井統括は、自分の私利私欲のためにアベニールという道具を汚し、それに気づきそうになった長谷川さんやあなたを邪魔者として排除した。……完璧なロジックの裏に、こんな醜い人間のバグが隠されていたなんて、僕は、本当に愚かでした」
瀬尾は深く首を垂れ、自身の信じていた世界が崩壊した絶望のなかで、何度も小さく首を振った。
彼が一人で抱えきれないほどの戦慄と闘っている姿を見て、紬はそっと手を伸ばし、彼の強張った肩にそっと触れた。
「瀬尾主任。自分を責めるのは終わりです。気づけたなら、まだ間に合います」
紬の真っ直ぐな、優しい声に、瀬尾はハッと弾かれたように顔を上げ、黒縁メガネの奥の瞳を微かに潤ませた。
「室井統括がアベニールの数字を書き換えたというなら、私たちはその不正の証拠を、経理の財務データを使って100%完璧に裏付けてみせます。機械を悪用する人間を止めるために、私に、あなたのプロの技術を貸してください」
紬は手元にある経理ノートを強く握りしめ、瀬尾の真っ直ぐな瞳を正面から強い視線で見つめ返した。
瀬尾は一瞬だけ呆気に取られたように紬の凜とした顔を見つめていたが、すぐにいつもの冷徹な、しかし今度は強い信頼を孕んだ瞳を取り戻した。
「……わかりました。アベニールの裏ログから、室井の不正口座への資金移動データを僕がすべてハッキングして抽出します。それを、あなたの経理データとカチリと噛み合わせて、完璧な『弾劾証拠』を作りましょう」
「はい! よろしくお願いします、瀬尾さん!」
紬が初めて、役職ではなく「瀬尾さん」と名前で呼んで微笑むと、瀬尾は気まずそうにフイッと顔を背け、再び猛烈な速度でデスクトップのキーボードを叩き始めた。
長谷川さんが外の現場で戦っているなら、私たちはこの社内のデータの最深部で、室井を倒すための包囲網を完成させる。
静まり返った午前一時の地下室で、二人の「データの共犯者」は隣り合って座り、巨大な悪を討つための確かな反撃のキーボードの音を、激しくオフィスの底に響かせ始めるのだった。
本社の最下層、静まり返った地下のデータ入力管理室で、紬はまだ一人、狂ったようにパソコンのキーボードを叩き続けていた。
アベニールが弾き出した、あのリスクだらけの「海外仕入れルート完全自動化計画」の異常な数字。
経理のプロとしてどうしても見過ごすことができず、昨今の激しい為替の乱高下や不当な関税が起きた場合の損失シミュレーションを、夢中になって過去の財務データと突き合わせながら計算していたのだ。
一つのバグも見落とさない。完璧な裏付けを取って、あの冷酷なシステムを絶対に止めてみせる。
その強い執念だけで、目の前の数字の山に没頭しているうちに、時間の感覚は完全に吹き飛び、気がつけば夜の十時を過ぎていた。
地上の昼間の熱気が一切届かない地下室は、夜が更けるにつれて、コンクリートの壁から湿った冷気がじわじわと這い出してくる独特な底冷えに包まれていた。
紬は再び、藤沢先輩が貸してくれた薄手の大判ブランケットを肩からしっかりと羽織り直し、かじかむ指先を温めるように小さく息を吹きかけた。
気づけば時計の針は深夜1時を指していた。
その時、重いグレーの防音ドアが、ガチャリと大きな音を立てて勢いよく開いた。
「……瀬尾、主任?」
驚いて紬が振り返ると、そこには息を激しく切らせた瀬尾蓮が立っていた。
いつも端正に着こなしていたネイビーのジャケットは少し着崩れ、黒縁メガネの奥の瞳は、これまでに見たことがないほど激しく揺れ動いている。
彼もまた、地下室で紬から「システムの暴走」を指摘されて以来、自席で夢中になってアベニールの深層プログラムを逆探知し続け、室井の不正という恐ろしい真実に辿り着いた衝撃のまま、この時間まで気づかずに地下室へと走ってきたのだ。
瀬尾は紬のデスクの前まで大股で歩み寄ると、手元に持っていたタブレットの画面を、紬のキーボードの真横へと強く突きつけた。
「……木下さん。僕の、負けです。あなたの言った通り、アベニールの導き出したデータは完璧な最適解などではありませんでした」
瀬尾の低く掠れた声が、狭い地下室の静寂に重く響き渡る。
「え……? 瀬尾主任、いったいどういうことですか?」
紬が怪訝そうに突き出された液晶画面を覗き込むと、そこには難解なプログラムのソースコードの隙間に、赤くハイライトされた不気味な計算数式が浮かび上がっていた。
「アベニールが海外のサプライチェーンを執拗に推奨していたのは、アルゴリズムの暴走ではありません」
瀬尾はそこまで言うと、悔しさに奥歯をガタガタと震わせ、自身の細く綺麗な指先を血がにじむほど強く握りしめた。
「室井統括が、最初から特定の海外サプライチェーンから自身の海外口座へ、巨額のキックバックが流れるようにシステムを裏で『改ざん』していたんです。完璧なシステムを自分の私利私欲のために汚していたのは、室井統括本人でした」
「室井統括が、システムを不正に利用していた……!?」
紬はあまりの衝撃の事実に、椅子から半分立ち上がり、ディスプレイの数字を二度見した。
「ええ。室井統括は、自分の私利私欲のためにアベニールという道具を汚し、それに気づきそうになった長谷川さんやあなたを邪魔者として排除した。……完璧なロジックの裏に、こんな醜い人間のバグが隠されていたなんて、僕は、本当に愚かでした」
瀬尾は深く首を垂れ、自身の信じていた世界が崩壊した絶望のなかで、何度も小さく首を振った。
彼が一人で抱えきれないほどの戦慄と闘っている姿を見て、紬はそっと手を伸ばし、彼の強張った肩にそっと触れた。
「瀬尾主任。自分を責めるのは終わりです。気づけたなら、まだ間に合います」
紬の真っ直ぐな、優しい声に、瀬尾はハッと弾かれたように顔を上げ、黒縁メガネの奥の瞳を微かに潤ませた。
「室井統括がアベニールの数字を書き換えたというなら、私たちはその不正の証拠を、経理の財務データを使って100%完璧に裏付けてみせます。機械を悪用する人間を止めるために、私に、あなたのプロの技術を貸してください」
紬は手元にある経理ノートを強く握りしめ、瀬尾の真っ直ぐな瞳を正面から強い視線で見つめ返した。
瀬尾は一瞬だけ呆気に取られたように紬の凜とした顔を見つめていたが、すぐにいつもの冷徹な、しかし今度は強い信頼を孕んだ瞳を取り戻した。
「……わかりました。アベニールの裏ログから、室井の不正口座への資金移動データを僕がすべてハッキングして抽出します。それを、あなたの経理データとカチリと噛み合わせて、完璧な『弾劾証拠』を作りましょう」
「はい! よろしくお願いします、瀬尾さん!」
紬が初めて、役職ではなく「瀬尾さん」と名前で呼んで微笑むと、瀬尾は気まずそうにフイッと顔を背け、再び猛烈な速度でデスクトップのキーボードを叩き始めた。
長谷川さんが外の現場で戦っているなら、私たちはこの社内のデータの最深部で、室井を倒すための包囲網を完成させる。
静まり返った午前一時の地下室で、二人の「データの共犯者」は隣り合って座り、巨大な悪を討つための確かな反撃のキーボードの音を、激しくオフィスの底に響かせ始めるのだった。