経理課・木下紬の恋のバグ
第34話 IDとパスワード
地下室から三階のオフィスフロアへと戻ると、そこにはいつも通りの、しかし明らかに活気を失ってどんよりと沈み込んだ現場の風景が広がっていた。
長谷川のいない営業部の窓際のデスクはガランと寂しく、ディスプレイの冷たい光だけが虚しく反射している。
社員たちは室井統括の冷酷な監視に怯え、目を合わせることすら避けるようにただ無言でキーボードを叩いていた。
フロアには、エアコンの低い駆動音と乾いたタイピング音だけが不気味に響き渡り、まるで全員が冷たい機械の奴隷になってしまったかのようだった。
紬は手元にある経理ノートを強く胸に抱きしめ、まずはデスクで完全に項垂れているベテランの佐藤の元へと、足音を殺してそっと近づいた。
「佐藤さん、あの……少しだけ、いいですか。誰にも見られないように、画面の端で私のノートのメモを見てください」
紬が声を限界まで潜めて経理ノートを差し出すと、佐藤はビクッと肩を大きく震わせ、周囲を警戒しながらノートの文字に目を落とした。
そこには紬が地下室で必死に走り書きした、室井統括の海外サプライチェーンを使った裏金横領の事実と、瀬尾主任と練り上げた『全社員のIDを一斉に集中させてシステムを乗っ取る』という秘密の逆転作戦の全貌がびっしりと書き込まれていた。
佐藤の目が、みるみるうちに驚愕と怒りで大きく見開かれていく。
「え、えっ……!? これ、本当なのか、紬ちゃん……っ!」
佐藤は飛び上がりそうになるのを必死に堪え、驚愕で顔を真っ白に染めながら受話器を耳に当てるフリをして、紬に顔を近づけた。
「本当です。長谷川さんを九州の倉庫から呼び戻して、この理不尽な機械の支配を終わらせるために、佐藤さんのパソコンのログインIDとパスワードを今すぐ教えてください。瀬尾さんが上のフロアで待っています」
「……わかった。長谷川を、俺たちの自慢のエースをあんな場所に置いたままにできるか。喜んでやるよ」
佐藤は手を小さく震わせながら力強く頷くと、付箋に自分の大切なIDを手早く書き込み、誰にも見えないように紬の手のひらへと滑り込ませ、その上から自分の温かい手を重ねてくれた。
その手のぬくもりに、紬は胸の奥が熱くなる。
紬はその足で、実演販売担当の高橋や若手の鈴木、他の営業部員たちの元を書類の確認を装って順番に回り、水面下で一人ずつIDを回収していった。
部員たちは誰もが「長谷川のために」と、迷うことなく自身の端末の権限を紬に差し出してくれた。
「木下さん、私の席の周りで一体何をしているのかね。データ入力の仕事は終わったのかい」
経理課の奥から、事なかれ主義の大河内部長が怪訝そうな顔をして声をかけてきたが、隣の席の藤沢先輩がすかさず立ち上がってその視線を遮ってくれた。
「大河内部長、ちょうど良かったわ。今期の予算とアベニールのデータ修正の件で、至急確認してほしい書類が山ほどあるんです。奥の会議室で打ち合わせをしましょう!」
藤沢先輩はもっともらしい分厚い書類の束を抱え、紬に向かってパチッとウィンクをしてみせると、大河内を捕まえてそのまま会議室へと連れ去っていった。
先輩の完璧なアシストのおかげで、管理部経理課のメンバーのIDも一気に回収することができた。
最後に紬は、営業部のトップである鬼塚部長のデスクの前へと静かに立った。
「鬼塚部長。室井統括は、私たちの現場の誇りを『不要なバグ』と言って切り捨てました。ですが、バグを仕込んでいたのは、あちら側です」
紬がすべてを伝えて静かに頭を下げると、鬼塚部長は穏やかな紳士の笑みをすっと消し、静かに自身のIDが記載された最高管理者用のICカードを紬のノートの上へと置いた。
その動作には、長年現場を守ってきた生え抜きの長としての凄まじい威厳が満ちていた。
「……日東ライフスタイル商事の現場の底力、今こそ経営陣に見せてやろう。木下さん、営業部全員の命、預けるよ」
鬼塚部長のその重みのある力強い言葉を胸に、紬は集まった数十人分のIDの紙を握りしめ、冷たいアベニールを完全に包囲するための、最後の戦いの舞台へと向かって歩み出すのだった。
長谷川のいない営業部の窓際のデスクはガランと寂しく、ディスプレイの冷たい光だけが虚しく反射している。
社員たちは室井統括の冷酷な監視に怯え、目を合わせることすら避けるようにただ無言でキーボードを叩いていた。
フロアには、エアコンの低い駆動音と乾いたタイピング音だけが不気味に響き渡り、まるで全員が冷たい機械の奴隷になってしまったかのようだった。
紬は手元にある経理ノートを強く胸に抱きしめ、まずはデスクで完全に項垂れているベテランの佐藤の元へと、足音を殺してそっと近づいた。
「佐藤さん、あの……少しだけ、いいですか。誰にも見られないように、画面の端で私のノートのメモを見てください」
紬が声を限界まで潜めて経理ノートを差し出すと、佐藤はビクッと肩を大きく震わせ、周囲を警戒しながらノートの文字に目を落とした。
そこには紬が地下室で必死に走り書きした、室井統括の海外サプライチェーンを使った裏金横領の事実と、瀬尾主任と練り上げた『全社員のIDを一斉に集中させてシステムを乗っ取る』という秘密の逆転作戦の全貌がびっしりと書き込まれていた。
佐藤の目が、みるみるうちに驚愕と怒りで大きく見開かれていく。
「え、えっ……!? これ、本当なのか、紬ちゃん……っ!」
佐藤は飛び上がりそうになるのを必死に堪え、驚愕で顔を真っ白に染めながら受話器を耳に当てるフリをして、紬に顔を近づけた。
「本当です。長谷川さんを九州の倉庫から呼び戻して、この理不尽な機械の支配を終わらせるために、佐藤さんのパソコンのログインIDとパスワードを今すぐ教えてください。瀬尾さんが上のフロアで待っています」
「……わかった。長谷川を、俺たちの自慢のエースをあんな場所に置いたままにできるか。喜んでやるよ」
佐藤は手を小さく震わせながら力強く頷くと、付箋に自分の大切なIDを手早く書き込み、誰にも見えないように紬の手のひらへと滑り込ませ、その上から自分の温かい手を重ねてくれた。
その手のぬくもりに、紬は胸の奥が熱くなる。
紬はその足で、実演販売担当の高橋や若手の鈴木、他の営業部員たちの元を書類の確認を装って順番に回り、水面下で一人ずつIDを回収していった。
部員たちは誰もが「長谷川のために」と、迷うことなく自身の端末の権限を紬に差し出してくれた。
「木下さん、私の席の周りで一体何をしているのかね。データ入力の仕事は終わったのかい」
経理課の奥から、事なかれ主義の大河内部長が怪訝そうな顔をして声をかけてきたが、隣の席の藤沢先輩がすかさず立ち上がってその視線を遮ってくれた。
「大河内部長、ちょうど良かったわ。今期の予算とアベニールのデータ修正の件で、至急確認してほしい書類が山ほどあるんです。奥の会議室で打ち合わせをしましょう!」
藤沢先輩はもっともらしい分厚い書類の束を抱え、紬に向かってパチッとウィンクをしてみせると、大河内を捕まえてそのまま会議室へと連れ去っていった。
先輩の完璧なアシストのおかげで、管理部経理課のメンバーのIDも一気に回収することができた。
最後に紬は、営業部のトップである鬼塚部長のデスクの前へと静かに立った。
「鬼塚部長。室井統括は、私たちの現場の誇りを『不要なバグ』と言って切り捨てました。ですが、バグを仕込んでいたのは、あちら側です」
紬がすべてを伝えて静かに頭を下げると、鬼塚部長は穏やかな紳士の笑みをすっと消し、静かに自身のIDが記載された最高管理者用のICカードを紬のノートの上へと置いた。
その動作には、長年現場を守ってきた生え抜きの長としての凄まじい威厳が満ちていた。
「……日東ライフスタイル商事の現場の底力、今こそ経営陣に見せてやろう。木下さん、営業部全員の命、預けるよ」
鬼塚部長のその重みのある力強い言葉を胸に、紬は集まった数十人分のIDの紙を握りしめ、冷たいアベニールを完全に包囲するための、最後の戦いの舞台へと向かって歩み出すのだった。